こんな俺でも生きてはこれた
〜希望無き船出だった就労航海=m前編]〜

序章 −父死し時−
まずは『酒』という壁に怯える事から始まった
濃霧の航海、最初の指針は“適職≠語学力”
【先天性社会的適応困難(?)】
【痛い】自己PRの見本市
『ひとりっ子』という事、『ボンボン』という事
突然の【役者志願】、その本当のワケ

アルバイト退職決意の時・・・・・、父に【癌の宣告】

※印刷をして手元で読みたい方は、Word版をどうぞ(写真は割愛しております)。



序章 ー父死し時ー

 1998(平成10)年2月28日午前2時3分、父が逝った。食道癌からの転移性肝臓癌によるもので、56歳7ヶ月という、あまりにも早い死であった。当時、私は24歳のフリーター。いまだ進路が定まらず、先行きも不透明で、【将来】というものに対して、孤独や心細さを感じていたこの時期、父の死というのは、あまりにも衝撃的な出来事だった。
 私にとって、父はまだまだ必要な存在だったと思う。それは単に経済的にという事ではなく、これからの人生を考える上で力になる存在として、必要だったと思うのだ。自分なりに歩みの駒を進めていくそのさまを、見届けて欲しいという思いもあったし、生きてくれているだけで、大きな【支え】になっていたはずだ。
 最後の最後まで、内心不吉な予感が突き上げてきつつも、何とか『助かった父親のイメージ』を頭に浮かべながら、懸命に希望を持ち続けていた。それだけに、あの、「午前2時3分、ご臨終です。」と医師が告げた瞬間は、全てが粉々に打ち砕かれたと感じたものだった。そしてなおかつ、単に『悲しい』だけでは済まされなかったのである。
 実は私は、父の死がきっかけで、ある【試練】に直面する事になった。それは、当時最も重要なテーマだった、自分の進路・就労の行方に直接かかわるものであった。今思い返しても、あまりにも重い℃似であったとともに、のちのちの自分に、ある種の『後遺症』を残す結果となった。


 あの日は寒い寒い夜だった。
 亡き骸となった父と我が家に向かいながら、ただただ、頭の中が真っ白になっていた。
 この先どうなっていくのか?自分は生きていけるのか?何が変わってゆくのか・・・・?何も思い浮かんではこなかった。
 間もなく3月で、春がすぐそこまで近付いていたはずなのだが、私の周りだけは、永遠に冬が続く様な気がした・・・・。


 2008(平成20)年2月28日、父没後10年・・・・・。
 改めて、いろいろな事が思い出される今日この頃、最も感じるのは、やはり父の死が、単に【家族の死】・【親の死】という喪失体験という域には、とどまっていないという事である。単独のライフイベントとしてではなく、社会人としての人生全般、特に就労を巡る体験の中の“いち分岐点”として、【父の死】がある。言い方を換えれば、父の死が、社会人初期の混迷期における、言わば【シンボル】となっていたのである。


 約35年生きてきた、これまでの人生の中で、最も厳しく、最も底辺に置かれていた、あの時代。
 人前では敢えて封印していた、『本音』というものがある。 
 今だから話せる、あの頃の数々のやり取りや、出来事というものがある。
 ある意味において、今の私を築く原点になったとも言える当時の体験を、【前編】・【後編】に分けて、赤裸々に綴ってみる事にしよう。


まずは【】という壁に怯える事から始まった

 まだ父がバリバリ元気だった、私の学生時代。
 卒業後、就職する事に対する不安は、少なからずあった。中でも特に私を怯えさせていたもの、それは、【酒】であった。酒の存在が、私の『最期』を早めるだろうと思っていたのだ。
 私は全くの下戸で、マグカップ1杯のビールや、ジュースを入れるグラス1杯のチューハイを飲んだだけで、潰れて胃の中が在庫切れになったほどであった。学生時代も、気分で盛り上がって思わず“酒に付き合った”ところ、後でとんでもない目に遭った事が2〜3度ある。あの、胃の中の在庫がどんどん出ていく時の苦しみというのは、一度味わったら絶対に忘れられない。それこそ、胃カメラや筋肉注射と並ぶ、『3大地獄』である。持病の喘息の発作のほうがまだマシと思うくらいで、当然、酒なんか飲まないで済む人生になれば、それが一番安心であった。だが、社会人経験のある人たちからは、一様にこう言われたのだ。
 「酒は練習しないといけないですよ。接待の時に飲めなかったら、どうするんですか?」
 「ほんとに就職をしたら、会社では接待があるのだから、酒は絶対に飲まないとダメですよ。」
 「上司から酒を2度目に勧められた時は、絶対に飲まないといけないんだよ。」


 恐怖だった。
 当時、まだ社会というものを知らず、世間知らずも甚だしかった私は、【酒】というものに対する社会感覚も、丸っきりゼロであった。そしてまた、知らないが故に、周りから言われた事イコール世界の全て、という様に受け止めてしまい、世の中に出たら、何が何でも酒を飲まなければならない、と思い込んだのである。


 酒を飲まないと怒られる。でも、ムリに飲むのなんて辛い。それでも、「飲めない」と言うのはタブーなのか?酒を飲めなかったら、『悪者』になるのか?
 でも、酒を飲めない人なんて、この世で私一人ではないはず。ほかの人たちは、一体どうしてるっていうのだ?あ、そうか。みんな練習してるのだな。
 練習・・・・・。でも、練習をしてまで、本当に無理矢理でも飲めるようにならなくてはならないものだろうか?
 酒から逃げたい一心からではあったが、私の中には、疑問が激しく渦巻いていた。


 そもそも、人にはそれぞれ、『練習』などでは克服のしようがない、体質というものがある。酒を飲める人と飲めない人がいるのは、体内の、アルコール分解酵素が、多い人と少ない人がいるからだという。酒に限らず、何だって人間、受け入れる物と受け入れない物は、あって当たり前。もっと突き詰めて考えれば、人間は一人ひとり、違っていて当たり前なのだ。
 例えば、そばを受け付けない、そばアレルギーの人に無理矢理そばを食べさせたら、大変危険な事になる。同じ様に、酒を飲めない人が、いかに『練習』をやったとはいえ、ムリに飲んだりすると、最悪、命にもかかわりかねないと思うのだ。
 それでも、社会は、こと酒に関しては、あくまで飲めることを良しとし、美徳とし、そして大人とする。飲めないことは悪くて、情けなくて、そして子どもであるとする。


 ・・・・・そんな社会以外の社会って、無いのか?
 もっと個々の体質を尊重し、普通に考えれば当然筋が通っているはずの理屈がきちんと受け入れられる、そんな『理想的な社会』って無いのか?
 社会人になるまで一年を切っていた私は、『何とか苦しまずに生き延びたい』という気持ちから、この様な、現実逃避型の思考を、グルグルと回し始めていた。
 「アホか!お前は甘いんじゃ。みんな死ぬほどの思いで酒を練習してるんだから、お前一人逃げるな!素直に練習しろ!」
 と、激怒する方もおられるかも知れない。
 そう。実際この当時、言われたものである。
 「そんな、あなたの理想通りの世の中なんて無いですよ。一人で世の中変えようったって、ムリですよ。」


 別に一人で世の中を変えようなどとは、思っていなかった。それでも体質上、どうしても酒だけは怖かったのだ。
 もし、それでも酒を飲まないという理由だけで人を敵に回す、というのであれば、もう自分は、誰も味方のいない人生を送るしかないのかも、とも思った。


