回想:愛犬に支えられし日々
〜まばたきの裏に蘇える、あの時代、この記憶〜
注:このエッセイは、まだハナを飼う話が出る前に書いたものです。

はじめに
トロと出会う運命を決定付けた瞬間・・・・・・・1988年8月29日
受験生$カ活と、『パートナー犬』の存在
生涯最高のクリスマスイブとなった、15歳の時の12月24日
祝:高校合格! わが人生最高の日・・・・・・・1989年2月27日
***高校合格以降、トロと過ごした半生***
成犬になったトロ
思春期を支える
父の死

『絶対の吸収盤』トロの終焉
遂に来た最期、そして忘れ得ぬクリスマスパーティー
おわりに

※印刷をして手元で読みたい方は、Word版をどうぞ(写真は割愛しております)


はじめに

 2004(平成16)年12月21日午前10時15分、16年間にわたり、私の『心の大黒柱』になってきた愛犬トロが、その生涯を終えた。大きな病気や事故もなく、満16年の生涯をまっとうしたのだから、まさに大往生と言えた。飼い主(私の親戚)をはじめ、周りのみんなに愛され、大切にされてきたトロをこの世から見送ることに、悔いや未練は一切なかった。しかしそれでも、寂しさという名の大きな『穴』は、私の心に深く残る事となった。2005年1月21日、トロの死から1ヶ月が過ぎたが、何とも長い1ヶ月であった。そして寂しさは日が経つにつれて、いっそう強く心に打ちつけるものとなり、その一方で一人の大人として、職場など、外ではそれなりに『立ち直った自分』を演じている。したがって、私の中のジレンマは、着実に大きくなることを余儀なくされている。
 飼い主である親戚は、2人暮らしでともに80歳代。もうかなり体力も衰えており、新たに犬を飼うことは事実上不可能である。そして私自身の家も、構造としてはマンションで庭もないため、動物を飼える環境ではない。お互いが共同で飼い主になるという形で新しい犬を飼おう、という話も出たのは出たのだが、正直不安材料も多く、実行に踏み切れる可能性は少ない。
 一体この先、『愛犬去りしのちの』人生はどう流れ、どのような形で寂しさを克服していくのか?まだ不透明な明日は続く・・・・・・・。


トロと出会う運命を決定付けた瞬間・・・・・・・1988年8月29日

 16年という、一匹の犬と過ごした時間としては恐らく自己最長であろう歳月を、ともに過ごしたトロ。そのトロとの出会いというのは、もちろん生涯最大の宝物であるのだが、実はある『事故』がきっかけとなっていた。
 

 1988(昭和63)年8月29日・・・・・・・・・・


 時に私、15歳1ヶ月。中学3年生で、いわゆる『受験生』と呼ばれる立場にあった。そしてこの時、のちにトロが来ることになる私の親戚の家には、ある別の愛犬がいた。その名はナナという、当年5歳5ヶ月であった。とにかくデブで(原因は私がビスケットを食べさせ過ぎたから)、私はいつも『デブブタボテドン』と呼んだり、大相撲で当時大関だった朝潮を連想させることから、『朝潮』と呼んだりしていた。このナナ、2歳の時に違う人からもらわれてきた犬だった。そのためだろうか?人なつきが悪く、最初は私のことも警戒ばかりしていた。しかし、根気よく(?)ビスケットを食べさせたり、じーっとアイコンタクトをしたりして(笑)、半年ぐらいのちには漸くなついてくれた。苦労した末に漸くなついたという事で、私としても思い入れは強いものがあった。いったんなつくと、私に一番なついてくれた。散歩にも毎日連れて行くようになり、この日も連れて行った。時刻は確か、夕方7時過ぎである。
 15分ほど散歩をした、帰り道であった。私は車の往来が多い通りを渡らなくてはならず、歩道のふちで車の列が途切れるのを待っていた。ナナは早く帰りたがっているのか、道路を渡ろうと前へ引っ張った。私が、「危ないから、まだ」と言って手前に引っ張り返すと、そのはずみで首輪がすっぽ抜けてしまったのである。ナナは反射的に道路へ飛び出した。ちょうど車が走ってきた。
 「あっ!あっ!危ないー・・・・・・」 → 車のブレーキが鈍い悲鳴をあげる → 『バーン!!!』
 不気味なまでに響く轟音とともに、ナナの体がペタリと横倒しになった。一瞬の出来事だった。ぶつかった白色の乗用車が、お化けみたいに大きく見えた。私は「あ〜っ!」と、ほとんど声にならない叫び声を上げ、一瞬ヘナヘナとその場に座り込んだ。そして車が途切れるが早いか、一目散にナナのもとへ駆け寄り、すぐに安全な場所へ移動させて飼い主を呼びに行った。
 ナナは既に死んでいた。首の骨が折れ、即死だった。飼い主が駆けつけてきた時、ナナの目は瞳孔が開いていた。外傷は全く無い。かすり傷一つ無かった。とても死んでいるなんて信じられなかったが、私の目の前で、一瞬にしてあの世へ行ってしまった。
 あまりの急な出来事に、私は悲しみさえも半分マヒ気味で、反応自体、失っていた。そして漸く冷静に出来事を思い出せるようになった時、初めて顔を覆って泣いた。号泣、というよりは、むしろ『むせび泣き』のような感じ。突然の悲劇を、心の半分ではまだ受け入れることが出来ずにいたが、断続的に、何時間も泣いた。もちろん、「自分のせいで死んだ」という“自責の念”も、相当強いものがあった。飼い主は、「あんたのせいじゃないよ」と言ってくれたが、私は、「いや、俺が道路を渡らなくていい場所に連れて行ってれば、ナナは死なずに済んだ」と、かぶりを振ってさらに悔しがった。自分の手で、自分の宝物≠殺してしまった、との思いは、その後も当分残ることとなった。
 翌日、既に冷たくなっていたナナの亡骸≠、私と飼い主は庭に墓を掘って埋めた。そして埋めた後、飼い主が言った一言が、こののち生まれてくる、ある一匹の犬の運命を決めた。
 「あんたもこのままでは立ち直られへんやろうし、この際だから代わりの犬を飼おう。かかりつけの獣医さんに、ナナと同じ種類の、それも子犬を一匹探してもらうよう頼むわ」
 この一言が命綱になって、私はその後、何とか立ち直ることが出来たのだった。また、この時にはナナ以外にも、ヒミコとクルという、年老いてはいたが2匹の犬がおり(『トロ以前の犬たち』参照)、その事も、私が早く立ち直るための力となった。


