《予想外大賞》パソコン物語
〜思えば、我ながらよくぞ成し遂げた大変身よ〜

プロローグ:高校の授業での苦闘
私の『元祖』文章入力体験:論文作成=大学時代
2ヶ月坊主に終わったパソコン教室
アルバイト先での『定番ジョーク』;やがてノートパソコン購入へ
21世紀初年、大変身元年
パソコン常連化、デジカメ購入、ホームページ初体験
ホームページ総合管理者に;そして・・・・・
エピローグ:人生の、ある『2勝2敗』

※印刷をして手元で読みたい方は、Word版をどうぞ(写真は割愛しております)


プロローグ:高校の授業での苦闘


 今でこそ、ある程度自由にパソコンを操作し、職場でも、『パソコンが得意な人、上から何番目』と言われるようになったこの私。しかし、もともとは、パソコンに向かう姿自体、想像出来ないというほど、大のパソコン苦手、そしてパソコン嫌いだった。


 「将来は、一家に一台パソコンという時代が来る。」と囁かれながらも、まだまだ日常生活の世界としては、パソコンは馴染みがなかった1980年代末、私は高校で、コンピューターの授業があった。思えばそれが、私とパソコンとの、最初の出会いであった。
 当時のパソコンは、まだWindowsなんて影も形もなく、MS−DOSというOS(Operating System)だった。そして、内容は主に筆算の形での足し算や掛け算、つまり計算機能で、そのための書式設定なども含まれていたのだが、これは現在のExcelの前身にあたる機能で、確か『ロータス1−2−3』と言われていた。ほかに応用編として、少し難しい数式設定などの課題も出されていたのだが、この、コンピューターの授業に、全く付いていけなかったのが、私であった。学年で1番かどうかは分からないが、恐らく一番良くても♀w年で下から3番目ぐらいの成績だったと思う。
 先生自身はすごく丁寧に、何回も教えてくれるのであるが、授業が始まって数分経った段階で、既に言語の意味が分からないのである。見慣れた数字が、化け物みたいに見えた。小学生の時から知っている簡単な数式記号(>+−=<など)が、得体の知れない、宇宙の文字のように思えたのである。
 出来ないことに加え、何回も先生に『個別指導』を受けてようやく理解してパソコンを操作しようとすると、今度は不用意に違うキーボードを押す、つまり、押し間違えるというトラブルを続出させた。これは今でもよく見られる現象であるが、「ああ分かった!やったぞ!」と思い、大ハリキリでいざキーボードを押そうとすると、そういう時に限っていきなり打ち間違いをしてしまうのだ。それも、あとは『確定キー』を1回押せばそれで作業完了となるのに、うっかり『取り消しキー』を押してしまうとか、押そうとしていたキーの一つ隣のキーを、本当にハズミのように押してしまい、その結果、全ての設定が狂ってしまったというような、一番悔しいミスである。
 『分かっているのにミスをする』、『あと一歩で完了だったのに、うっかりミスで全てが振り出しに戻る』。
 こんなお粗末な行為を、私は特にコンピューターの授業で何回やったか分からない。そのたびに一人パニックになり、感情的にすっかり訳が分からなくなって、ヒステリーを勃発させた。周りのクラスメートがみんな引いてしまっていたのは、言うまでもないだろう。


 元来、私はヒステリー症のような性格をしている。それで現在も周囲に迷惑をかけ続けているのは、十分承知しているのであるが、いくら反省をしても、少しも改まる気配がない。あの高校の授業の時も、今思えば隣の席の人にどれだけ嫌な思いをさせたか。考えただけで顔から火が出る思いである。


 今となっては、恥ずかしいながらも懐かしい思い出となっているが、あの当時は本当に、悔しいだけの地獄のような日々(汗)だった。あのコンピューターという物体を見ただけで拒絶反応を起こしそうだったし、周りの人に対するコンプレックス、そして日々取り残される事に対しての、トラウマのような感覚さえあった。
 「コンピューターさえなければ、オレも苦しまなくて済んだし、友達からの評価も、もうちょっとマシだっただろうに。」とは、よく思ったものである。とにかく無理難解。居残り常連ナンバーワン。当に『腫れ物に触る心地』で受けていた、コンピューターの授業であった。そして強く思っていた。
 「俺はパソコンには向いていない。あんな物は、出来る限り使わないでいきたい。」と・・・・・。


私の『元祖』文章入力体験:論文作成=大学時代


 上で述べた、高校時代のパソコン体験というのは、必修科目の授業という形でしていたに過ぎず、その内容も表計算のみであった。しかし、本来パソコンでのメインの作業というのは、むしろ文章の入力で、ただ打つだけではなく、打ったものを印刷するという工程も、含まれると思う。そういう意味での、私にとっての最初のパソコン体験、正確には、最初の文章入力体験は、大学時代の論文作成であった。多くのクラスで、論文やエッセイを書く課題が出され、そのうち約半数が、『手書き厳禁、タイプ入力のみ受け付ける』というものだったのだ。全くのアナログ人間であった私にとっては、なかなか厳しい条件だったが、ある日私はタイプライラーを購入し、それで論文などを作成していた。また、ルームメートがワープロを持っていて、それを貸してもらった事もある。タイプライターはまだ使いこなせたが、ワープロは、これも色々な設定がなかなかややこしくて、『曲者』であった。卒業後も、私は親からもらったワープロを使ったことがあったが、細かい訂正や変換などの機能をなかなか使いこなせず、格闘する状況は変わらずであった。