 今でも思い出すことがある。
 学生時代、友達何人かと集まって、トランプか何かのゲームをした事があった。その時、罰ゲームが酒を飲む事だったのである。
 私は文字通り、「負けられない」というプレッシャーを背負って、ゲームをしていたが、ある時とうとう負けてしまい、酒を飲んだ。一度負けだすと連敗もするようになり、最後は別の人に変わりに飲んでもらって、ゲームからリタイアした。
 一つだけ切なかったのは、自分の体質なりに限界まで飲んだのに、「あんなの、飲んだ内に入らない」と一喝されただけで、話が終わってしまった事である。
 飲めない人でも頑張って飲んだ、などとは、世間は絶対に認めてくれないのだ。
 別に褒められたいなどとは思っていない。ただ、飲める人だけの尺度で測るのではなく、飲めない人の気持ちにも理解を示して欲しかった。
 世の中はしかし、決して甘くはない。酒は、あくまでも飲める人基準の評価設定なのであって、私が持論を言おうものなら、
 「そんな事言っていたら、世の中で生きていけないぞ!!お前は絶対世の中に出たら苦労するワ。」と、呆れ半分に諭されたものだった。


 「俺はもう、社会に出たら短命かも知れないな・・・・・」
 卒業前、私は本気でそう思った。
 就職したら、どこでも必ず接待があると、信じ込んでいたのだ。『接待』・・・・・、言葉を聞くのも嫌だった。どうも自分が口にするには、違和感があり過ぎる。今でも嫌いな言葉だ。口にすると、歯が浮きそうになる。
 だが、悲しいかなあの頃の私は、『就職イコール接待』と信じて疑わず、従って社会に出たが最後、ムリして酒を飲んだ事により、体を壊して短命で終わるのだろうと、ゆく末を占っていた。


 まさか卒業1年9ヶ月後に父が逝くとは、夢にも思っていないものだから、
 「万が一私の命が消えてしまっても、両親はお互い一人ではないから大丈夫だろう。」
などと、真顔で考えたりしていたのである。


 帰国後、まだ元気だった父と、『酒』について話し込んだ事が、何回かあった。留学期間中、周囲に言われた事も克明に述べたが、自身も酒が大好きだったという父の言葉は、
 「飲めないんだったら、飲まなかったらええねん。それは別に、飲まなくても大丈夫や。」
だった。これがどこまで本当なのかどうか、定かではなかったが、正直ホッとして、喉のつかえがだいぶん取れたような気がした。
 今から思えば、卒業以降の父の命は、実は残り短かったわけだから、この時父と話が出来たのは、本当に良かったと思う。


濃霧の航海、最初の指針は“適職≠語学”

 目に見えない多くの不安を抱えつつ、1996年5月、私は大学を卒業した。私はハワイに在る大学に留学していたため、卒業は5月となり、翌6月に帰国してきた。そしてここから、霧が立ち込める就労航海がスタートしたのだった。私の場合、就労への航路は、とてつもなく方角が分からない広大な海か、さもなければいつ途切れるか分からない、糸の先を逆ガリバートンネルに通して大きくした様な細道、それも“濃霧の細道”であった。取りあえず、学生時代から、帰国した時はいつも働いていたアルバイト先でお世話になりながら、『手当たり次第』という気持ちで就職活動を始めた。しかし・・・・・、本当に気持ちの上だけの℃闢魔スり次第であった。つまり、実際に受けた会社の数(履歴書送付のみで終わったところも含む)というのは、非常に少なかったのだ。
 卒業後半年間で、僅か30社あまりだっただろうか?同時期に就職活動をしていた高校時代の同級生たちは、300社以上受けていたというから、実に同年代の1/10という少なさである。何故これほどまでに少ない数で終わったのだろうか?
 確かに、生来の気の弱さと適応力の弱さから、想像以上の緊張や細かい【約束事】の多さを体感して、早々に及び腰になったというのはある。ほかに理由はいくつもあるが、一つ大きな理由は、受ける会社の範囲を限定し過ぎていた、というのがある。即ち、英語力が直接役に立つ会社ばかりを選んでいたのだ。


 私は、これまでずっと学生として生きてきて、正直、勉強に疲れたというのもあった。お金が無くて大学に行けない人が聞いたら、激怒しそうな話であるが、卓上の勉強ばかりの生活ではなく、言い方は軽いが気分を変えて、『働くという環境』に浸りたかったのである。そうしていく中で、実際に仕事をするのにこの部分の勉強が必要だと思ったら、また学生に帰ろうと思っていたのだ。
 実は、大学院進学を本気で考えていた事もあった。しかし、上記のような理由で、就職の道を選んだ。『生活を懸けて今すぐに』という思いからではなく、『気分を変えたくて』就職希望というのは、何ともふざけた話である。こんな動機だからどこも決まらなかったのだとすれば、ある意味、世の中は平等なのかも知れない。ただ、だからと言ってずっと学生でいても生活は大丈夫だったのか?と言えば、決してそうでは無い。大学院へ進もうと思ったのも、修士課程という『資格』を取れば、それを活かして、自分の夢に近い仕事に就けるかも、という希望があったからだ。


 夢に近い仕事・・・・・。


 学生時代、私は漠然と、『カウンセラーになりたい』と夢見ていた。何か人の悩みを和らげるための力になり、『自分でも人助けが出来るのだ』という事を実感したい、『自分がいて良かった』と自分で思える様になりたい、というのが、カウンセラーに憧れた理由であった。そして、カウンセラーになるためには、やはり大学院まで出ていなければならない、となったのだ。しかし同時に考えていた。
 『実社会で就職していろいろ悩んでいる人の相談を、就職した事の無い状態で受ける事が出来るのか?』
 答えは『否』だ。だから先に就職を経験しよう、という気持ちが働いたのである。『気分転換』だけが動機の全てでは無かったという事で(笑)。


 さて、話を就職活動時代に戻す。
 先ほど、『英語を活かせる会社ばかり選ぼうとしていた』と述べた。
 実は、私は寧ろ、英語からは離れてもいいから、何か地味でも勉強になり、それなりにやり甲斐も感じられる仕事に就きたいと思っていたのだ。それが、いざ動き始めたら、『英語』の2文字に固執していた。何故そうなったのだろうか?
 別に留学生だから一般の人とは違うというプライドがあったわけでは無い。そんなプライドは、最初から持ちたくなかった。しかし周りは、自分が留学上がりだという事で、それなりの仕事(語学を活かせる仕事)に就いてくれるだろう、と期待を寄せていたのである。英語と全く関係の無い仕事を選ぼうとすると、「何のために留学したの?もったいないじゃない!」と、たしなめんばかりの反応が返ってきた。
 誰に聞いても、返ってくる答えは一緒。
 「語学を活かして」「英語を活かして」「留学していたんですか?それならやっぱり英語力を活かさないともったいないから・・・・・」


 何か、英語以外に何も考えてはいけないのか?と言いたくなるくらい、『語学力の延長』という路線が、気が付けば義務化されている様に、私には受け止められた。
 日本人の、『英語』というものに対するこだわりは、一般的に見ても強いのだろうと、今振り返っても思う。
 私自身は当時、かたくなに英語にこだわるという事を、内心強く拒否していた。その理由は大きく3つある。


@自分の英語力そのものに疑問を感じていた
 「英語を話せる」と言われるが、実は私は留学生活を通じて、自分の英語力の伸びだけではなく、『限界』も感じ取ってきた。そして、自分のだけではなく、他の日本人の英語も聞いてきた。つまり、もっと流暢にしゃべれる人が、いくらでもいるの事を、体験的に知っていたのである。自分の英語力は、日常生活をする上では、一応問題は無かった。授業にも、しんどいながらも何とか付いていけてはいたが、早口だと危なかった。聞き取り・文法・読解の各分野においても相当苦しいレベルにあり、映画を観ても、聞き取るのはかなり苦労していた。その様なレベルで、いざ仕事として通用するのか?強い疑問があったのである。