受験生$カ活と、『パートナー犬』の存在

 ただでさえ、犬に死なれるのは辛い。これは犬が好きで、飼った事のある人なら、誰でも共通して思うことである。特に私の場合は、自分の目の前で急に死なれたのだから、なおさらであった。この頃、私は来たる受験の追い込み期を乗り越えるためにも、特に犬が“必要”だったのだ。
 さらに、今でこそそのような事はないが、当時の私は、友達関係もあまりうまく築くことが出来ない状態であった。ことに中学時代後半の私というのは、今思えば「え?何で?」というような毎日を送っていた。クラスではほとんど口を開かず、一言でも何か話せば、「お、あいつがしゃべった!」と注目されるぐらいであった。休み時間、みんながカードゲームに興じていても、私は「寄せて」の一言がどうしても言い出せずに、いつも言葉を飲み込んでいる始末。冗談もろくに通じなかったし、一言冗談を言おうとすれば、気合いがバンバンに入り過ぎて空回りしていた。おかげで今でも中学時代というと、「・・・・・・」な心境になってしまうほどだ。
 一体何故ここまで歪んだ℃рノなってしまったのだろうか?生来の、人付き合いの苦手な性格によるところは、明らかに大きかったであろう。体力的にも、喘息持ちという関係もあって、周りのみんなより劣るというコンプレックスは常にあった。さらに『一人っ子』という、独特の環境で育ってきたがゆえの影響も、強く出ていたと思う。だが、もっと大きな理由が一つあった。それは、『受験』・『成績』というものを、過剰に意識していたことである。中学時代、私は毎日がんばって、「よく勉強が出来るまじめな生徒と思われよう」としていたが、そんな、虚偽の自分作り≠フ成功の影で、実際の私の成績というのは、人前で言うのが恥ずかしいくらいのものになっていた。押し潰さんばかりのコンプレックスの中で、どこか常に、「後ろめたい」・「騙している」存在と、己のことを受け止める自分がいた。同学年の人が、『成績対照表の項目』にしか見えない、変な気持ちになっていた。
 「何を気にかける事があるか?成績は成績。友達は友達。いかに成績が上だろうと下だろうと、クラスメートとは普段は、対等な気持ちで接していればそれでええんや!」
 今の私が中学生時代の自分に会ったら、きっとこう激を飛ばすだろう。『内気』・『冗談下手』・『根暗』・・・・・・・、およそろくでもない言葉でしか表現出来なかった当時の自分に、せめてもの新風として、『明朗』・『快活』・『屈託のない』というキャラクターを吹き込もうとしたに違いない。だが、そのような試みも全く通じないのが、この時代の私だったのである。2年生の時もひどかったが、いよいよ受験生である3年生になると、その傾向はより顕著になっていった。教室ではほぼ一日中無口で、家に帰れば反抗期のピークで荒れ模様絶好調。こんな生活の私にとって、唯一の気休めとなるのが、犬の存在だった。特に夏休み、受験勉強は山場を迎える。毎日息が詰まるほど机にかじり付き、一見優等生。しかし、実は5時間机に向かっていても、集中できたのは1時間あるかないか。12時間机に向かえば、多くても3時間分の勉強しか進んではいなかった。それでも気持ちの上での『拘束感』というのは、相当なものがあったのである。
 「机から離れてもいいという理由が欲しい」
 勉強一途なふりをしていても、根っこの部分では常に勉強嫌いだった私。本当に机を離れても許される時というのは、唯一、犬(ナナ)の散歩の時である。だから堂々と外に出て犬のもとへ走っていた。顔を見たとたん、童心に帰った。今で言う、『素(す)』の状態となり、一切のストレスが引いた。本当に犬こそが、我が『パートナー』であった。
 30余年生きてきた中でも、最も心が荒み勝ちで、自分を押し殺し、友達付き合いも鈍かった中学時代。犬はある意味、ほかの時代にもまして、なくてはならない存在と言えた。それだけに、ナナが突然死んでしまった直後に始まった3年生の2学期というのは、ほかにも2匹の犬がいたとはいえ、何とも物足りない、心に隙間が出来たような日々に感じられたものだった。


