JR鶴見線、南武線浜川崎支線、東急世田谷線 撮影:1993年12月25日〜27日、95年8月22日
1993(平成5)年も暮れに迫った12月27日、JR鶴見線大川支線で走っていた旧型国電、クモハ12型を訪ねました。言わずと知れた、東日本最後の旧型国電でしたが、この日、武蔵白石駅から乗車するつもりでいた私は、鶴見駅から103系に乗って出発しました。しかし次の国道駅を過ぎたところで、目の前をクモハ12がすれ違って行き、「あ!」と思って次の鶴見小野駅で下車しました。よく考えたら、鶴見−大川の系統も1日に数本あり、クモハ12が鶴見駅まで乗り入れていたのです(鶴見−海芝浦の系統にクモハ12が充当されていた時もあった)。「しまった!もう少し鶴見線の時刻表を注意してチェックして、鶴見駅で待っておけば良かった」と唇を噛みましたが、取り敢えず鶴見小野で待機し、折り返し大川行きでやってきたクモハ12を撮影、乗車しました。武蔵小野駅でのショットというのも、そう多くは存在しない筈で、鶴見発の103系で、もし反対側のシートに座っていたなら、恐らくすれ違いは見逃しただろうから、まあ良かったのかな?と思いました。なお、そのすれ違いですが、海芝浦発だった可能性もあります。


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『普段の起点』武蔵白石に停車中のクモハ12です。鶴見小野から乗ること4駅、『定位置』にやってきた訳ですが、この武蔵白石では、最初に扇島方面行きのホームに停車して降車扱いをした後、ダブルスイッチバックをして大川行きホームに入線するという状態になっていました。その一部始終を体験出来たのも良い思い出です。大川行き(4番線)ホームでは、かなり長い間停車をしていたので、ゆっくり撮影することが出来ました。もちろん、ダイヤの都合上そうなっていたのでしょうが、ファンにとってはいい撮影タイムでしたね(^^)。両正面の顔が大きく異なるのが特徴だったクモハ12。こちらが鶴見方面の顔ですが、『クモハ12型』と聞いてピンと来るのは1枚目の写真の顔、そして一般に『旧型国電』と聞いた時にイメージされるのが、この写真の顔でしたね。オデコに夕陽が生えるチョコ電=B1929(昭和4)年の製造から、65回目の正月を、間もなく迎えようとしていました。


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リベットの目立つ、クモハ12の側面です。2両在籍していた内、私がこの日乗ったのは12052でした。まさに昭和初期の堂々たる鋼体。貫禄たっぷりのチョコレート色は、同年代の車両である新京阪デイ100を想起させるものでもありました。武蔵白石駅のカーブの関係で、17m車しか入線出来ないという事情があったとはいえ、本来、次世代車両投入最前線となるJR首都圏に於いて、御年65歳の旧型国電が生き残っていたのは、誠に奇跡であり、およそ都会の圏内とは思えないローカルな駅の雰囲気も相まって、タイムスリップそのものでした。


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車内の様子です。一般の乗客も意外に(?)乗っていたので、少し気にしながらの撮影にはなりましたが、それでもレトロなムード満載の様子を何とか収めました。扇風機はまだしも、丸形の白熱電球は時代を感じさせますね。朝の混雑時は相当な乗車率になるので、両側扉間の車内中央に、手すりが付いていますね。薄緑色の内装に青色のシートというのはそれこそ、国鉄時代は通勤型〜近郊型を通じての標準でした。今こうして見ると、何だか保存展示してある車両の車内のようで、これで現役だったのかぁと、改めて感じ入ります。突き当たりの正面は乗務員室との仕切りにほとんど窓がない全室運転台で、上から2枚目の非貫通型正面のほうになります。ただ、大川行きホームに停車時点では、非貫通正面に対して反対側の扉が開いていたので、配線の様子から見てこれは浜川崎駅での撮影と思われます。


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こちらは大川方面先頭部分を車内から撮影したものですが、ご覧の通り、半室運転台でした。これは、同年代の東急3000系列や、大阪市営地下鉄開業時の車両にも見られ、この車両では後付けの手すりで仕切られていますが(乗務員扉は両側に有り)、かつての車掌は混雑時に苦労したと思います。閉まっている乗降扉が少しだけ写っていますが、途中に仕切りがある窓ガラスや、扉下半分の型取り線が本当に懐かしいです。