A『語学力』だけが、留学(海外経験)を活かす手段なのか?
 語学力が、留学などの海外経験を活かす有効な手段である事は、誰も否定しない。だが、語学力『だけが』手段なのかと言うと、それは違うと思っていた。語学力は、耳で聞いて分かるものなので確かに分かりやすい。だが、もっと目に見えない、言葉は関係ない感覚的なものというのも、あるのではないか?と思ったのだ。それも前もって、『知識として』分かるのではなく、その瞬間その場面で、「あ、こういう感覚って、やっぱり留学経験がモノをいっているのかなぁ?」と気付くというものが・・・・。私は、今はまだ分からなくても、絶対にあると信じていた。外国語しか収穫が無かったら、逆にあまりにも浅過ぎると思った。今振り返って、自然にマイノリティーを受け入れる感覚とか、一瞬「え?」と思うような人の外観や発想を、「ああ、この人はこういう個性なんだな。」と、違和感無く受け止める感覚、「人はみんな違う」と、理解する以前に自然に感じるという感覚は、留学経験による部分が大きいと感じている。


B語学を活かせる職場と、自分に合う職場は、イコールではない
 これは私の中で、最も肝心な事であった。『英語』という一つの条件に固執する事で、英語を使う機会は無くても、他の面で自分にとって働きやすいという職場を、選択肢から外す事になる。仮に、私の英語力がもっと上であったとして、果たして世の中に、英語を話せる人を必要とする職場は、何割ぐらいあるだろうか?統計を取ったわけではないから分からないが、私は、『英語は必要ない』という職場のほうが、数的には多いと思う。そしてその中に、自分に合っている職場があるかも知れないのだ。英語は使えても、社風や仕事内容などは自分に合わない、という事態は十分に考えられる。逆に、英語は使わずとも溶け込みやすい雰囲気で、仕事内容も自分に合っているという職場は、その方が見付かりやすいと思ったのだ。英語一つにこだわるあまり、それ以外の選択基準を見逃すというのは非常にもったいなかったし、正直言うと、英語に対して、そんなに未練は無かった。寧ろ、留学したが故に、『英語を使える』を基準にしか、就職活動が出来ない、選択の幅が狭まった事が、寂しかったのである。


 現在、私は自分にとっては大変適職と言える、障害者福祉の職場に就職しているが、ハッキリ言って、英語は全く関係無く、海外との仕事上の関係も一切無い。英語を使う事は、何年かに1回、それも仕事で、ではなく、外国人に道を尋ねられた時とか、電車の駅員と外国人が話をしていて、駅員が英語が分からなくて困っている時に、たまたま通りかかったら通訳をしたり、というものだ。普段は完全に英語の事を忘れており、なおかつ今の仕事には大変満足している。もちろん、仕事なのだから厳しい面など、色々あるのは当たり前だが、総合的に見て、自他共に天職に近いと認めている。


 語学力に限らず、『自分に適した職場と身に付けた能力は、必ずしも一致するばかりではない。』
 これは教訓である。


 私はハワイの大学に4年間留学したが、留学の動機というのは、単に留学という体験を味わいたいというものであった。日本の大学より学校の雰囲気とか教育環境が向いているのかなぁ?と漠然と感じ、せっかく英語力も伸びてきた事で、という思いでハワイに行ったのであった。留学それ自体がゴールであり、卒業後の就職に有利不利というのを計算した、『手段留学』では無かったのだ。これが、周囲との温度差を生む結果となった。私が、『ゴールを全うしたらそれで気が済んだ』という思いで帰国してきたのに対し、周囲は、『留学は就職口を広げる(皮肉にも狭める結果になったが)ためのものなのだから、とにかく語学力を武器とする仕事に就かないと損』となったのだ。
 結果的に新卒当時の私は、自分の思いよりも周りの声を取り入れる様な格好で、英語重視の職場を探した。どこかで、自分に勇気が無かったという事だろう。ことに母親に対しては、ずっと学費を出してもらっていた手前、その事を理由に『英語力を活かして』と言われると、逆らい切れない部分があったのだ。そして結果は、大半は履歴書で、一部は面接を受けて、ことごとく不採用となった。英語力をPRしてみても、「いや、うちの社員はみんなそうですから。」で終わりだった。
 英語力検定のTOEICという試験も、一応2回受けたのは受けたのだが、そんなに弾んだ成績とは言えなかった。


実家の本棚にズラリと並ぶ、大学時代に使っていた教科書&辞書。今思えば、
これだけもの数の、英語だけで書かれている教科書を使って、よく授業を受け、
また、卒業出来たと思う。ある種の『勢い』があったと以外に、考えられない。



 次第に、英語という枠から離れたタイプの会社も、受けるようになっていった。特に高校・大学と、『受験』というものを体験してきた事を意識し、入試・受験の事で何か力になれるところがあれば、と思って、何社か受けた。でも、面接で落ちたり、最初に電話で仕事内容を説明してもらうと、思っていたのと違っていてあえなく断念、となったりした。


 この時期、母は私が英語を活かした仕事に就くよう、促していたが、父のほうはというと、そうでもなかった。その代わり父はこんな事を言っていた。
 「これからは、より情報を開放していく事に、関心を寄せないといけない。おまえ自身も、もっと情報に接していかなくてはいけなくなる。だからパソコンを習え。やっぱりパソコンだよ。」
 当時は、全くパソコンが出来ず、パソコンが嫌いで、父のアドバイスも、あまり積極的には受け入れようとしていなかった私。
 父が『情報の開放』という言葉を口にした背景には、父が大好きで、父の仕事の拠点だった中国の、『改革開放政策』があるとも考えられた。


 『自ら情報に接し、そして“発信”していく』。しかし、そんな事には丸で魅力を感じていなかった当時の私しか、父は見ることがなかった。
 今、連日、職場で自宅で、ホームページによる情報発信に燃えている私の姿を父が見たら・・・・・、『我が意を得たり』と思うだろうか?


 さて、その後も私は、求人広告や求人雑誌に目を通す一方、職安にも足しげく通って、自分でも大丈夫そうな就職先が無いものか、探し続けていた。だが、ワックス塗りの床を亀が進むような進展具合で、一向に見通しが立つ気配は感じられなかった。
 気が付けば秋深まりし。月日だけがどんどん流れて行き、世に言う『就職浪人』生活は続いた。


【先天性社会的適応困難(?)

 学生時代、というよりそもそも物心がついた頃から、心のどこかでずっと感じていて、就職活動を続けるにつれて、より顕著に感じるようになってきた事がある。
 それは、「どうも私は違う」という事である。言い方を換えると、「私は普通の人みたいになれない」という事だったのだ。
 では、一体何が『違う』のか?『普通の人』とは、どういう人を指すのだろうか?


 例えば、普段アルバイトをしている時の事である。私は日々精一杯働き、バイト先に貢献していたつもりではあるが、周囲の評価は相当厳しいものがあった。
 当時、日常的に言われていた事である(順不同)。


 @「お金を取りに来ているのに、仕事が遅い。○○さんは、同じ時間内でもっと速く仕事をこなせる。」
 A「普通その年(22歳)になったら自然と備わってくるはずのものが、お前には備わっていない。」
 B「もっと頭を使え!仕事は考えてしろ!何回言わせるんだ!頭を使え!」
 C「もっと周りの動きを読め!勝手に動くな!思い込むな!そこまでで終わらせていたら、仕事じゃない。」
 D「仕事は段取りと要領やぞ。分かるか?お前はその両方が悪い。」
 E「物事を、1から10まで説明しないと分からない。」
 F「その年になって、何でもっと『稼ごう』と目の色を変えないのか、不思議でならない。」
 G「良いか。仕事というのは、『何を、どうしたら、どうなるか』という事を考えて判断する事だ。」
 H「お前はどの様に気を遣っていいのかが分からないから、気を遣う事に対して気を遣っているのだ。」
 I「知らない事は決して恥ではないが、お前の場合はちょっと知らなさ過ぎる。」
 J「仕事を、基礎の基礎から教えないと分からない。」
 K「お前が会社に就職したとする。そこで何を怒られ、何が足りないと言われるか、手に取る様に分かる。」 


 以上、他にも細かくはいろいろあるが、大体主なものはこの12点である。
 今、客観的に振り返って、どれもその通りで、全うな指摘である。いくつかは、今もなお当たっていると感じる。
 Hの、『気を遣う事に気を遣っている』などは、まさに言い得て妙である。
 この12点の中で、当時の私を特に悩ませたのは、Aの『その年になったら備わってくるはずのものが備わっていない』と、Bの『頭を使え』の2点であったと思う。
 実は、仕事先からだけではなく、両親からも、母校(高校)を訪ねた時には先生からも、同じ事を言われたのだ。