中学3年の夏休みの終わりまで、私の支えだったナナ。
私の目の前で、一瞬にして逝ってしまった。
中学入学直前、12歳の時の私と一緒に。


生涯最高のクリスマスイブとなった、15歳の時の12月24日

 子どもの頃は一大イベントでも、大人になるにつれて特に関係ない<Vーズン(職場で行うイベントは除く)となっていった、クリスマス。
 ちょうど子どもから大人への変わり目にあたる15歳のクリスマスイブは、生涯を通じて最高のクリスマスイブとなった。そう、待ちに待った『新しい子犬』が、この日、やってきたのである。その犬こそ、その後私の半生を共にすることになるトロであった。親戚の家からの電話を受けて、ノッタラノッタラ進めていた受験勉強を一時中断して親戚宅にすっ飛んで行ったのが、ちょうど夕方の6〜7時ごろ。奇しくもナナが事故死した時刻とほぼ同じだった。そしてひと目トロ(もちろん、その時点ではまだ名前がない)を見た最初の印象は、『ぶっとい足!』だった。そして、「ナナに似とる!」
 不思議だったのだが、目の前にいる犬は、生後一月半の子犬であるにもかかわらず、その顔には、5歳5ヶ月でこの世を去った当時のナナの面影があった。いや、あるように感じた。種類も同じ柴犬の黒色で、「生まれ変わりかも」という気持ちも、少なからず抱いたものだ。
 「ああ、何と可愛いのだ。こんな可愛い犬がそばにいてくれたら、俺も頑張れるなぁ。」
 この時点で受験まで2ヶ月を切っていた(そして相変わらず勉強のはかどりは鈍かった)私は、率直にそう感じたのであった。ナナを失って以来常に気持ちの中にあった、自分を責める気持ちというのも、ようやく何か、癒えてきたような気がした。
 ところで、私は子犬と接すること自体、実は久しぶりのことだった。ナナは成犬になって以降によそからもらわれてきた分けで、この時生きていた他の犬は、いずれも私の生まれる前後に誕生していて、子犬時代を見た記憶はない。初めて子犬というものを見たのは、1979(昭和54)年4月ごろ、当時親戚が飼っていた犬が子犬を産んだ時だと思うのだが、それ以来、約10年ぶりのことだったかも知れない。あの時は私自身もまだ小さかった(幼稚園で、5歳)。今回、大人の体になった状態で改めて子犬を手に取ってみて、「何と小さな存在なんだ」と、つくづく感じ入り、しばし驚嘆したものだった。しかし体は小さくとも、その『こころ』というのは限りなく大きく、そして深いのである。
 さて、「名前を何にするか」という話になった。私は、トロ〜ンとした顔をしているのを見て、ごく単純に、「トロ」と言った。そしたら決定となった。翌日から、「トロ、トロ」と呼ぶようになったが、何日か経つと飼い主が、「名前を変えた」と言ってきた。「何て?」と訊くと、「麗しき姫と書いて、麗姫(リキ)」と返ってきたのだ。「『リキ』か・・・・・・」と私はしばらく考えていたが、「やっぱりトロの方が雰囲気が合っていていいな」と思い、結局私は、その後も最後まで「トロ」で通すことになった。一方、飼い主は「麗姫」と呼ぶようになり、かくて世にも奇妙な、“二重ネーム”の犬の誕生となった。

中学3年のクリスマスイブ、初めて対面したトロ。写真はその当日に撮影。
長い長い16年の伴侶生活≠ェ、この日から始まったのだった。



祝:高校合格! わが人生最高の日・・・・・・・1989年2月27日

 人にはそれぞれ、生涯を通じて最高の日、そして最悪の日というのがあると思う。私の場合、先ず最悪の日(というか、一番辛かった日)というのは、先ほどのナナの死んだ日、そしてもう一つが、これは後に少し述べるが、父の亡くなった日(1998年2月28日)である。そして最高の日であるが、これが、ついに高校に合格し、受験勉強地獄から解放された日、時に1989(平成元)年2月27日なのである。
 この日、夕飯を終えて一休みをしているところへ、電話が鳴った。出たのは母親で、かけてきた相手は2日前に受験した高校の人だった。そして、内容は『合格』。母の話す内容や表情から、おおよそのことは察知出来た。が、電話を切った母がこちらを向いて一言、「ハイ、合格です」と言うと、私は思わず「ヤッター!!!」と諸手を挙げて叫んだのだ。これこそ、30何歳になった今振り返っても興奮してくる、我が生涯で最高の瞬間である。何と言うか、一点の曇りもない、人生バラ色、飛び跳ねて叫びたいような、今までのことが全て報われたような、そして何より、言いようのない解放感に包まれるような、素晴らしく大きな喜びだったのだ。一報を聞いて、早速トロにも“報告”に行った。受験直前の2ヶ月間、愛くるしい、遊び盛りの子犬がそばに居てくれたことは、とてつもなく大きかった。トロの支えが無かったら、恐らくこのプレッシャーを乗り越えることは出来なかっただろう。これまではトロと会う度に、ただただ「ホッとする」・「癒される」という気分しか覚えたことがなかった。この時、初めて「ただ率直に楽しい」という気分を味わえたのである。
 この後数週間、毎日がまさに“天国”であった。エデンの園か究極のパラダイスかと言ったら余りにも大げさだが、そのくらいの、もう何もなくていいと思うような喜びであったのだ。朝から晩まで、トロのところ以外の場所でも、顔はニコニコして歓喜に満ち溢れていた。そして目の前は隅々まで明るかった。先ほども書いたが、一点の曇りも存在しなかった。


 思い起こせば私は、中学に入学してからというもの、常に頭のどこかで、『受験準備期間』という気持ちがあった。いや、そう思わなくてはならないという、『義務感』のようなものがあったのだ。素顔の自分に決して帰ることなく、受験という“制度”に貢献≠キることが、『中学生』である資格のように思えた。ふつうに人間として生きるのではなく、受験の世界の存在≠ニして生きることで、周りに敵を作らず、現実から逃げていない正しい人間として、世間に認められるような気がした。そして成績が良くなければ、自分の考えを主張することも、本音を語ることも遠慮しなくてはいけない、とさえ感じていた。
 自己主張に燃えていたことはあった。2年生・3年生と、『校内弁論大会』に出場、自慢するようで恐縮だが、いずれも準優勝した。しかしその時でも、「弁論大会で入賞出来たからには、肝心の成績も上がらなくては申し訳ない」という気持ちになっていたものだった。
 現在の中学生は、恐らくこんな息の詰まりそうな$S境では学校生活を送っていないことと思う。最も、私がまともに面識を持つ現役中学生は1人しかいないし、あまり分かった口は聞けないのだが、私の頃からは時代も変わり、教育スタイルにもバリエーションが出てきたようにイメージしている。また、少子化の影響で人口自体もかなり減った。しかし私の世代は、いわゆる『第二次ベビーブーム』にあたり、人口が非常に多かったのだ。そのため受験にせよ、就職にせよ、どちらかというと『切り捨て基調』、つまり、「人なんていくらでも代わりがいるんだ」というムードが漂い、そのぶん、受ける側にとっては、過度に競争意識を強いられる側面があった。