 さて、パソコンでの文章入力であるが、実は私は、過去のエッセイでも述べたことがあるのだが、大学は日本ではなく、ハワイにあるアメリカの大学に留学していたのである。従って、言葉は全て英語で、文章入力も当然、数字や記号以外はアルファベットのみである。だから、漢字変換や、全角半角の切り替えというのは無く、その点は楽であった。しかし、思うように操作出来ないことは度々で、特に当時のパソコンは今と違って、いきなりプログラムを終了しようとした時に、『このデータは保存されていません』とか、『変更を上書きにして保存しますか?』とか訊いてくれなかった。そのため、絶対に気をつけて保存をしておかないと、うっかりでも終了したら、その瞬間、今まで打ってきたものが消えてしまうという悲劇に見舞われるのだ。
 私もこれを何回もやってしまい、そのたびに地団太を踏んだものだった。さらには、パソコン自体のエラー(バグなど)や、突然の停電さえ起こったことがあって、あと少しで終わりのデータが、一瞬にして消えてしまった時の虚無感というのは、相当なものであった。万が一の時に備えて、自動バックアップファイルが保存されているなんて事も、当時はまだ無かった。


 大嫌いなパソコンでも、大学の宿題や試験のために何回も文章を入力したことによって、タイピングのスピードは、さすがに速くなった。その一方で、思うように画面が切り替わらなかったり、うっかり違うボタンを押して変な画面が出るも、なかなか元に戻らなかったり(プラウザの『戻る=Return』というのも、あったかどうか分からない)というトラブルは度々であった。他にもちょっとした事、例えば、改行がうまくいかなかったり、印刷をしようとした時に、うまく指示出しが出来なかったり、あまりにも細かいことをいちいち訊いてきて(画面に表示されてきて)、どれを選択して良いのか分からないという事があったり、とにかく『試練』が続いた。
 結局いずれの場合も、自分がパソコンを扱えず、トラブル解決法知らないがために、思い切り苦しんだのだった。高校時代に続き、大学でも、私の『パソコン音痴』はすっかり『定説』になってしまった。あの、高校での悪夢が蘇っていた。


 4回生になると、卒論を書かなければならなくなった。私にとって、28ページに及んだ卒論が、それまでの生涯で最もパソコンを使った仕事≠ニなった。作成当時は、この卒論が、私の生涯を通じても、最もパソコンを使った作業となるに違いない、と思い込んでいた。論文の作成期間は、96年1月〜5月であったのだが、当時使っていたパソコンは、現在でも何年かに1回は再会している親友の物で、いつも彼の部屋に使わせてもらいに行っていた。そしてOSは、当時最新鋭だった、Windows95だったのだ。今となっては『生きた化石』みたいに感じるWindows95も、この時はまさに花盛りであった。そして、パソコンに弱い私は、立ち上げと終了は毎回その友達にやってもらい、自力では、Word(この前年に、大学のパソコンで初めて使ったと思う)の立ち上げと文章入力、上書き保存(確かデスクトップに)、それに終了(Wordの)のみをやっていた。
 96年5月、締め切り1週間前に迫った段階でようやく卒論を提出、何とか卒業出来るに至ったが、パソコン音痴の私に最大限のフォローもして、ずっと使わせてくれたその親友には、今でも本当に感謝している。そしてWordの、自動設定フォントでの文章入力と、下線引きや太字化に限り、卒論を機に完全に使いこなせるようになった。パソコンを提供してくれていた親友からは、
「これからの時代は、ワープロの使い方は知っておかないとダメだよ。」と、言われたものであった。


2ヶ月坊主に終わったパソコン教室


 大学卒業後、日本に帰国してきた私は、ひたすら就職活動に没頭する毎日となった。その一方で、暇な時間、学生時代の友人などに手紙を書く事もあったのだが、その時は極力ワープロを使うようにした。先ほど書いた、大学の親友からの、「これからの時代は、ワープロの使い方は知っておかないとダメだよ。」という言葉が、頭に残っていたからだ。実は、その親友というのは、私より2年後輩で、年齢も3つ下であった。しかし、自分より後から社会に出る人から飛んできたということで、彼の言葉はかえって信憑性が高かったのである。ワープロは、前にも書いたとおり、何回使っても細かい操作法を覚えられずに苦労の連続であったが、そんな中確か8月ぐらいだっただろうか?母が私に進言してきた。
 「パソコン教室に通いなさい。」
 「へ!?」と一瞬キョトンとしながらも、私は早々に行きやすそうなパソコン教室を見つけ、週に1度、バイトが休みの日に通うことになった。
 この頃、求人広告の多くには、『MACが使えること』と書かれてあった。MAC、つまりマッキントッシュであるが、今でこそ何の違和感もなくこの言葉を(そしてWindowsという言葉も)しゃべれても、この当時は、パソコン関係の言葉を口にしただけで、妙な抵抗感ありありで、歯が浮きそうになっていた。そもそもマッキントッシュというのが、パソコンの具体的に何を指しているのかも、皆目見当がつかなかった。OSという言葉も、私の脳内辞典には無かったと思う。