 「何かこう、普通その年になったら、△△とか、□□をしようという気持ちになったり、◇◇に興味を持ったりするもんなんだけど、お前は全然そういうのが無いなぁ。」
 「決して焦る必要は無いけど、もっと自分からテキパキ動いて、ある程度世の中の動きにも対応していかないとね。そのままではちょっとしんどいよ。」
 「みんなもっと、すごい勢いで会社を回っていたし、第一卒業したのだったら、本来ならもっと稼いでないといけないのに、ずいぶん呑気だな。」


 上の文中に書いた△△や□□は、具体的には『自分からスーツを新調する』・『パソコンや車の運転などのスキルを身に付ける』・『社会的感覚や常識に明るくなる』・『人の言葉の真意(手口≒建前)を察する』・『新聞を毎日読む』・『就職セミナーを受ける』などを指す。そして◇◇は、『経済』・『社会情勢、世界情勢』・『一般概念、通念』・『営業など、各職種』・『周囲の目線』・『政治』などの言葉を当てはめたら良いと思う。


 元来、私は自分でもどうにもコントロールし難い、不安材料やコンプレックスを感じ続けていた。
 本気で頑張っても、みんなのペースに付いていけない。いつも自分だけ一段スピードが遅く、反射神経が鈍いものだから、それで周りからイライラされた事もあったのだ。それに、自分でも『頭悪いのかな?』と落ち込むぐらい頭が回転しきれなかったり、うまくコミュニケーションを取る、感情をコントロールする、周囲への目配りをする、ものの例えや冗談を理解する、といった事が不得手だった。そしてこれは今でもあるが、カーッとなりやすく、ちょっとした事でたちまち混乱し、ヒステリーの発作やパニックが起こっていたのだ。


 普通の人と、ある意味同じになりたかったし、同じ空気で接したかったのであるが、そうなろうと努力すればするほど、精神的にも『息切れ』が生じ、言い様のない苛立ちが募ってジレンマにハマった。自信も持てなくなって、果ては人と接する事自体、【警戒材料】と受け止める様になっていたのである。

 今の言葉で言えば、『KY』に相当する。私の性格は、【変わってる】・【ユニーク】・【個性が強い】と表現される事が多かった一方で、悪く出た時は、KYを地で行く様な傾向があった。ことに【抽象的な言い回し】を理解する事や、唐突な主語の無い語句(例えば、いきなり「頑張れ!」だけ言われる)の意味を理解するのが極端に苦手で、具体的に、例えなども交えて説明されないと、話の意味が分からない場合が多かった。この傾向は今もある。
 

 ところで、私が就職活動をしていた1996〜97年というのは、就職難がピークの時代で、『就職氷河期』という言葉を新聞で見ない日は、無いという状況であった。加えて、私の世代というのは、いわゆる『第二次ベビーブーム』という、極端に人口が多い世代で、ただでさえ絶対数が多いのに不況と来ているから、余計に就職には逆風だった。
 思えば就職試験に限らず、学校の入試でも私の世代は、『試験とは落とすためのものであり、いくら切り捨てても代わりは余るほどいる』と言われていたものだった。
 そして私の場合、アメリカの、決して有名ではない大学を卒業し(つまり、日本の大学を出ておらず)、また高校も、日本の教育社会としてはかなりユニークな、新規の国際高校を卒業していたため、そのあたりの、『学歴的ハンディ』というのが横たわっていたというのも、重要な事実である。
 それでも、同じ高校と、海外の大学を卒業した人で、就職出来た人もいるわけだし、就職氷河期でも決まる人は決まっていたのだから、あまりそういう『外的要因』ばかりを“言い訳”にする事は、出来ないというものだっただろう。


 とにもかくにも、こんな自分が、実に頼り無げな就職活動をしていた分けで、両親にもずいぶん心配をかけたと思う。
 「シャキッとせい!!」ともよく言われたし、
 「どうもお前は、何と言うか、非常に幼いし、無知だ。」と指摘された事も少なくなかった。
 「子どもの時から趣味が偏っているけど、今も社会の入口でウロウロして、自分の世界で楽しんでいるなぁ。」と、父に言われたほか、
 「お前は対人緊張症があるし、日常の基本動作を、もっとしっかり出来るようにしないといけない。」と、これも父に言われた。今でも強く印象に残っている言葉で、今の自分にも十分当てはまっていると言える。


 履歴書の書き方についても、母に言われた事がある。
 「何かあんたの履歴書って、すごく神経質な人が書いた物のように見える。それに普通、こういう事やこういう事は、書かないものよ。今度書いた時は、先に一度見せなさい。」
 書き方の見本をしっかり見ながら、自分なりにPRする語句も多用して、良く見られる様に書いたつもりなんだがなぁ・・・・・、と首を捻った。面接に際しても、「下を向かない事。キョロキョロしない事。」と、念を押された。
 ネクタイだけは自分で結べる様になった事に辛うじて手応えを感じながら、とにかく面接先から気に入ってもらえる様に振舞う事に、全力を注いでいた。

就職活動をしていた当時の、記入済み履歴書が、奇跡的にも1枚残っていた。不採用通知と共に、
返ってきていたのだろうか?平成9年3月21日現在、満23才とある。そして、まだ郵便番号も7桁に
なっておらず、560だけであるのが時代を偲ばせる。それにしても、母親曰く「神経質そうな字」の
履歴書であるが、今仮に書いたとしても、あまり字体は変わらない様な気がする。みなさんの目にも、
やはり「神経質そう」と映るだろうか?因みにこの日は、父が食道癌で入院中の時期であった。



 本当はもっと、エリートばりにとまでは言わなくとも、堂々ハツラツと社会に出て、親を安心させたいという気持ちは、あったのだと思う。だがどうしても、いざとなったら自信が持てなかった。何というか、現実に目の前に構える一般社会が、まるで正体不明のエイリアンの様に感じられて、「この世界にだけは、入っていけない。」という反応が、自分の心の奥深くで出てしまっていたのだ。


 何か違う。何か一致しない。何か否定されそうだし、こちらも否定しそうだ・・・・・。


 不穏な空気を感じていた。
 自分が疑問に思う事や意見を言いたい事は、どこかでいつも、【本当は黙って順応するのが常識】と言われる事だった。
 一方、自分が全く無頓着で、注意すら向かない事というのは、ほぼ確実に、【本当は主体的に知ろうとして、絡んでいくのが常識】と言われる事だった。
 そう・・・・・。自分も世の中に関心が無いわけでは、決して無かった。ただ、自分が疑問を投げかけて許される、異議を唱えて許される範囲が無い、という事に、暗黙の内に気付いていたのだ。


 普通に世の中で生きていきたいという思いとは裏腹に、【ズレている】という感覚だけが、日増しに強くなっていった。それが今で言う、『天然』という言葉だけでは片付けられない様な、極めて深刻な【ズレ】である事を、無言の風が告げてきていた。
 社会の中では、自分が小さく、削られた存在になっていく様な気がしていた。社会が私の自己を『排除しよう』と、両手を広げて待ち構えているという『妄想』に、とりつかれた。


 大学卒業の翌春である1997年4月、私は一度、父の会社の営業担当社員を語って、就職セミナーを受けた事があった。父の勧めで、“身分を偽って”受講したのであるが、その会場の空気というのが、今でも忘れられない。
 ピーンと張り詰めて、シーンとしている。空調の音だけが、やたら途切れずに聞こえてくるという感じだった。そして当然の事であるが、スーツを着ていた人が、ズラーッと座っていたのだ。私もスーツ姿だったが、何となく、『浮いた』様な感じがするのは否めなかった。就職活動の時もそうであったが、スーツというのは、どこか自分にとって、【非日常のシンボルで、敷居が高い】存在に受け取れて仕方がなかったのだ。今でも、馴染めないものとして映る。
 社会人の基本的な心得を聞き、会社で予想されるやり取りのロールプレイをやったのだが、私には会社の中での普通のやり取りというのが、いまだ現実感とかけ離れたものとして映っていた。一方で、就職活動を経験したにもかかわらず、である。


 父は、このセミナーを通じて、何とか息子が社会性に目覚めてくれれば、という気持ちでいた。だが、そんな期待とは裏腹に、当の息子の反応というのは、
 「何故、自分がこういう場所にいるのだろう・・・・・?」という、迷える子羊の様な、もともと以上に頼りないものだったのだ。
 帰宅後、感想を待っていた父に早速報告した。
 「勉強になって良かったよ・・・・・。」嘘ではなかった。だが、父が求めていた『勉強になった』とは、その方向が著しくズレていた事を、私は分かっていた。
 「取りあえず、今日ほど『社会人』という言葉をたくさん聞いた日はなかったな。」これが、実際の感想の中身だったのだ。
 父には、少々優等生ぶった態度を、示してしまっただろうか?