 今振り返って、私が高校に合格出来たということは、イコール『たとえ成績が悪く、競争に弱い人間でも、受験の難関は突破出来ると証明された事』だと思っている。私はとにかく気が小さく、現在でもそうであるが、『競争』というものに対して、すぐにひるむ体勢になってしまう。中学3年生の時も、『受験競争』という言葉を聞いただけで、畏敬の念すら感じていたものだ。集中力もろくになくて、親泣かせ担任泣かせの隠れNo.1だったことは、ほぼ確実ではないだろうか?しかしそんな私でさえ、合格という結果を出せたのである。

 3年生の3学期、塾に通っていて、あまりにも入塾テストの成績が低かったために、2年生のクラスに編入されたことがあった。確か科目は理科だったと思うが、教室に入ると、周りから妙に違和感のこもった目線を感じた。
 「あの人、3年やで」 「何で2年のクラスに3年がおるん?」 「いや、知らん・・・・・・」
 こんなヒソヒソ会話が耳に入ってきた。小さな塾だったので、クラスの生徒にも、3年生が1人“紛れ込む”という情報が、早々と流れたのだろう。いちおう3年生の理科のクラスにも入れてもらってはいた。だが苦戦を強いられ、数学ともども、夜中11:45ごろまで居残りをせざるを得なかったことは、よく覚えている。きつい事も経験したが、それでも結果はオーライ。今ではもう少し、『遊ぶ時は遊ぶ。勉強する時はする。机を離れて休む時は休む。机に向かって集中する時はする』というように、もっと全体にリラックスした気持ちで挑んでも良かったのではないか?と思っている。


 もし、もう一度中学3年生に戻ったら、“何かに取りつかれたように”四六時中机に向かうのだけは止めようと思う。もっと普通の生活人らしく、ほかの活動や遊びにも打ち込み、リフレッシュをして、そのぶんもっと集中して、時間を決めて勉強したい。周りの人にも、「自分はこういうスタイルでやる」ということを率直に話せたらもっといいと思う。そうして、精神的にメリハリを付けてやれば、成績自体も実は上がってくるだろうし、よしんば伸びが鈍かったとしても、人間、必ずしも学校の勉強に適応できることだけが正しいわけではない。あくまでも自分のがんばりで、自分を『表現』していけば、長い人生、トータルでは問題ないと思う。受かる高校はどっかしらあるものだ。私も実は、1校目の受験は落ちて、2校目で通った。別に1校しか受けられないわけではないから、最初は落ちてもその内に受かると思えたほうが、ある意味勝ちのような気がする。


 高校合格の喜びがここまで大きくなった背景には、高校受験生に対する世間の目というものもあると思う。つまり、中学を卒業したら、受験をして高校に行く以外に進路は無い、ということが前提条件として存在し、それゆえ、「絶対に落ちてはならない。落ちないようにするものだ」という見方があるのである。そんな世の中が変わればいいと思うが、現実には高校に代わる進路・選択肢というのも、すぐに創り出すのは難しいであろう。高卒浪人なら、わりに世間でも普通に通るところがあるし、その裏付けとして、大学に進学するもしないも自由、という社会の風潮がある。しかし中卒浪人はそうはいかないというムードが、少なくとも私の頃にはあった。加えて、通っていた中学校の先生が、「うちは過去何年間も連続して、全員が合格している」と胸を張って話していたものだから、それが余計プレッシャーになっていた。「自分が記録に泥を塗るかも」という思いが、どうしても頭をよぎって離れなかったのである。これがもし、「去年は半分以上落ちてしまったから、今年はせめて過半数は合格するよう、がんばりましょうね」だったら、さほどビビることはなかっただろう。
 今後、高校合格の時を越える大きな喜び、大きな感激、バラ色の夢見心地を味わうことは、恐らく無いと思う。今から何かを受験するという予定もないし、ましてや学生に戻るということもないだろうから。就職もどうにか果たせた今、残るはひたすら、仕事の探究、そして趣味の吟味に集中する人生となる。
 1989年2月27日、この日は私の人生にとって、『喜び』という体験の頂点となった。




********高校合格以降、トロと過ごした半生********


成犬になったトロ

 夢にまで見た高校合格が実現した後、手のひらに乗るような小さな子犬だったトロは、次第に成犬の姿へと変わっていった。首輪も付き、散歩もふつうに鎖をつけて行くようになった。ただし最初の2年半ぐらいの間は、道路を横断することは恐くて出来なかった。やはりナナの事故のことが脳裏に残っていたのである。それでも道路を横断しない行き方だけで、いろいろな散歩コースを作ることが出来た。当時はまだ、周辺の土地にも自然が多く、散歩コースには事欠かなかったのだ。春先から盛夏、トロとお互い若さ任せに走り回り、流れてくる汗が心地いい。散歩が日課になる生活は、すっかり戻った。子犬の頃から見ているだけに、すっかり成犬の顔になったトロを見ても、感慨深いものがあった。「犬って本当に成長が早いなあ」と、あらためて思ったものだ。
 3回目のナナの命日が過ぎた後、私はついに、トロを連れて道路を横断した。もちろん、横断歩道と信号がある交差点であるが、ある『壁』を越えた瞬間となった。初めて道路の向こう側の世界に足を踏み入れたトロが、最初に訪ねた地は我が家だった。そう、実は我が家は、トロのいる親戚宅から行くにはどうしても道路を横断しなくてはならず、そのため3歳近くになっていたこの時まで、一度も“招待”されたことが無かったのである。
 ようやく道路を渡れるようになったことで、トロの行動範囲は増えた。当時は少し遠くに行っても散歩をさせられる場所は多く、大きな池と広い畑がつらなる土地もあった。いつも私自身がヘトヘトになるまで走り、1時間半ぐらい散歩をすることもざらであった。他の同年代ほどではないものの、まだまだ私も体力があり、日頃、人前であまりうまく出せることがなかった『若さ』を、元気盛りのトロの散歩の時には、ここぞとばかりに発揮していた。
 月日が経つにつれて、トロはだんだんデブになってきた。デブになると、ますますあのナナにソックリに見えるようになった。私は決して、トロに過去の愛犬の面影ばかりを探していた分けではないが、それでも実際似てきたものだから、ついつい比較せずにはいられなかった。