 パソコン教室には、結局9月から通い始めたが、そこのパソコンも、『MAC』であった。そしていつも自分以外にほとんど生徒はおらず、先生と私とのマンツーマン授業になる事が多かった。その意味では、最初に密かに抱いていた、「高校時代のように、いっぱい生徒がいる中、自分一人毎回付いていけないなんて事になったらどうしよう?」という不安は、杞憂に終わったと言える。


 授業では、主にグラフや表の作成の仕方、つまり、一太郎の使い方を習っていた。自分の操作一つで、いきなりグラフの色や形が変わったり、表の縦枠や横枠(要するに、セルの列や行)が増えたり減ったりするのは、なかなか面白い世界ではあった。そして、ある時私は先生に、
「将来、もしパソコンが出来るようになったら、パソコンで音楽を作ってみたい。」
などと、とんでもない事を言った事があった。この当時は、まだ『恋愛の世界』というものにも、夢を抱き続けていた時代であり、また、就職→社会的自立に関して、常に心の中を不安がうごめいていた、灰色の時代であった。だから、そんな夢や不安を音楽に託して世に出し、人々の共感を得ようという、これまた現実離れした発想を持っていたのである。
 先生は、そんな私の言葉を笑うでもなく、ごく普通に応じてくれていたが、私も内心では、自分の話が夢物語にしかならないかも知れない事だとは、察しがついていた。若干23歳。夢先行型の人生観から、徐々に現実追求型の人生観に転換していこうという、まさに過度期の入口にいた当時の話である。
 音楽制作→CD発売というのは、パソコンがある程度堪能になった今でさえ、完全に夢見話である。


 ボチボチ続いていたパソコン教室であるが、当時、まだ家にもパソコンが無かった事から、復習というのは出来なかった(あってもしていたかどうかは、分からないが)。そして、秋も深まりし11月中旬、私は突然、パソコン教室を辞めてしまったのである。
 理由は、これまで通っていた曜日が、この頃ダメ元で受けたオーディションに合格した劇団に、通う日になったからだ。そう。私は劇団に入り、役者を目指す事になったのである。これもまた、今思えば途方も無い、『夢見計画』であったが、とにもかくにも、曜日的に通える日が他に無く、自分が行ける日はパソコン教室が休みとあって日程の調整がつかなくなった事から、何の躊躇もなく辞めてしまった。


 今思えば、続けていた方が、将来のためには良かっただろう。しかし、そういうまともなビジョンは、この頃の私にはまだ持てる器が無かった。


アルバイト先での『定番ジョーク』;やがてノートパソコン購入へ


 パソコン教室を辞めて以降、少なくとも丸2年は、一度たりともパソコンに手を触れない生活が続いた。このころ、母親もパソコンを購入し、ついに我が家にもパソコンが来るという時代に突入したのであるが、
「何かスゴイ感じだねぇ。自分の家の中に、パソコンがあるなんてさぁ。」と思った以外に、何も反応を示さなかった。母は毎日パソコンに夢中になり、いろいろとマスターしていっていたと思う。そして時折、当時急速に広まりつつあったインターネットも行い、私に、
「あんたも面白いから、やってみなよ。これ、誰々のホームページがこうやって出てくるねんで。」
と、かなりテンションも上がりながら話してきた。
 しかし、私のほうは全くの無反応であった。インターネットというのは確かに聞いた事があったが、結局は何で、どうなっているのかよく分からない。恐らく、その構造を聞いたところで、自分では付いていけないだろう、と思っていた。
 ホームページというのも、パソコンの画面に、何か人の顔写真やメッセージが出てくるなぁ、と思っただけで、それ以上は何なのかサッパリ分からなかった。そもそも、何でいきなり画面にそういうものが表示されてくるのか、全くチンプンカンプンだったし、インターネットとホームページの関係や違いというのも、トンと理解出来なかった。
 私が家のパソコンを見ても、一向に興味を示さないことから、母は、
「あんたもちょっとぐらい興味持って、やってみたらいいのに。」とひとこと言ったきり、その後はパソコン中には声をかけなくなった。