 【社会人】・・・・・。思えばこの言葉自体、自分から口にする事は、ただの一度も無かった。それだけ、この言葉が自分と切り離されて聞こえていたのだろう。こんな感覚だから、就職活動で受けた会社の数が、少ないままで終わったのだ。きっとそうだ。英語力にこだわる云々以前の問題だったのかも知れない。
 自分の事を社会人と言った事が無い社会人、これが、当時の私の姿だったのだ。  


【痛い自己PRの見本市

 現在の職場に就職して久しい私であるが、書店やネットなどで、『採用される履歴書の書き方』、『面接官が不採用と決める時』などという語句を見かけると、思わず「う!」と目を止める事が、今でもある。要するに、自分自身の過去を思い出すのである。この様な語句に、実際に関心を寄せなくてはならなかった若かりし頃にフラッシュバック≠キるから、思わず目線が行ってしまうのだ。
 前の項でも述べた通り、私は『自分の殻を破って就職に有利な人格を身に付ける』という、大人として常識的な行動を、全然取れないでいた。取れないままにしかし、履歴書を書く、面接を受けるという、直接的なレベルでの行動は続けており、実力が丸で無い私が、おのずと『熱意のアピール』だけに偏った就職活動に、終始していったのである。
 なるほど。確かに自分を売り込まないといけないのだから、PRすることは重要だ。だが、問題はその角度や内容にあった。私の記憶している限り、当時履歴書(『その他希望など』と書かれている欄)に書いた内容は、以下の通りである。


 『私は昔、学校で友達関係が大変苦手でした。そういう体験を活かして、心の豊かな人間になるよう、修行したいです。』(教育関係の会社を受けた時)
 『貴社のモットーである、笑顔の絶えない、コミュニケーション豊かな職場に≠ノは感動を覚えました。私もその様な職場でなら、すごく安心して働けるものと確信しています。』(どの業種か忘れたが、ある会社を受けた時)
 『まずは営業マンになって、様々な人生経験の修行を積みたいです。そして将来は立派なカウンセラーになってみせます。』(進学カウンセリングなどの事業を行う会社を、営業枠で受けた時)
 『留学経験者として、得意の英語力を活かせる事に、大きな生きがいを感じます。貴社で働ける喜びを、人にも誇れる様になったら幸いです。』(英語力が必要な、ある会社を受けた時)
 『お金をもらう事よりも、先ずはひたむきに一生懸命働いて、貴社に貢献したいと思います。』(どの業種か忘れたが、ある会社を受けた時)


 さて、いかがであろうか?確かにどれも、“悪い事”は書かれていないだろうが、かなり【痛い】、あまりにも未熟な内面が窺えるものになっている。
 面接の時もまた然りである。やたらと熱意ばかりを強調し、「私はこの会社のおこなっているこの事が、本当に素晴らしいと思いました。本当に自分もぜひ、それを行う一員になりたいと感じました。」、「留学を通じて、いろいろ海外で大変な体験もして、鍛えられました。」などと、何だか誇張する様な表現ばかりしていたのだ。ある会社では、「社員のみなさんは、営業では毎日走り回られてますか?すごいですね。私もハングリー精神では負けない様にガンバリたいです。」と、これまた相当に【痛い】事を言っていたのである。これではさすがに、採用しようと思う面接官はいないだろう。


 こんな『間抜けな』履歴書の書き方や面接の受け方をするぐらいなら、もっと自分から周囲に、「履歴書はこの様な書き方でいいのか?」、「この前受けた面接ではこのように答えたが、落ちた。次はどのように受け答えしたらいいと思う?」と訊いてみれば良かったのだが、実はそれが出来なかった。なまじ自分のやり方に自信が無くて、心のどこかで、「否定されそうだ」、「笑われそうだ」、「呆れられそうだ」という思いがあったために、逆に怖くて、また恥ずかしさもあって、誰にもチェックを頼めなかったのである。
 履歴書を送ったり面接を受けたりする相手は、全く知らない人だし、自分が見ていない、直接立ち会っていない場面で審査するから、かえって『恥をかいたらどうしよう?』という意識が、薄かったのであった。
 

 もともと、『世の中で恥をかく』という事に対しても、自覚が弱く、反応も鈍いところが、私にはあった。今でもあるかも知れないが、その様な【社会的未成熟】な面がある一方で、こと身内に対しては、逆に自信の無い部分や弱点となる部分を隠し、構える傾向があったため、結局、改善策も工夫も凝らす事なく、同じ様な調子で履歴書を書き続け、面接を受け続けていたのだった。


 ところで、上で書いた履歴書への記入内容の内、一番最後の、『お金をもらう事よりも、先ずはひたむきに一生懸命働いて、貴社に貢献したいと思います。』については、私の中にあった、ある【誤った社会貢献意識】が、こう記入する様に働きかけていた。その、誤った意識とは・・・・・。
 『給料以上の時間数働いて、なんぼ。』
 というものである。当時、私は普段のアルバイトの仕事で、その日の給料を渡され、勤務終了が告げられても、その後、少なくとも30分以上は働いていた。何かやれる仕事があれば、積極的に手伝っていたのである。もちろん、その分の給料は出ないから、いわゆる『サービス残業』と言える。
 しかし私は、この『残業』をしない事には、割が合わないと感じ続けていたのだ。日頃上司からも、「給料をもらう以上、その倍は働いて会社に返さなくてはならない。」と、厳しく教え込まれていた。特に自分は能力が低かっただけに、その日の給料を受け取るなり「ハイ、さようなら。」では、職場に対して申し訳ないという思いを、持っていた分けだ。


 スピードが遅い分、そして勤務時間中に何らかのミスをした分、時間以上に残って働いてこそ、職場も納得する。「もう、今日は終わりでええで。」と言われても、その言葉を真に受けてはいけない。そう、常に自分に言い聞かせていたのである。
 そうした事から、会社に履歴書を送るにあたっても、
 「お金のことばかり考えません。先ずは給料の倍以上働いて、御社に貢献します。」と書きたくなるのは自然の成り行きで、こう書いてこそ、相手の会社からも、「この人は常識的だ。まともな社会感覚を持っている。」と認めてもらえると信じていたのだ。


 結果は見事に的外れだった。
 送り返されてきた履歴書を母も見て、「あんた、こんな事書いたら、ほんとに毎日半分タダ働きさせられるで。そしたらどうするの?下手な事を書いてはダメやで。」と注意してきた。
 そのため、その後は同じ事は書かなくなったが、心のどこかで、一人前に給料をもらうのが早過ぎると感じていた部分は、確かにあった。もしかするとこの頃の精神は、今もどこかに残っているかも知れない。


『ひとりっ子』という事、『ボンボン』という事

 『社会人になり切れないナンバーワン』だった私が、当時、アルバイト先で毎日の様に言われ続けていた事、そして、そもそも学生時代から、友人にもしばしば言われていた事は、これである。