 この間、悲しかったこともある。ナナが死んだ時点で生きていた2匹の犬が、トロが来てしばらくのち、相次いでこの世を去ったのだ。1989(平成元)年3月10日、かつて小学生の頃、毎日散歩に連れいていったこともあったヒミコが姿を消した。あと4日で17歳という長寿だった。死因は老衰。まさに天寿をまっとうしたと言える。
 そして、生まれつき後ろ足が悪く、クル病という病気を持ちながら14歳8ヶ月まで生きたクルコも、1990(平成2)年2月6日、肺炎のためこの世を去った。
 私が生まれた頃からずっと見てきた犬が、いずれも世を去ったことで、以降、親戚宅の犬はトロ一匹のみとなったのだった。


思春期を支える

 1989(平成元)年4月、“憧れの”高校生活がスタートした。しかしそれは同時に、いわゆる『思春期』という年代に突入した私の、新たな苦闘の始まりでもあった。
 最初の7ヶ月間ほどは、ただただ楽しんで過ごしていた。中学時代の失敗を教訓に、私はとにかく休み時間は人と一緒に過ごし、言葉をかけて友達を作り、暗そうな顔をしないことに努めた。中学時代とは違う、新しい自分になりたいという気持ちが強く、言い方を変えれば中学時代に、「本当は俺だってこうしたかったのだ」と思っていた自分を、体現しようとしたのだ。クラスの中では意識的にジョークを飛ばして、人を笑わせた。それが少々いき過ぎて、「あいつはムードメーカーだ」というような声も、ある日チラッと聞こえた事があるが、言った本人は冷やかしの気持ちを混ぜたつもりでも、当の私は、ある意味悪い気はしなかった。何故なら、ムードメーカーというのは、よくしゃべる人でないと、言われることが有り得ない表現だったからだ。かつて『根暗』・『しゃべらない』というイメージを振り払えなかった事を思えば、逆に名誉にさえ受け止められるほどだった。
 中学の卒業式前夜、父から、「高校に入ったら、同学年の友達を最低3人は作れ!」と真顔で命令され、それに対してすぐに首を縦に振れないという事があった。それを思えば、少なくとも『暗い』と思われず、友達も3人どころか5人、いや、もっとたくさん出来たという事実が、どんなに画期的なことであったか。自分自身 、計り知れなかった。
 そんな、“バラ色気分の毎日”はしかし、やがて終わりを告げてしまうことになる。秋も深まりし11月ごろ、私は、常にある特定の異性の存在が心から離れず、精神的にガタガタになってしまったのである。これが、思春期の宿命であろう試練の始まりだった。以後、20代後半に差しかかるまで、実に10年間にわたり、たびたび同じ試練を味わうこととなった。いつの時も、相手が誰の時も、同じ切なさ、同じ寂しさ、そして同じ『不完全感』につぶれた。もうこうなると、「明るく」「よくしゃべり」「友達もいて」という、高校入学当時の目標も何もあったものではなかった。「受験に通って高校生になったのだ」という誇りも、この『心ならずも芽生えた煩い』によって、かき消される格好になってしまった。何よりも、己を人間としてではなく、“性別として”見ることに次第に限界を感じるようになり、『若い年代』というアイデンティティーが、重荷以外の何ものでもないと受け止められるようになった。もともと気弱で逃げ腰な性格だった自分が、 より一層軟弱になり、みずから老け込んでしまったのは、恐らくこの時期であろう。自分を指す時の一人称も、『俺』・『僕』・『私』に加えて、いつの間にか『ワシ』が多くなってきた。
 一般に、『人生で最も楽しい時期』とされる“青春時代”は、私のあまりにも未熟で、自分に自信を持たせるパワーが無いという欠点のため、ほとんどダークグレーのような時代となってしまっ た。ことに高校2年生だった1990(平成2)年は、一年中モヤモヤとして、うだつの上がらない、ある意味最悪の一年であった。いいことや楽しいこともあるにはあったのだが、気がついたら、「しんどいな〜」という余韻ばっかりが残る年となったのだ。
 常に人に対して恥ずかしさを感じる毎日であった。自分の本性がバレたら、きっと誰からも愛想を尽かされると思った。それだけ、自分の『真の姿』は情けないものと映っていた。
 犬だけが、唯一安心できる相手だった。長い長い青春時代、犬の存在が無かったら、私は全てを放り投げていたかも知れない。人に対して、まともに胸を張る気持ちを持てなくなった男の、最後のとりでとなったのが、犬であった。
 犬は何も責めない。何も指摘しない。何も見透かさない。そして何より、何も比べない・・・・・。嫌な言い方をすれば、単純に自分にとって、『好都合な存在』なのであった。
 「決して比較の対象として見られず、『優劣』を意識させられる心配がない」
 そんな安心感のみに、私は飢えていた。ひたすら犬にひっつき、癒されて、それでせめてもの満足感を得る毎日を送っていた。

1歳3ヶ月、一番元気盛りだった頃のトロ。
この頃、私は16歳の悩み盛り≠セった。
抱っこされるトロ。この時5歳9ヶ月。
私が21歳の時で、この年も私は
青春期の病≠ノ食いつかれていた。