 やがて私は、ある事務所でバイトを始めることになる。25歳の秋の事であったが、現在の私の職場(の前身)である。
 当時、その事務所にはパソコンが1台あり、あらゆる機能を備えていた。まだISDNと呼ばれていた、毎回接続&切断方式のインターネットもなされており、大学生の頃、少しだけ友達のを拝見して全然興味が湧かなかった、Eメールも盛んに行われていた。
 そう言えば、母も家のパソコンでEメールをやっており、ある時高校時代の友達から、私宛のEメールが届いた事があった。その友達に送った年賀状が、母と私と共通仕様で作ったもので、メールアドレスが記入されていたからである。向こうは私もEメールをやるものと思っていたのかも知れないが、実際には、インターネット接続やメールソフトの起動などの作業は全て母がやり、私はろくにマスターしようともせず、辛うじてメールの文章だけ入力して、サッサと終わってしまった。


 さて、事務所でのバイトであるが、私が勤め始めてしばらくして、その職場第二号のパソコンがやってきた。それまでの、テレビそっくりの外観のものに比べて、かなりの薄型になり、見るからに斬新さを漂わせていた。確かgatewayという機種だったと思うが、1998年11月のことだ。そのgatewayを、ある日、何と私が扱うことになったのである。といっても、一人で扱うわけではなく、横に人がいて、その人の指示通りに操作するのだ。実は私の仕事というのは、その職場で働く障害者の介護で、本人が手でパソコンを操作出来ないため、私が代わりに手を使うのだった。
 『だったら、まだ出来るだろう?』と思われるかも知れないが、それでも一つ一つの指示に関して、何回も説明をしてもらい、当に一歩一歩というペースで入力が進んでいく状態だった。この時使っていたソフトは主にExcelで、かつてパソコン教室で習ったこともあるものだったのだが、この時におこなった操作は、また違うものだったし、第一、もう昔習った内容は忘れていた。


 私の、あまりのパソコン苦手&飲み込み悪さぶりに、周囲も逆に面白がって、いきなり「さあ君、パソコンやろうか。」と、嬉しそうに言われたりもした。私は本気で焦っていたものだ。そして、極力パソコンを使わない、アナログ的な雑用をどんどん回してもらうようにし、他の人ならパソコンで作成するような書類も、私は専ら手書きで作成。それでも当時はまだ間に合っていた。まだまだ職場自体ものんびりしていた時代で、今とは隔世の感がある。
 「このまま、基本は何でも手書きで、世の中渡っていくんだ。」そんな考えを、半ば本気で持っていた私を指して、パソコンが得意な職員はしばしば、
「もしも、この人(=私のこと)が、パソコンが得意になったら。」とか言っていた。それを聞いて、みんなドッとウケていた。
 今風の言い方をするなら、「ゼッタイ有り得ないし!」という調子で、みんなウケていて、私自身も、悪びれずにウケていた。
 「もしも君がバリバリパソコンが出来るようになったら。」と言われるたびに、周りの人たちとともに、私自身も、まるで他人事のように笑い飛ばしていたのである。
 「そうそう。そんなオレの姿。およそ想像も出来ないワ。有り得ないシチュエーションナンバーワン!」とか言って、完全に開き直っていた。いつも言われていたこのジョークは、当時、私の職場で最も流行っていた内の一つで、週に2回、私が出勤してくる日には、完全に『定番ジョーク』となっていた。そしてこの『定番』が、もし定番でなくなる日が来るとしたら、それはみんながこのジョークに飽きたか、それとも私自身がこの職場を辞めてしまったか、どちらかしか理由はないだろうと確信していたのだ。


 しかし、やがてこのジョークが、思いもよらない形で終息に向かうことになる。その第一歩となる行動を、私は2001年1月末に起こしていた。ノートパソコンの購入である。当年27歳。実はこの時期、私は4年2ヶ月間在籍した劇団を退き、役者の世界から足を洗った上で、長らくバイトをしていた介護の事務所に就職する意志を、固めたのだ。この頃の私の働き方は、例のジョークは相変わらず受け入れながらも、明らかに正職員になることを意識してのものになっていた。そして、パソコンの台数も既に4台になっており、これはもう、今後はアナログだけでは通用しないと、ハッキリ悟ったのである。そこで、ハイテク化≠ノ向けて準備をしようと、やおらノートパソコン購入という、当時の私としては、この上に無い画期的な行動に出たのである。


 私がパソコン購入の話を母に打ち明けた時、母も「ようやく来たか。」というような顔をして喜んでいた。そして、まだその時点では右も左も分からなくて、自分で選べない私のために、母の知人で、パソコン博士という人に購入を依頼し、その人の職場に、私が現物を受け取りに行くとになった。その時に、その人からいろいろ基本操作も教えてもらう事に、相成ったのである。


21世紀初年、大変身元年


 「先ずここ、『スタート』っていう表示があるでしょ。ここに、この画面に出ている矢印ね。それを当てて下さい。そしたらね、右手にあるこれ。これ、マウスですね。右側を1回押して下さい。クリックって言うけどね。ハイ。そしたら、表示が出てきて、上のとこに『エクスプローラ』って書いてあるでしょ?これ、意味分かる?あ、分からないか。うん、これは探索とか、探検みたいな意味があるんだけど、要するにパソコンでは、一体このパソコンの中身はどうなっていて、どんなプログラムとか、どんなメニューが入っているのかを、探検してみましょう、みたいな感じ。ハイ。そこをクリックして下さい。あ、右じゃなくて、今度は左側をクリック。ハイ。そしたら・・・・・。」