 「お前はひとりっ子だからな。」


 ひとりっ子・・・・・。
 私という人間を表現する上で、当時最も象徴的に℃gわれていたのが、『ひとりっ子』というひと言であった。
 私は毎日、必死で付いていこうとしていた。しゃにむに働いていた。しかし、無我夢中になればなるほど、かえって自分の不足な力や、至らない面が露呈される、『皮肉なローテーション』を繰り返していた。そんな中で、事あるごとに言われていたのが、「お前はひとりっ子だからな。」だったのである。


 「兄弟のいる人は、ちゃんといろんな事に気付く。でも、ひとりっ子だからそれが出来ない。」
 「兄弟のいる人は、もまれて育ってきてるからな。ひとりっ子は全部やってもらってるから。」
 「兄弟のいる人は、やっぱり鍛えられてるから。ひとりっ子は周りの事を見る力が足りない。」


 毎日毎日、“取りあえず私に何か言うなら先ずはこのひと言ありき”、と言わんばかりに、繰り返し言われ続けていた。
 正直、無力感が積もってきた。だって自分では、どうする事も出来ないではないか。ひとりっ子になったのは、何も自分が原因≠ナはない。偶然にもそうなって、いち生まれてきた存在として、自分の目に映った世界、目に飛び込んでくる環境を消化して、育ってきたのだ。何も変に計画を立てて、「普通はこうだけど、俺はこうしてやろう。」と思いながら大きくなってきた分けではない。それが、社会に出たら、『ひとりっ子』であるが故に周りと違い過ぎて、環境に順応していけず、怒られてばかりになる。
 「そんなにも自分は特別なのか?」という気持ちだけが、支配する様になってくる・・・・・。


 「お前だから悪い。」と言われるよりも、「ひとりっ子だから悪い」と言われるほうが、よっぽど傷になった。
 『自分』が原因なら、直せるのだから、いつでも【自己責任】として受け止める事が出来る。でも、『ひとりっ子』が原因となると、それに対して【自己責任】・・・・・?
 抗議したい気持ちは、確かにどこかでくすぶっていた。だけど、まだ仕事も出来ない≠フに、その様な主張をする権利など、無いように思えてならず、目の前を見るのが怖かったのだ。


 『世に訴え、人に訴える権利は、仕事がどれだけ出来るかという能力にしか、比例しない。』
 という気持ちが、この頃、強く渦巻いていた。


 【ひとりっ子になったのは、その人の自己責任】というのは、確かに一面、不条理にも聞こえる言葉である。
 自分が“原因”ではない事や、自分に落ち度や怠慢があったのでは無い事に対して、そこまで世間は【自己責任】とするのか?という疑問の一つぐらいは、今だったら投げても許されるのかも知れないが、新卒当時は、とても許された心地にはなれなかった。


 『兄弟のいる人みたいに、ちゃんとしよう』、『兄弟のいる人みたいに、優秀な人になるぞ』という目標を立て、私は一生懸命努力した。それでも、何か気が付かなかった事、頭が回らなかった事があると、たちまち『ひとりっ子だから・・・・』となる。
 自分でも、本当に切なくなっていた。違う自分に、まるで兄弟がいる様な自分に、生まれ変わりたかった。ここまで生きてきた生い立ちを、否定しなくてはならないと思った。この時を境に、心の芯に、しかと言い聞かせている事がある。それは、


 『ひとりっ子は子どもの内だけ良くて、大人になってからは幸せではない。社会に出てから、受け入れられないものばかりを露呈して、適応能力が付かない。ハンディにこそなれ、利点にはならない。』


 という事である。なるべくなら、兄弟のいる人の様に見られる事が、人から好印象を持ってもらう事につながる、と確信して、今でもそう思う傾向はある。だが一方で、ひとりっ子である事をマイナス視し過ぎて、イジケてばかりいても始まらないというのも、事実だ。
 ほかのひとりっ子の人が、その事をどう受け止め、社会の中でどう適応力を身に付けてきたのか?または付けようとしているのか?という事に興味を持つのも大切だし、【兄弟のいる人】の視点や言い分も受け入れなければ、フェアじゃないと思う。


 さて、【ひとりっ子】と並んで、もう一つ私がよく言われた言葉、それは【ボンボン】である。
 【ええとこのボン】、【お坊ちゃま】という言い方もされ、今でも時々こう言われる事がある。30歳近くになってから、初対面の人にいきなり、「あなたお坊ちゃまね。」と言われて、思わず口を閉ざしかけた事も(笑)。
 この【ボンボン】という言葉も、一般的には、あまりいい響きを持っていない。
 「あいつはボンボンやねん。」と言ったら、大抵は、「苦労知らずで金持ちで、世話が焼けて指導が大変」という事を意味する。


 正直に言う。
 私は、食べていく苦労は、した事が無い。その事に対して負い目を感じる事は、今でもしばしばある。本当に、これほどまでに、金銭的に厳しい生活状況に置かれている人が、多いのだなと感じる。
 いや、勿論私も、自分の貯金が底を尽きかけてキツかった時期はあった。しかし、親元で暮らしていたから食べるのには困らなかったし、もともと、子どもの頃からの生い立ちとしては、比較的裕福な方だったと思う。この事がしかし、社会に出て以降、人のお金の苦労がピンと来にくいという、世の中でやっていく上での、言葉は悪いが『弊害』をもたらす結果となった。
 誰だってお金は欲しい。私だってお金は必要だ。それに今は必要分お金があっても、一生うまくいく保障なんてないから、いつなん時、どうなるか分からない。だけど、比較的お金はある方という家庭に生まれて、しかもひとりっ子で温暖平穏に生きてきたために、実社会との温度差は、今なお激しいものがあると感じるし、かつてはもっと、天文学的な温度差があった。


 「お前はボンボンだからや。ずっと親に食わせてもらってきたからや。食えないって分かるか?」
 「俺なんてガキの頃、貧乏だった。だから今も気合い入れて、『稼ぐんやーっ!!』と思ってるねん。お前はまぁボンボンやから、やっぱり甘いんや。どっか抜けとるし。」就職にことごとく失敗し、日々仕事のスピードにも付いていけてなかった、あの頃、私はよくこう言われた。
 「やっぱり恵まれてるって、ダメだなぁ。一般と感覚を共有出来ない。」つくづく思ったものだった。


 ある時、母親からもこう言われた事がある。
 「あんたは、あまり世間の風に触れずにここまで来たからね。まあ、こっちもあまり、触れさせない感じでやってきた部分はあるけど、だから世間の事が分からないし、いろいろ世の中の事が見えないのよ。」


 外で同じ意味の事を言われるのと違い、親にこう言われるというのは、何だか複雑な気持ちがした。
 『普通の人より世間の風に触れない人生になったのは、自分も悪いけど、親のやり方も一因してるじゃないか』という思いが沸き上がったからだ。
 今となっては、親に文句は言いたくはないが、それでもボンボンで、なおかつひとりっ子と、この両方が重なっているというのは、人の成長にある種の影を落とすと、正直、言わざるを得ない。


 父がまだ元気な頃、「お前は恵まれてるんだから、それを上手く活かせばいいと思う。」と語っていた事があった。
 なるほど。別に恵まれている事を、頭ごなしに否定するつもりはない。恵まれているのは確かに幸せな事だし、ここにきて若い頃以上に感謝する気持ちも出てきている。それでもなお、もう少し人に通じる感覚が育てば良かったな、という思いも消し難いのは、単純にぜい沢なだけの話だろうか?仮に自分が貧しい家庭に生まれて兄弟もいたら、もう少し、なるべき時に、しっかりした大人になっていたのだろうか?と想像を巡らす事もある。これもまた、ぜい沢な話か。