父の死

 15歳の夏、愛犬ナナが死んだ時、私は「これ以上に悲しい日は、今後二度と来ないだろう」と思った。しかし、ついにその予想が覆される日がやってきた。1998(平成10)年2月28日、父が逝ってしまったのである。享年わずか56歳。死因は食道ガンからの転移性肝臓ガンだったが、そのあまりにも若過ぎる死は、大きな喪失感をもたらすこととなった。
 父は死の1ヶ月ほど前から、徐々に昏睡に近い状態となり、私自身も「もしや・・・・・」という不安を感じてはいた。しかし、希望を持てば父はきっと助かる、と信じ続けた。希望を持ち続けることに意味がある、という思いがあったのである。奇跡的に治った後の父の姿を、頭に描くようにしていた。
 結果は・・・・・・、裏切られた。自分の中で何かがプツンと音を立てて切れた。そう、希望を持つ、助かると信じるという気持ちが、息絶えてしまったのである。父の死を境に、私は極力希望を持ち過ぎないように、良い結果を信じ過ぎないように、常にダメな時はダメで、想いはどこまでいっても想いだけでしかない、という『訓示』を、心のまん中に串刺しにして生きるようになった。想像以上のショックがあった。
 父の死の1年3ヶ月前、祖父が他界していた。そして父が最後に入院していた時、父の母親である祖母も、同時に入院していた。胆管ガンで、周りの者は、医師から助からないと宣告されていた。2人(親子)同時に、それぞれ(幸いにも)違う病院に入院して、どちらが先に逝っても不思議ではない状況だった。後から入院した父のほうが、先に逝った。そしてその5ヵ月後に、10ヶ月の入院生活の末、祖母もあの世へと続いていった。幸いにして祖母は、息子である父の死を最後まで知らなくて済んだ。というのも、みんなで「黙っておこう」と決めたからである。私は3日に1回ほどの割合で祖母の見舞いに行っていたのだが、その度に、「父さんは元気になってきている」 「食欲はまだあまりない」 「連絡の取りにくい大部屋にいて、本人も電話で話をするのはまだしんどいと言っている」と、嘘八百を重ねた。慣れてくると、父が死んでいるのか生きているのか、よく分からなくなってきた。そして父の死の直後の数週間は、さすがに「父さんは大丈夫だよ」と、何でも無い顔を装って言うのがキツかった。よくこんな役回りを、それも半年もの間出来たものだと、今思い返しても酷過ぎると同時に、感心する次第である。
 父と祖母が亡くなった翌年の秋、祖母の弟で、私の大叔父にあたる人もこの世を去った。私は23歳〜26歳にかけての3年間に、4人の肉親を相次いで見送る結果となり、ずいぶん『別れ』と縁の近い人生になったものだと思った。しかし私は、プライベートこそ何かと別れ多いものになったが、仕事の面では、父が亡くなって10日後に突然バイトをクビになり、親と仕事を立て続けに失うという悲劇があったものの、その後、何とか介護の仕事を手にし、そこで多くの人と出会うことになった。まさに仕事では、プライベートとは対照的に、出会いと縁の近い人生を送ることになったのだ。
 それにしてもこの時期は、あの中学3年の時とは違う意味で、本当にトロの存在が大きかったと思う。この頃のトロは、もう大分年を取ってきてはいたが、それでもまだまだ散歩にも行き、家でも私が来たら喜んで走り回るなど、元気だった。トロの顔を見ることだけが、この時も唯一の気休めであった。本当に私に限らず、ほかの『遺族』にとっても、トロという一匹の存在がどれだけ慰めになっていたことか、計り知れない。


『絶対の吸収盤』トロの終焉

 2002(平成14)年、13歳になっていたトロは、次第に後ろ足が弱くなり、ひきずるような歩き方しか出来ないようになった。もう昔のように走る事が出来ず、顔も老犬の顔になり、遠くまで散歩に行ったり、家の中で走り回ったりするのも、過去の事となった。
 同じ頃、かつてトロの散歩で何度も足を運んだ場所でも、変化が起こっていた。自然が取り壊され、住宅造成地や道になっていった。緑多き空間から緑が消え、工事用の車両が目につくようになった。毎日のように連れて行った畑も、閉鎖されて、幹線道路に化けつつあった。もしトロが若くて元気だったとしても、これではもう、散歩に連れて行ける場所も無いと言えた。そして、本来なら散歩コースが軒並み壊された事を、憂いでもおかしくなかったはずのトロ自身は、最早その現場までの距離を歩くことも不可能となっていた。
 自分の傍らと、そのもう一回り周辺で、着実に時代は移り始めていた。「もう元の時代は帰ってこない」 そう思う日々が漫然と続くようになり、いつしか私自身、精神的に先が細くなるような気分になっていった。こう見えても、中学卒業から高校生初期の頃は、僅か半年あまりという短い期間ながら、まだ若々しい振る舞いや活発な気持ちというのも持ち合わせていたのだ。今、時代の移り変わりを実感するにあたり、心の中から活発さが減った。思えば私の年齢自体、30の大台に乗った。名実共に、もう“20代の若さ”ではなくなったのである。ますます、加速して、感覚が『おじさん』になっていくのを感じるようになった。


遂に来た最期、そして忘れ得ぬクリスマスパーティー

 2004年12月21日、絶対の吸収盤であり、私が童心のすっとぼけた心≠ノ帰れる唯一無二の存在であったトロは、ついにその姿を消した。
 いつか来ることだとは分かっていた。もうかなり前から、『終焉』・『愛惜』を意識し、その心積もりをしてきた、・・・・・つもりだった。しかし、いざその死に顔を見ると、一体何から先に思い出していいか分からないくらい、胸がつまり、涙さえもつまった。前の愛犬ナナが死んだ時のような、むせび泣きを断続的にしていた。意外なほど、ボロボロと涙がこぼれることはなかった。その時は・・・・・・。しかし、数日、数週間と日が経つにつれ、不意に思い出してグッとくることが目立つようになった。
 トロは、死の3日前になって何も食べなくなり、危篤状態に陥った。この日、私は朝から出勤で、本来なら夕方に帰るところ、夜10時を過ぎてからようやく帰った。何故なら、実は翌日に職場のクリスマスパーティーが控えていたのである。その準備のため、会場にいたのだった。家に帰るなり、母が険しい表情でスッ飛んできて、言った。
 「あんた!トロが今朝から何も食べなくなったそうや。もうあした危ないかも知れないから、今晩のうちに顔見に行っといてやり!」
 私が血相を変えて飛んでいくと、荒々しい呼吸をしたトロが、辛うじて誰が来たか気配を感じているような様子で、横たわっていた。さすがに気が動転し、ショックで顔が硬直した。まだ後1週間は大丈夫だろうと言われていたのが、突然の危篤。
 「いよいよトロがいなくなる。こうして顔を見るのが過去の事となってしまう・・・・・」
 目の前の現実を受け入れ切れず、その晩はほとんど眠れなかった。沈痛な面持ちでしかし、翌朝には職場のクリスマスパーティーに行ったのだった。行く前にもう一度お見舞いに行こうかとも考えたが、行くとかえってその場から離れ難くなり、パーティーという場に向かうのが一層辛くなるので、敢えてやめた。家から会場に直行したのである。