 生まれて初めて、『ノートパソコン』なるものを目の前にした私が、購入してくれた人から最初に教わったのが、上に書いたことである。そのほか、『プログラム』をクリックすると表示されてくる、各機能を一通り解説してもらった。まるでパチンコ(やった事はないが)を思わせるようなゲーム機能や、母がよくやっているトランプを並べるやつ、それに電卓機能まであるのには驚いた。
 ここまでパソコンという物の中身を見たのはもちろん初。何だか段々興奮してきた。
 「このオレが、ついにパソコンを持つのか。このオレが・・・・・!想像もしていなかった事が起こった。これからどうなっていくのだろう?どう変わっていくのだろう・・・・・?」


 考えていくと、段々ワクワクしてきたが、パソコンを見て気持ちがプラス方向に動くこと自体、想像していない事だった。いかにこれからの就職に向けて、気合いが入っていたかという事だろう。流石に自分で「ここだ」と思った職場に正式に入るとあらば、苦手なパソコンに向き合う事も惜しまない、という事か。上で書いたように、パソコンの購入者がいろいろと説明をしてくれている時も、私は最大限に集中して聞いていたものだ。いや、集中するだけなら、パソコン教室でも一応集中して、真面目に取り組んでいた。しかし、常に心の真ん中に、「どうせ難しいだろうけど」、「どうせ無理だろうけど」という、マイナス思考が居座っていたのだ。
 今回は違った。「オレは出来る」、「頑張れば分かる」というプラス暗示を、かけ続けていたのである。実際、かけ続けなければならないという状況ではあった。しかしそれにしても、『昨日までのマイナスが今日はプラス』といった感じで、恐らく人生でも過去にあまり例を見ない、そして今後もここまでの勢いは体験しないであろうと思われるほどの、張りとパワーが出ていた。


 家に持ち帰って以降、私は早々にパソコンに関する本を買い、毎日パソコンを開いて練習していった。そしてインターネットにも、母のパソコンとラインを交代で使う形で接続し、初めて自分でインターネットを体験した。以前はあれほど何回も言われても覚えられなかった接続や切断の仕方も、この時ばかりは一発で覚えた。人間、化けるとどうなるか分からない、と思った。



 それにしても、自らパソコンの本を購入したり、パソコンショップにも足を向けてみるようになったり、熱心に研究してみたり・・・・・、ホント、新鮮なものであった。

買い込んだパソコンの本。これは現在の自宅に持ってきている物で、まだあと5冊程実家にある。
一番左の本は『Windows XP』と書かれてあるが、初代のノートパソコンはWindows meであった。



 さて、ジリジリとパソコンの基本ノウハウをマスターしつつあった2001年4月、晴れて現在の職場の正職員になった。すると、会議の議事録作成など、早速パソコンを使った仕事が出てきた。ただ、私はExcelこそ、バイト時代からの経験もあって、家でもかなり練習していたのであるが、WordやEメール、それも添付ファイル付きメールとなると、まだまだ分からない事が沢山あった。
 先輩職員が横で教えてくれたが、早過ぎて全然分からなかった。その上、1回の説明で私が理解出来ないと、途端にイライラしてきて、「もー!分からないんですか!」と言ってくる。意気揚々と仕事を始めたものの、すぐにパニックになってしまった。
 とにかく操作が速いのだ。口はそんなに早口ではなかったが、例えば私が間違えて何かを消してしまったり、改行がおかしくなって元に戻せなかったりした時に、その先輩は一瞬にして前の状態の画面に戻し、消えたはずのものがまた復活したりしたから、私は「何でこんな事が起こるのだ?」と、目を真ん丸くした。
 神業か?と思ったが、実はプラウザの『戻る』や、青色の矢印(前の操作に戻る、の意)をクリックしていたのであった。そういう機能の存在自体知らなかったから、ビックリしたわけだ。そしてメール添付の時も。そもそもパソコン上で『添付する』って、どういう事なのか分からない。メールと一緒に、何かファイルを送信出来ること自体、知らなかった。だから、その先輩がまた鬼の形相で、
 「添付って分かってないんですか?こうするんです。見ていて下さい。1回しかやりませんよ。」
と言いながら、シャカシャカと操作を始める。目の前に急にボックス(新しいWindow)が現れたり、他にも、どっからそんな画面を持ってきたのだ?という画面が急に現れたかと思うとすぐに消えたり、目まぐるしく変わるから、当然1回では理解出来なかった。
 「また今度、添付して送信をやってもらうかも知れませんよ。」という言葉が怖くてたまらず、私は家に帰って、また職場のパソコンでも(メールソフトのタイプが、それぞれ違っていた)、空いている時間にとにかく何回も練習したのを、よく覚えている。