 そういえば、これは親戚から聞いた話だが、亡き父は生前、私の事で周囲にこうコボしていたらしい。
 「息子は、30歳ぐらいにならんと、大人にならない。」   


突然の【役者志願】、その本当のワケ

 大学卒業から丁度半年が経った、1996年11月中旬、私は、恐らく生涯で最もユニークな体験をする時代のスタートを切った。俳優養成所への入所である。私はいきなり、役者を志願する様になったのだ。
 もともと、演劇に興味があったわけでも、過去に役者の世界との接点があったわけでもない。では、何故いきなり役者志願なのか?きっかけは2つあった。


 一つは、たまたま、私が就職活動を始めてから2ヶ月という時期だった1996年8月、あの『フーテンの寅さん』を演じていた渥美清が亡くなり、それを機に、世が『回顧:寅さんブーム』となったことだ。子どもの頃から、何回か観た事があった『男はつらいよ』は、決して印象に残っている映画ではなかったのだが、『追悼:渥美清=寅さん再ブーム』に乗っかって、私も最初の何作かと、最後の何作かを観てみたのだ。そしたら、特に最後の何作かの作品が、強く印象に残ったのである。ちょうど寅さんと並行して、甥っ子の満男君が就職の壁に苦しみ、挫折をする一方、典型的な世間知らずで、アウトローを地でいっていた『オジさん』=寅さんに魅力を感じるという設定。どこか自分と重なる部分があった。最も、この私には、いわゆる寅さんに相当する人の存在は、全く無かったが・・・・。
 コミカルで、なおかつ人間味あふれる寅さんの存在感=演じる渥美清の芝居にも相当惹かれるものがあったし、その寅さんに近い関係の満男君(吉岡秀隆)が、羨ましくもあった。気が付いたら、満男君が大きくなった、『男はつらいよ 第42作』以降の作品は全て、それも繰り返し観ていた。


 二つ目のきっかけは、同じ96年の10月に観た、寅さんシリーズと同じ山田洋次監督による、ある映画である。この映画は、知的障害者が主人公として登場するものだったが、実は少々論議も沸き起こり、本当の知的障害者の親などからは、疑問の声や、『実際はこんなんじゃない』という指摘の声が多く出たと聞いている。しかし、私が初めて映画館でこの映画を観た時は、ある場面に対して強烈に共感を覚え、思わず胸が震えてしまったのである。その場面とは、軽度の知的障害者で、一般企業に就労を果たしたものの、なかなか仕事のペースに付いていけず、周りからもからかわれていた主人公が、自分の能力と周囲の目線・期待とのギャップに苦しみ、悶え、挙げ句、「遠くで一人自殺をしようか」と考えるまでに追い詰められて、号泣するという場面である。当時の私の状況と、これもまた、かなり重なる部分があり、私の中で急速に、「自分も映画に出て、自分自身の胸の内を思いっきり表現したい。人々に語りたい。」という思いが、沸き出る様になったのだ。
 奇しくも、この主人公を演じていたのが、『男はつらいよ』で満男君を演じていた人と同じ吉岡秀隆であり、私は、世代も近かった彼に憧れ、そして寅さんに対する憧れも募っていた。そして、2つの映画を撮った山田洋次監督とも触れ合いたい、という衝動≠ノも駆られる様になったのである。

今でも国民的人気があると思われる、『寅さんシリーズ』のビデオ。ここに写る、第42〜47作を、
私は特に好んで観た。何回も借りては観るを繰り返していたものだ。その位、自分と重なる何かを
感じ取ったのだろう。それにしても、たまたま就活初期の頃に渥美清が亡くなるという事が無ければ、
私は寅さんシリーズに目覚め、現在につながる、ある種の『ヒント』を感じ取る事は無かった。
本当に、物事が起こる巡り合わせやタイミングというのは、不思議なものである。



 『もし映画に出たら・・・・・、役者になって自分を表現する事が出来たら・・・・・、自分は、世の中に認められるかも知れない。そうすれば、自分に出来る事、そして何より、自分の居場所≠得られるだろう。それに映画に出て、熱演して人を感動させる事が出来れば、すごく大きな自信になるし、世の中に“味方”が増えて、生きやすくなる。』


 私は夢見心地に、その様な思いを本気で巡らせて、止まらなくなっていた。
 それだけではない。一体どこまで『暴走』を続けるのか。こんな事まで想像する様になったのだ。


 「役者になって、素晴らしい仕事が出来れば、有名にもなれる。そしたら当然、『知名度』という看板が着くのだから、それを武器に、例えばマスコミに呼ばれてテレビに出演し、自分の思いを話す機会も出来るかも知れない。何もない、ただの無名な人がいきなりテレビに出て自分の思いを語ったとしても、誰も支持してくれないだろう。でも、『知名度』という看板を引っさげ、『役者という仕事で結果を出した人』という立場でものを言ったのなら、支持してくれる人も多くなる。役者で“認められた”という事で、一目置かれるだろうから・・・・・。」
 メディアに対して自分の思いを発信し、それを世論に支持してもらえる。そうする事で、従来は許されなかった様な考え方や価値観が許される様になり、自分は安心出来るし、同じ境遇に置かれている他の人たちも、救われる。
 世の中のペースに付いていけず、不利な立場を強いられている人にとって、自分が代弁者になれる・・・・・。


 今振り返れば、何とも都合の良い、おこがましい発想である。しかし、当時はこの様な甘い夢に、どっぷりと浸かっていたのだ。それだけ、自分が『世の中で受け入れられる』という事に、躍起になっていたのだろう。
 仮に、本当に有名になってテレビで発言する事になれば、それはそれで責任は重大だし、発言した事が、そのまま自分の望み通りの展開をもたらすとは、限らないのである。そんな現実も、当時は頭に入る余地が無かったという事か。


 私はこうして、いきなり役者の世界の門をたたくに至ったのである。たまたま時を同じくして新聞に、『新人俳優 研修生募集』の広告が載っていたある養成所のオーディションを受けたところ、無理かと思われていた一発合格を果たし、晴れて『役者の卵人生』が始まったのだ。
 すぐに仕事が来るなどとは、もちろん思ってはいなかった。それでも、実際に養成所に通っているのだという『感触』は大きいものがあり、「いつかきっと夢が」と思いは、持ち続ける事となった。


 ところで、俳優養成所の合格が決まった日というのは、実は祖父が亡くなった日なのである。1996年11月13日午前4時7分、祖父は82歳で永眠。この時刻、私はバイト中で、携帯も無い時代だったので、母がバイト先に電話で知らせてきて、私は病院に飛んで行った。そして祖父の亡き骸を家に帰した後、私も家に帰って仮眠を取り、熟睡していたところをいきなり母に叩き起こされて、「何事か!」と思ったら、養成所からの合格通知が届いていたのである。
 悲しい事とめでたい事が同時に起こったというのは不思議な巡り合わせだと感じたが、後から思えばこれが、来たるべき【次の運命】への予告だったのかも知れない・・・・・。


 4年3ヶ月間在籍していた養成所だったが、最後は膝の関節を痛め、また経済的に厳しくなってきた事もあり、結局退所した。
 今となっては役者を目指した事は、世の中に優しさを求め過ぎていた時代の、象徴的体験として位置付けられている。もちろん、これは飽くまでも【私個人にとって】であり、一般的な話では断じてない事を、念のため申し上げておく。


 役者の世界から身を引いて8年目、現在でも私は、「何故役者を目指していたのですか?」と人に訊かれる事が、時々ある。その度に私は一瞬、「ウ〜ン・・・・・」と言葉を濁すのであるが(照笑)、真の動機というのは上記の様な、自分が世の中から優しく見られたいという、“願望”だったのである。