 本来なら、一職員として、私にとっても最大のイベントになるはずだったクリスマスパーティー。しかし、会場到着時から全く気分が乗らず、後ろ髪を引っ張られる思いだった。「俺、何でこんなとこにいるんだろう?」という感じで・・・・・。それは仕方ないと言えば仕方ないのであるが、自分も仕事で来ているのだから、何とかテンションを上げようとした。ところが、フワフワそわそわした心境で、一向に『心ここにあらず』。飾りつけで華やかになっていた会場を見ても、うつろな目つきで漫然と見ている、という心地であった。


 普段からよくふざけたり、冗談を言い合ったりしている仲間たちもどんどんやってきた。そういう人たちの顔を見ることで、きっと気分転換が出来る、と望み≠託した。しかし・・・・・、無理だったのである。理由は自分でも見当がついていた。あまりにも事前に、「(普段の顔ぶれである)みんなに会って気を紛らわすぞ!気持ちを切り替えるぞ!」と気合を入れ過ぎたがために、かえって気持ちが空回りしてしまったのである。予め会うことが分かっていただけに、「会えばどうにかなる」と期待をし過ぎていたのだろう。それが故に裏目に出て、期待倒れに終わってしまったのである。言い換えれば、友達と会っても気分が晴れないほど、前夜のショックが大きかったということだ。
 この場に及んで、私は絶望的な心境になった。


 「こりゃもう、下手したら途中で抜け出していくかも知れないな・・・・・・」
 冗談抜きに本気でそう思った。せっかくバンドさんや芸人さんが、会場全体に『盛り上げコール』をかけてくれても、これでは応えられるわけがない。
 「・・・・・・何でこんな日に限ってパーティーなんだ?一体全体この巡り合わせは何だ?こんな潰れたような気分の日は、いっそ通夜か葬式のほうがまだマシだ。これからどうやってテンションを上げろというんだ!!」


 仕事に集中出来ない苛立ちは募り、何よりもこのような『タイミング』になった事に恨みを感じていた。やる気のあるフリをする事に疲れながら、会場後方や、入口付近の通路で突っ立っていた、その時である。不意にふざけて、私にからんでくるある子がいた。いきなり私に体当たり≠オてきたのだ。それが普段からよく遊んでいる子というのなら話は別で、顔こそ過去2回ほど見たことがあったが、全然私とは関わったことの無かった子だから、正直、意表を突かれた。
 「何やねんコイツ?参加するとは聞いていたけど、何で急にオレに絡んでくるんだよ?ビックリするじゃないか!」
 2回ほどドン!≠ニドツかれて、瞬間、パチンと『目が覚めたような』気分になった。まるでスイッチが入ったかの様に、心が一瞬にしてカラッと晴れた≠ニ言えばいいだろうか?なにか、不思議な力でも受けたか様に感じたのである。
 日頃からの仲間たちに加えて、屈託なくどんどん遊びかけてきた、予想外のゲストキャラクター≠フ登場に救われた感は非常に強く、知らず知らず私もその子の傍を中心に動くようになっていた。これは裏を返せば、それだけいかに自分が失意のドン底にあったか、という事であるが、おかげでパーティーの間は、主に会場の前のほう、ステージ近くで過ごしていた。
 夕方、パーティーは終了。無事にすべての任務を果たせ、備品の片付けのために職場に向かった車で、後部席に座った私は助手席を見ながら、
 「あぁ、本当に朝起きた時は、『オレもう、今日は絶対ダメだろうな』としか思えなかったのに・・・・・。“物事はフタを開けてみないと分からない”とは、当にこの事だ。思いがけないキャラクターの登場で、一日の運命が変わった。こんな事ってあるんだなぁ・・・・・」
と、つくづく思った。続けて、
 「だけど、お袋からも電話が無かったという事は、トロは何とか持ちこたえたのだろう。良かった良かった。トロはオレのために頑張ってくれたんだ」
と、深く安堵の息をついたのだった。
 助手席を見ながら≠ニ書いたのは、実はその時、まさに前の助手席に、思いがけないキャラクター*{人が同乗していたのである。本来なら私が全く違う車に乗るつもりだったところが、その車が既に出発しており、たまたま目の前で発車しかけていた別の車にサッと乗ろうとしたら、その子が助手席にいたのだ。そして事務所に着くまでの間、車の中で、またひとしきり盛り上がっていた。
 「よくよく偶然≠ェ重なるんだな、今日という日は。でも、こんな意外性≠ノ遭遇する事もあるのが、人生の面白さなのかも知れない。何しろ、もし今日が悲しい日でなかったら、今前の席にいるこの子は、別に出会って嬉しい人でも思い出の人でも何でも無かったのだから」
 当年31歳の私は、そう思いつつ感嘆していた。


 片付けが済み、いよいよ帰り際、私は大事なパーティーの日に大きな存在≠ニなった相手に、「ありがとう」とお礼を言おうとした。ところが何故か一瞬躊躇し、ただ「バイバイ」と言っただけで終わった。それもエレベーターのドアが閉まりかけている中で言って、相手の姿も見えない状況である。
 「あれ?おかしいな・・・・・」 自分でも謎≠セったのだが、心の片隅に、薄明の名残り惜しさ≠ェ漂い始めていた可能性は、正直、あった。あれで最後になってしまった事で、今、心残りが無いと言えば、多分うそになるだろう。そして、あんな『数奇な気分のクリスマス』は、今後、二度と経験する事はあるまい・・・・・。
 

 「楽しい時の予期せぬ出会いは、あっさりと心を通り抜ける。だが、辛い時の予期せぬ出会いというのは、心に鮮烈に残り続ける。今日の出会いはきっと、のちのちまで『思い出のページ』に刻まれる」