 覚えたてのインターネットも、家でも職場でもどんどん体験を重ね、ホームページの中には、いろいろ趣味の面でも私の興味をそそるものもあるのだというのを、発見した。そしてもう一つ、この時期に、いわゆる『掲示板』というものの存在を知った。
 まだ、『ブログ』というものは存在していなかったが、掲示板に、自由に書き込みが出来るという事を知り、さらにハンドルネームなるものも存在するのだという事を、ホームページに書かれている説明などを読んでいると、分かった。そして、実は2000年の4月から、私の職場のホームページも、存在していたのだ。一応知ってはいたが、まともに見たのは、就職してからのような気がする。
 ホームページがあるなんて、何て進んでいるのだろう、と思ったものだった。普段毎日見ている事務所を、パソコンの画面で見るというのは、何か面白かった。一体どうやって作るんだろうなぁ?と不思議がったものだったが、さすがにパソコンやインターネットをマスター出来てきた自分も、ホームページなんていうのは、無理だろうなぁ、と思った。あんなものは、よほど高度で、専門的な技術を持っている人にしか出来ないだろうし、実際に普段管理していた先輩職員に聞いても、
「パソコンの中にタグがあって、それにいろいろ指示を出して作る。ややこしいよ。」と言っていたから、あまり難し過ぎることには手を出さないでおこう、と素直に思っていた。
 パソコンにタグがあるという状況が、サッパリ頭に描けなかったのであるが、これはつまり、HTMLソースのことである。


 家で職場で、パソコンとガップリ四つの水入り大相撲を演じていた2001年、奇しくも21世紀の幕開けの年でもあったこの年は、私にとって、『パソコンをする人』への大変身を遂げた、画期的な1年となった。年末ぐらいの時期になると、もう事務所での基本的なパソコン業務は、ほとんど自力で出来るようになってきた。それどころか、例えば『パソコンのデータを一旦フロッピーに落とす』とか、『こっちのパソコンからCD−ROMにデータを焼いておく』とか、『ISDNの回線に接続させる』などの、パソコン会話≠ノ、頭が付いていくようになったのだ。ほんの数ヶ月前まで、デスクトップへのアイコンの出し方も、アイコンの名前の変え方も、スクリーンセーバーのやり方も、何もかも知らなかった私が、である。
 ここまでの変身を、誰も予想していなかった。だからこそ、「もしもあなたがパソコンが出来るようになったら」というジョークが受け、定番となったのだが、この頃、もうそのジョークが聞かれることは、無くなっていった。


 思えば、私の横で、常に他の職員同士がパソコン会話≠する姿というのも、見ていて本当に羨ましかったものだ。
 「どうやったらあんな会話が出来るんだろう?」「どうやったら、意味が分かるんだろう?」と不思議に思い、憧れさえ抱いていたものであるが、いつの間にかこの私自身が、そのような会話に加わるようになった。周りも、最初は私がパソコンをやっているだけで、
「オー!あんたがパソコンをやっている!!」と、一大事みたいになっていたのが、段々パソコンの会話に絡んでいっても、反応が普通になっていった。


パソコン常連化、デジカメ購入、ホームページ初体験


 職員2年目である2002年になると、また新しい仕事を担当するようになった。一つは、広報誌の編集、そしてもう一つは、これが何とホームページの一部コーナーの更新だったのである。私はホームページなど、とても扱えたものじゃない。なのに何で?!と思ってビックリしていたら、上の人が、
「やり方は教える。そんなに思っているほど難しくない。それに、出来ないのは分かっているから、担当はごく一部だけで、ほかはこっちでやる。」と言ってくれて、とりあえずヤレヤレ・・・・・だった。


 ホームページの扱い方を教えてもらっても、一発で理解出来ないのではないか?と私は不安がったが、幸い、何とか1回で飲み込む事が出来た。そして、教えてもらう中で、『ホームページ・ビルダー』なるものの中身を少しだけ見た(ftp転送ツール)のであるが、何かローマ字と記号、ボタンや矢印がいっぱい並び、文字もやたら細かい、何者か全然分からない、といった印象を受けたものだった。
 とりあえず、コツコツと更新の仕事を続けていったわけだが、
 「一部分とはいえ、このオレが、ホームページなんか扱うようになるとはなぁ・・・・・。」
と、まだ半分実感が湧かない気分であった。
 もう一つの広報誌の編集では、一太郎の使い方をマスターしなくてはならなくなった。しかし、既にWordで経験を積んでいた分、それほど難しいことではなかった。編集長から主な機能を習い、順調に使いこなしていった。そして広報誌では写真をスキャナーで読み込んだり、デジカメで撮った画像をパソコンに読み込んで一太郎の画面に貼り付けたりする作業もあった。さらに画像を加工する作業や、ホームページ版の公開もあったりして、より高度な作業が入ってくるなぁと思ったが、それらの部分は全て編集長がやるということで、私は文章の入力や、印刷の段取り組みなどをやっていた。
 パソコンに関しては、この時点でもうすっかり不自由しなくなっていて、出勤するなり自らパソコンを開き、やおら事務処理のための入力を始めるのは、当たり前の光景となった。ようやく一人立ち≠果たせたのだった。
 予想外の大変身、そして私にしてみれば、奇跡だった。