アルバイト退職決意の時・・・・・、父に【癌の宣告】

 年の前半は大学卒業に向けて卒論に追われ、後半は就職活動、さらには俳優養成所入所という『激変の1年』も、いよいよ終わりを迎えようとしていた、1996年12月、私はいつものアルバイト先で仕事を続ける中で、体の異変を感じていた。時折、身をよじらないと耐えられないぐらいの激痛が、胃〜十二指腸周辺を襲ったのである。それはそれはひどい痛みで、およそ今までに体験した記憶の無い、言葉では表現し難い痛みであった。最初の瞬間は、「アタタタ・・・・・、ン?」という程度で流していたのだが、どんどん痛みは増し、普通に立っているのもやっとという程になった。それでも慌しく時間に追われながら動き回っている時はまだ和らいだのだが、ちょっとひと段落して動きを止め、我に返ったというか、冷静になった時、たちまち激痛に襲われたのだ。
 「何なんだ、この痛みは・・・・・?それに、この前まで何もなかったのに、何で急に?」
 仕事場を離れれば、痛みは起こらない。でも、仕事場では最初は何日か置きに、その内に毎日痛みが起こる様になっていったのだ。人が見ていない隙を見て、顔を歪め、痛い箇所を手を速く動かしてさすりながら(一見、掻きむしっている様に見える動き)、何とかして痛みを散らそうとした。動いていると痛みがマシなので、出来るだけ動き、仕事に神経を集中させた。それでも、胃の辺りを突き刺すような、強烈な電気を流されて火傷でもしたかのような痛みは、日ごとに私を圧迫していった。何とか身をよじり、くねらせてごまかす私の額には、脂汗さえ浮かんでいる時があった。
 何となく、嫌な予感が頭をよぎった。『ストレス・・・・・?』
 出来れば認めたくなかった。何故なら、ちょっと仕事、それもアルバイトがキツいぐらいの事で、胃をやられるまでにストレスを感じていたら、よそで働いた時に通用しないからだ。
 「何がストレスなんや?自分が弱いから胃痛になるんやないか。もっと自分に厳しくしろ!」と、バイト先の上司からも怒られるのは、およそ目に見えていたのだ。だから家に帰っても一切話さず、嵐はひたすら黙っていれば去る、と信じることにしたのだ。
 そのうちに年末年始の休みに入り、束の間の休息。年が明けて仕事が始まると、また胃痛が再発した。しかも、お腹全体が、なにかパンパンに張ってきて、鈍〜く腹痛も起こっている様な、不自然にお腹の下の方に重心がかかる様な感じがして、ますます変になった。
 ・・・・・・もう、放ってはおけない。痛み発生から7週間、私は両親に打ち明けた。


 「早く病院に行きなさい!何で7週間もガマンしてたの!?胃に穴が空いて手術しなきゃならなくなったら、どうするの!!」
 ものすごい剣幕で、母親に怒鳴られた。
 比較的冷静に反応していた父に対して、母はまさに金切り声であったが、これにはハッキリとした訳があった。
 これより3週間前、父が、癌の宣告を受けていたのである。あと10日ほどで入院して、その更に10日後には手術を受ける事が決まっていた。父の癌は食道癌で、手術には実に8時間以上もかかるとの事だった。早期なのかそうでないのか、それは体を切開してみないと分からないという。発見されたきっかけは、前年の暮れ頃、父がビールを飲んでいて、「少し喉の下あたりが、しみる様な気がする。」と言い出し、検査を受けてみた事だった。酒好きで、愛煙家でもあった父。食道癌に最もかかりやすい人は、ヘビースモーカーだという、主治医からの話だった。


 近く、大手術を控えていた父。母も私も、内心強い不安を抱えていた一方で、その私自身も胃を手術しなくてはいけなくなったとすれば・・・・・?母の心中は察して余りある。私は間もなく病院に行った。結果は、『急性神経性胃痙攣』だった。仕事上の負担が重なり、精神的にかなりの疲労を起こしているというのだ。解決策としてはズバリ、『社会環境を変える事。そのためには、今働いている所から、いったん離れる事を考えなさい。』と言われた。


 『今働いているところから離れる・・・・・』
 ハッキリ言って、一番恐れていた、だが、見方を変えれば、医者からそう言われたという事で、逆にホッと出来そうだとも受け取れる一言だった。
 その後も引き続き、同じアルバイトに通っていた。病院に行き、薬ももらって精神的にかなり安心していたが、相変わらず鈍い痛みや、お腹が張る様な感覚は起こった。事実上のドクターストップ。だが、どう切り出せば、うまく辞められるのだろうか?
 ハッキリ言って、就職が決まったわけでもなく、ましてや役者としての仕事が入ったわけでもないのに、いきなり今のバイトを辞めるというのは、考えられない話だったのだ。本当に辞めるとなると、まさに一大事だった。
 さすがに巧い理由を編み出せず、悶々と過ごしていると、母からひと言。
 「父が闘病生活に入ったから、看病に専念したいと言えばいいじゃない。あんまり良くないけど、この際こういう事も、うまく理由として使うのも、一つの手だよ。」


 数日後、私はバイト先で、その日の勤務が終わった後に社長を呼び、恐る恐る辞意を伝えた。「父の看病に徹する」だけではさすがに理由として不足していると感じ、正直に、神経性胃痙攣の事も話した。そしたら、予想通りの答えが返ってきた。
 「このくらいで何言うとるねん?胃痙攣か何か知らないけど、お前のムクで甘いところが出たんや。」
 「そもそも、胃を壊すという事自体がなぁ・・・・・、既に問題なわけであって。でも、ええよ、辞めるならそれこそ、今日限りでも。確かにある意味、向いてないもんな〜。もっとウチに置いて、育てたい、伸びて欲しいという思いもあったんやけど・・・・・。」
 「え?逃げてる様に見えるかって?う〜ん、逃げてると言えば逃げてるとなるのか・・・・。でも、お父さんの事もあるし。まあ一度、外に出ておいで。」


 夜明け前の帰路、私はとてつもなく大きな山を越えた脱力感で、自転車に乗っていて思わずヨロけそうになった。思えばこの2ヶ月ほど前、あるミスに対してあまりにこっぴどく怒られ、いい加減自分が情けなくなって、泣きの涙でシャックリを上げながら帰った事もあった。
 「一つの大きな時代が終わるのか・・・・・。」と、白い吐息が一層深いものになった。
 厳しい思いをした体験ばかりを書いてきたが、実際には学生時代から、働きに行けばものすごく歓迎してくれ、頑張りや努力については褒めてくれた事もあって、実に可愛がってくれた。
 長くやっていたので、時には、「お前が編み出したこのやり方は、いいな。処理も速くなってきた。」と、認めてもらえた事もあったのだ。


 まだ若かった私。異性に片想いをした悩みなど、身の上話を親身になって聞いてくれた事もあった。仕事に対しては滅法鬼だったが、ほかの部分では優しかった。私の誕生日に、一緒に銭湯に行ったりもした。
 怒っても怒っても、その度に、「脈があるから怒るんや。見込みが無かったら怒らない。人生、怒られてる内が華やで。」と、フォローが入った。そして、一番私を引きつけたひと言が、この言葉だった。


 「ウチは特にキツいんや。ウチで通用出来たら、世の中どこ行っても通用出来るで。」


 こういう言葉を聞ける職場で、どんどん力を付けたかった。お金以上に、修行のつもりで通っていた。『どこ行っても通用出来る』ほど、魅力的なひと言は無かった。
 最後の日の帰り際は、「人間真面目に努力していれば、必ずいい事ある。それを信じて頑張れ。うちはこんな所やけど、またいつでもおいで。」と、はなむけの言葉をくれた。


 退職から12年目。今でもここでの経験というのは生きていると思う。心から感謝する次第である。


 さて、バイトの辞意を伝えた私は結局、その月の末日まで働き、同時に父は入院した。翌2月10日(1997年)、私の胃痛もようやく癒えた頃、父は食道癌の手術を受けた。
 8時間半にも及ぶ大手術で、結果は成功であったが、進行具合としては、「早くも遅くもない。」という、ある意味、予断を許さない結果だった。食道を全部切除して、胃を細く延ばして喉元につなげるという処置をとったというが、驚異的な回復を遂げ、手術2ヵ月後には退院、3ヵ月後には復職も果たした。
 「これですっかり安心だ。あ〜良かった!!」と、心から喜んでいた。この年の暮れ、『肝臓に転移していて手術不可能』と、医師に宣告されるまでは・・・・・。

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