 これが、この日一日を通じて感じた、最も大きな事となった。

死の1ヶ月半前に撮影したトロ。まだこの時点では、
自分で玄関まで歩くことが出来、辛うじて散歩にも行けた。
しかしこの後、みるみる衰えが目立ってくる・・・・・。
数奇な巡り会わせのもとに行われた、クリスマスパーティー。
それにしても私は思う。何の前触れもなしにクッション役の
キャラクター≠ェ登場したのは、きっとトロからの、お別れに
際しての『最後の計らい』だったに違いない、と・・・・・。


 さて、職場からは急行、トロのもとへ向かった。前日と変わらぬ状態で、まだ生きていた。聞けば「水はたくさん飲むよ」という事。この一言を聞いて、どれだけホッとしたことか分からない。
 「今日死なれなくて良かった」 率直な感想だった。
 「それでも、『最期』まで秒読みであることに違いはない」 明白な事実だった。


 トロが旅立っていった日は、クリスマスパーティーの翌々日の午前中で、たまたま仕事が休みの日であった。それも、前後約2週間の中で唯一の休みである。本当に、あと一日でもどちらかにずれていたら、私は見送ることが出来ず、若い人手が足りないということで、前の庭に墓を掘ることも、出来なかった可能性があるのだ。それを思うと、トロの旅立った日というのはまさに、絶妙のタイミングだったと言える。飼い主も、「この犬は運の強い子や。うまい具合にあんたが休みの日に死んだ」と、感心したように何度も話していた。
 こんなことを、犬を可愛がってきた本人が言ったら不謹慎かも知れないが、犬というのは、長年可愛がってくれた人に対して、死に際し、何らかの恩返しをするという。これは、昔から幾度となく聞いてきたことである。鶴の恩返しの話も有名であるが、人間にとって最も近い“友達”である犬についても、『恩返し』というのは、きっと存在しているのである。
 トロの場合、私が休みでゆっくり見送れる日を『死期』に選んでくれたこと、これが何よりの、私に対する『恩返し』だと思っている。


おわりに

 「これからの俺の人生を、どうか柔らかく見守っていておくれよ」
 トロの墓に行く度に、こう祈っている。犬が人間よりはるかに寿命が短い以上、飼ったが最後、『死に別れ』という寂しさを味わうことは、宿命である。しかし、トロは確実に、私の心に何かを灯しながら、肉体こそ滅びども、“生き続けている”ような気がする。16年の我が半生≠フ間に、抱えきれないほどの『恵み』を与えてくれた。感謝で一杯である。
 冒頭にも書いたが、飼い主はもう高齢で、また我が家も犬を飼える環境が、いろいろな意味で備わっておらず、従って、もう犬が傍にいる生活をすることは、出来ないと考えたほうが現実的である。犬に代わり、何か私の心の隙間を埋めてくれるような存在があれば、どんなに幸せだろうと思うが、果たしてそんな存在があるのかどうか、見当がつかない。


 ・・・・・・また熱くなってきた目頭の奥に、トロにまつわる様々な思い出が、鮮やかなフラッシュのごとき光を浴びて蘇ってくる。
 古くは、「今日新しい子犬が来るよ」という第一報を聞いた時の、ワクワクウキウキするような、躍動感。
 お腹を丸出しにして寝転ぶトロをあやしていた時の、心の潤い。
 ゴムマリを無心に追いかけ回すトロの、愛らしき姿・・・・・・・。
 そして新しくは、後ろ足をモタつかせながら淡々と地面を踏むトロの、心なしか寂しそうな眼差し。
 危篤の報を聞いたショックを抱えたまま参加したクリスマスパーティーで、まぶたにぼんやりと映っていた、こちらをじっと見るトロの顔と、そこへあれよあれよと、まさに“ひょうひょうと”オーバーラップしてくる、ゲストキャラクター≠フ顔・・・・・・・。
 お墓に埋める直前、最後の別れを告げんとして額と額をこすり合わせた時の、トロの冷たい体温・・・・・・・。


 何もかもが懐かしまれる。今夜も独りで涙する。トロの墓に語りかける。寂しさなど決して癒えない程度に、気が休まる・・・・・・・。

トロが来てちょうど16周年となった、2004年クリスマスイブの夜。
既に亡骸となった愛犬は、このお墓の下で安らかに眠り続ける。
改めて溢れてきた涙を頬に伝わせながら、私は静かにお礼を言った。
「トロ・・・・・、今までずっと伴侶でいてくれて、有難う。
パーティーで、悲しみを吹き飛ばす恵みを与えてくれて、有難う。
そして、私が見送れる日に旅立ってくれて、有難う・・・・・」



 今、率直に思うことは、「バカになった気分になりたいな」である。何も悪い意味で言っているのではない。私はトロといる時、本当に何も考えず、『素(す)』で、表情もポーカーフェイスかハジケるような笑顔。完全に自然体でいられたのである。もちろん、私は職場でもある程度は素(す)で、至ってマイペースであるが、やはり仕事の場と個人の場とは違う。嫌なことも全部ぶっ飛ぶぐらいハジケて、いい意味でのバカになれていたあの頃が、本当に懐かしい。実際、そういう時間があって初めて健康を維持出来るのが、私という人間ではないかと思うのだ。つまり、ある意味年を取っても、内面が子どものままでいると言える。それだけに、これからの日々というのが、大変寂しく、また物足りないものになっていくのは避けられない。
 精々、一日一日を“ひょうひょうと”生きていきたいと思う。淡々と立ち直り、例えヨタヨタとでも、己を支えていければいいと思う。そして、今まで30年以上にわたって犬を飼い続け、常に私にも良くしてくれた飼い主の家に、これからも足を運びたい。


 最後に・・・・・・、トロよ、16年間の幸せと思い出を、本当に有難う!!そしてナナを始め、過去の全ての犬たちよ。私と過ごしてくれた時間を、本当に有難う!

(完)


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