 
 ところで、ちょうどこの頃、私は初めてデジカメも購入することになる。デジカメは、これより2年ほど前に、先ほど述べた編集長が個人で持っているデジカメを、1〜2度、使わせてもらったことがあった。説明を聞きながら使ったのであるが、何か重くて、より精密そうなカメラだと感じたのを覚えている。そしてその時は、私はデジカメにもフィルムが入っているものだとばっかり思っていて、そもそも何がデジタルなのか全然分からなかったのであるが、『フィルムはなく、パソコンに読み込んで、画像データとして保存する。現像することも出来る。』とのこと。
 「うわっ!パソコンに読み込むなんて、そんなややこしい作業はよう出来ん。そもそも、カメラとパソコンを、どうやったらつなげられるんだ?」と、即お手上げの気持ちになった。
 しかし、そんな私が、ついにデジカメを買うことになったのだ。2002年3月のことである。切っ掛けは、仕事のことも勿論あるのだが、趣味仲間から、『デジカメ買って、趣味である乗り物を撮影してみては?』と勧められたというのもある。
 実際に手に入れてみて、なるほど。カメラというもの、そして撮影というものに対する感覚が変わった。
 それまでは、カメラと言えば、服装に例えるならよそ行きの服装で、ちょっと日常とは違う、特別の持ち物という印象があったのだ。そして、写真を撮るという行為も、『記念のため』というのが通念であった。それが、デジカメの世界では、『記録のため』という感覚に変わり、『日常的に携帯する記録用ツールとして、デジカメがある』という、新感覚を持つに至ったのだ。
 だから勢い、撮りまくった。そしてパソコンへの読み込みやデータ処理方法も、説明書や自分の手探りでたちまちマスターしていったが、それとともにアナログカメラは、御用済みとなってしまったようだ。


 想像もしていなかったことだが、デジカメを持ち歩いて何かを撮影することが、2002年の春以降は、当たり前になった。職場も相前後してデジカメを購入し、仕事上でもデジカメを扱う機会は急速に増えた。何か行事がある時は必ずデジカメで記録を残すようになり、その主な担当が、まだユーザー歴数ヶ月だった私になったのである。
 今では、私とデジカメ、そして私とパソコンを切り離して考える事自体、有り得ないような感覚に、職場もなっている。


ホームページ総合管理者に;そして・・・・・


 2003年、私はパソコン→デジカメに続いて、ついに第三の分野に本格進出をした。即ち、職場のホームページの全体管理・更新である。
 私の『予想外ストーリー』は、ここにきていよいよクライマックスになってきた。
 前項で、ホームページの一部コーナーの更新を担当したと述べたが、その後、2002年10月になって、広報誌の編集長が突然退職。そのため、それまで編集長がやっていた、画像貼り付けや加工、さらにはホームページ版の作成といった仕事を、全部私が引き継がなければならなくなったのだ。いずれも編集長や上の人から教えてもらって、何とか出来るようにはなったのだが、ホームページの、リンクの挿入などの作業は当初は難しくてなかなか覚えられなかった。それがようやく自分のものになってくると、今度はホームページ全体を更新・管理をしていた上の人が、ほかの業務に忙殺されてホームページに手が回らなくなった。そのため、2003年の秋頃から、ついに私は、ホームページ全体の管理をする事になったのである。
 この私がホームページの管理・・・・・。ほんの2年半前、全然パソコンが出来なくて怒られていた頃は、想像もしなかった世界だが、あれよあれよと現実のものとなった。
 あんな、よほど高度な技術と知識を持った人にしか出来るわけがない、と思っていた作業を、自分がやるようになるとは・・・・・。
 ここまでくると、人生何が起こるか分からない、どんな不思議があるか分からないと、つくづく思えてくる。


 ホームページの作業というのは、確かにややこしかった。そしてロゴマークやテキスト、画像の挿入な壁紙の作成など、基本的なことは説明書を読んで出来ても、多くの細かい事は、実は説明書にも書かれていなかったのである。だけど私は、見よう見まねならぬ『やりようやりまね』、つまり、手探りと思い付きと勘の三拍子で、あれやこれやとイジってみて、暇を見つけてはビルダーの中でいろいろ実験≠熏sい、いつしかモノにするようになっていた。
 格闘は絶えなかったし、そもそもパソコンとの格闘は今もって収まることはないのだが、昔は自分が分からないが故にパニックを起こしていたのに対して、今ではパソコンのエラーで、思うように仕事が進まない事への苛立ちから、かんしゃく玉が爆発するようになっている。