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大川方面の先頭を、今一度撮影しました。この車両が残存する理由となっていた武蔵白石の大川行きホームも、1996年3月に廃止され(カーブ改良工事が完了し、従ってこの車両も引退)、現在ではホーム共々、思い出の風景となりました。


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終点の大川駅です。大川では車両を撮影する余裕がなかったように記憶しています。駅舎を撮ったのみに終わりましたが、写っている少年は、いわゆる同業者≠ナすね。正面奥に見える建物は日清製粉で、JRの専用線が延びていましたが、1997年6月限りで廃止されました。駅舎はこの当時はまあまあきれいな感じだったのですが、近年に撮られた画像をネットで見ると、随分朽ち果てた感じに見えます。撮影当時は、まだ日中も列車があった大川支線。それから20年以上経った現在では、7,8,17〜20時台のみの運行(1日9往復)、土日祝に至っては、7,8,18時台に各1本のみ(3往復)の運行となっています。まさに過疎地のローカル線そのものと言っても過言ではないような『衰退駅』となり、手入れもすっかり行き届かなくなったのかも知れません。


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こちらは1993年のクリスマスに撮影した、南部線浜川崎支線の101系です。浜川崎支線は、南部線の終点川崎の一つ手前である尻手駅から浜川崎までの4.1kmの路線で間に2駅があり、私の地元阪急では、箕面線や嵐山線とほぼ同一です。1往復乗車してきましたが、夜の乗車だったので景色はほとんど分かりませんでしたね。浜川崎支線は、国鉄新性能車のパイオニアである101系が最後まで現役だった線区として知られ、2003年11月限りで引退しました。国鉄→JRとしては、モハ90型として1957(昭和32)年に登場して以来、46年間の活躍に幕を下ろしたことになりましたが、秩父鉄道に譲渡された車両はその後も同車1000系として、2014年3月まで運用されていました。塗装も内装も変わり、しかもワンマン運行になっていましたが、1988年8月に片町線で乗車して以来、5年振りの101系乗車であったと同時に、101系としては最後の乗車となりました。この10年後に、秩父鉄道1000系に乗車することとなります。


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浜川崎支線に乗った翌日、今度はこれも都会の中の残党旧型車、東急世田谷線70形に乗車しました。写真は1942(昭和17)年に製造された72号ですが、暗くなってからの撮影で、しかも少し離れた位置からの撮影となっています。夕刻で混んでいたこともありますが、初めて乗ったのだから、乗降駅いずれかで、もう少し近くで撮っても良かったですね。撮影場所は三軒茶屋で、終点の下高井戸まで乗りました。東急には、かつて本線系の路線にも緑色の旧型勢デハ3000系列が活躍していましたが、それらに乗る機会は残念ながら無く、十和田観光鉄道(現在廃止)に譲渡された車両に乗ったのが、唯一の乗車体験でした(撮影だけなら弘南鉄道大鰐線でもあり)。当時、まだ全国で多数残存していた『青ガエル』こと5000系も、本家東急からは姿を消して久しく、古き東急カラーを今に伝える車両は、世田谷線で見られるのみとなっていました。混雑時でもあったので車内は撮影出来ませんでしたが、JRクモハ12と共に、一度は訪ねてみたかった世田谷線70形に乗ることが出来て、本当に良かったです。


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東急世田谷線には、その後もう一度乗る機会がありました。初訪問から約2年後の1995年8月で、この時は昼間に乗車し、写真もしっかり近くから撮っています。同じく三軒茶屋での撮影で、この後最終的には下高井戸まで乗ったと思いますが、一度途中下車をしました。というのも、駅の沿道が、当時毎回見ていたドラマのロケ地で、そこを訪ねてみたかったからです。まだ役者を目指すという気持ちも沸き起こる前、ロケ地訪問という行動は、恐らくこの時が最初だったと思います。その関係もあって世田谷線に再乗車したのですね。この時の車両は82号で、1944(昭和19)年製ですから、72号と共に乗車時点では年齢は51歳でした。70形は、90年代に入って制御装置の更新を行い、ガルタン駆動になっています。私は、70形の走行音をしっかり憶えておらず、大変悔やまれるところですが、少なくとも93年の初乗車時は吊り掛け駆動だったような気がします。いずれにしても、古き味のある2連電車で、都電とはまた違った味がありました。車内もニス塗りの懐かしいものでしたが、何故か車内は撮らずじまいで、結局2度乗りながら外観のみの撮影に終わったのは惜しまれます。1999〜2001年に、世田谷線の全車両が低床形車両300形に置き換えられ、70形も2000年末までに全車引退、一気に近代化されました。


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