 ホームページの魅力には、これまた予想外にとり付かれていった様である。私は一生、自分がホームページを持つ事は絶対に無いだろう、と思っていたのだが、ある日、自らホームページ・ビルダーを購入。さらに自分用の解説本も購入して、私個人のホームページの作成に取り掛かった。
 自身がホームページを持っているという、ある趣味仲間から、
 「君も趣味や日頃の活動を題材にしたホームページを作ってみれば?」
と、声をかけられた事も切っ掛けとなったのだが、とにもかくにも、ついに自らのホームページの作成に踏み切り、めでたく公開するに至ったのである。それがこの『トコトコ日記』で、2004年4月3日のことであった。
 それからというもの、私はパソコンというより、ホームページ『トコトコ日記』の管理が日課となった。今や完全にライフワークとなり、私という個人が、この世に存在していたのだという足跡(そくせき)を遺す、絶対最終の手段となっている。そんな、人生も感じるような思いで日々更新に励み、現在に至っている。

開設した『My ホームページ』。画像はトップページで、横列に並べてあるが、左が上半分、右が下半分である。
なお、これは開設初期のトップページであり、現在とはだいぶ感じが異なっている。



エピローグ:人生の、ある2勝2敗』


 初めて本当の意味でパソコンを勉強し始めてから丸6年、そして初めて本格的にホームページを扱い始めてから4年弱、ここまで出来る仕事を増やせ、ここまで『トコトコ日記』を育てることも出来たのは、当に感無量である。パソコンのお陰で、ストレスがたまったり、ある時は健康を害する局面にも立たされるようになったのは、一方で事実であるが、それでも昨今の、パソコン・インターネットの普及のすごさを見るに付け、図らずも時代に合った進化を、私は遂げてきたのだなぁ、と感心する。
 現在、私は容量の大きいデスクトップのパソコンを使用している。そして予備のノートパソコンもあるが、それも2代目である。一人でパソコンを2台持ち、おまけにプリンターやスキャナーも購入。扱えるようになった。改めて、画期的なことだ。
 スキャナーは、ある日、パソコンに滅法強い人の介護で使うことになったのが最初なのだが、既にパソコンもデジカメもマスターしていたため、少しも臆することなく、
「説明を聞きながらやったら出来る。絶対に大丈夫だ。」
と、元よりプラス思考になっていたのが印象深い。

現在私が使用している、デスクトップのパソコン。
メーカーはSOTECで、毎日これを開かない日はない。
ハードディスクの容量は250GBである。
現在は予備用となっている、2代目のノートパソコン。
メーカーはNEC。後ろに写るのはパソコンケースだが、
これにパソコンを入れて出勤した時は、何だか
エリートサラリーマン
みたいに感じられたものだった(照笑)。



 思い出す事がある。
 まだ若年で、社会人になったばかりの頃の事だ。
 心のどこかで、常に自己を分析し、将来を占っていた私は、『自分にはどうしても出来ないものが、4つある』と思っていた。その4つとは、『就職』、『パソコン』、『異性(彼女)』、『運転(車・バイク)』である。
 どう引っくり返っても、この4つに関しては一生ムリだろう、と予想していたのだ。
 ほかに、なかなか行動に移せないが、頑張れば何とか出来るだろうと見なしていたものとして、学生時代に下宿経験があった事から、『一人暮らし』が、さらにその下宿時代に多少の経験があったことから、『料理』があった。そして何と言っても、働いて生活をしていかなければならないのだから、仕事はしたかったのであるが、就職は厳しくても、『アルバイトで長期継続』なら見込めるのではないか?と思っていたのだ。つまり、何をやっても長続きしないという事は、決して無いだろうと見ていたわけだ。


 さて、『どうしても出来ない候補四天王』は、果たしてどういう結果になったか?
 最初は当然、0勝4敗で終わると思っていたし、もしどれか1勝出来るとすれば、消去法でいって『就職』しかないだろうと思っていた。当時はまだ、今ほどにはパソコンが普及しておらず、インターネットも草創期で、ここまで当たり前になるとはさすがに予測出来なかったから、何とかパソコン以外の業務で使ってもらえるところも、探せばあるかも知れない、という思いがあったのだ。これは今から見れば、とんでもない発想であるが・・・・・。
 結果はしかし、就職は出来た。それも、『パソコンが使えなくても』という条件など、全く必要ない形で出来たのである。


 パソコン・・・・・、就職と二厘三脚で、気が付けば苦手筆頭どころか、『得意分野の代表』となった。人に教える場面さえ珍しくなくなり、まさしく《予想外大賞》である。
 だから2勝2敗。私の人生、予想を覆す2勝2敗という結果になった。
 運転(車・バイク)は、残念ながらご勘弁だ。だが、出来なかった事があっても、出来た事もある。
 何も出来ずに終わった人生ではなく、何かが出来てそれが武器となり、社会貢献にもなる人生となった。それこそが素晴らしい。


 これからも私は、内心誇らしげに《予想外大賞》の看板を引っさげながら、『0から2へ引き上げた人生』を、涼しい顔してひょうひょうと、歩み続けたいと思う。
 では・・・・・、乾杯!!

(完)


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