こんな俺でも生きてはこれた
〜希望無き船出だった就労航海=m後編]〜

希望消ゆのち、待ち受けていた辛い役割
運命の『跡継ぎ指名』 −人生最大の“ジレンマ”に苛まれた時−

それでも神様は見ていたのか?【絶妙の3連休】
赤裸々暴露編:「私は今、敢えてタブーを犯します」
我が人生、2つの【ターニングポイント】 〜母に隠していた、ある真実〜
藁にもすがる思いで就いた、【介護職】 〜決してきれいな動機ではなかった〜
『営業発』トラウマ行き
終章 −こんな俺でも生きてはこれた−

※印刷をして手元で読みたい方は、Word版をどうぞ(写真は割愛しております)。



希望消ゆのち、待ち受けていた辛い役割

 1997年のクリスマスイブ、父は、この年2月に手術した食道癌の肝臓転移のため、再入院した。ほんのひと月前の検査ではどこにも転移していなかったのが、この時の検査でいきなり肝臓に転移している事が分かり、しかも手術するには進行し過ぎていて、抗がん剤による治療しか方法が無いと、宣告されたのである。


 『抗がん剤』・・・・・、さすがに背筋が冷たくなり、胸騒ぎがした。母の顔も一層曇っていき、絶望の色が濃くなってきて、事の深刻さを物語っていたのだが、私はかたくなに、助かると信じていた。今にして思えば、“希望を失わず、明るい結末を信じる”という体験の、最後となったのであるが、ここでもし本当に父が助かっていたならば、最後とならなかったかも知れない。
 『絶対助かる』と言い聞かせ、明るい結末だけを信じていたのには、ひとつ、大きな訳があった。


 実は、この時、父の母親である私の祖母も、胆管細胞癌のため、入院していたのである。父が食道癌の手術をしたちょうど4ヶ月後の1997年6月に手術を受け、当日、父は仕事を抜け出せなかったため、私が手術に立ち会った。年に2回手術に立ち会ったのは、この年だけだ。7月に退院し、その後は毎日私が様子を見ていたのだが、10月のある朝、祖母を見たら、顔中に黄疸が広がっていたので、慌てて病院に連れて行ったのだ。緊急入院となり、その時点で余命2ヶ月以内、もちろん再手術は不可能と宣告された。そして12月に息子≠ナある父が再入院。この時、お互いに違う病院だったことが幸いしていたが、もし同じだったら、この後、言いようの無い悲劇が起こるところであった。まさに、この、同じ家族でありながら入院先が違ったというのは、神か何かの計らいがあったと見て良い。


 祖母は再入院後、思いのほか調子が良くなってきて、一時帰宅も許されそうな状態になった。一方で父は確実に、衰弱が進んでいた。もし父が先に死ぬような事があったら、祖母は自らの死を前にして、息子の死を知るという、あまりにもむごい結末を迎える事になってしまう。
 祖母自身は(そして父も)、自分は助かると信じていたが、それなら尚さら、少し元気になって一時帰宅をした祖母が、同じ建物の一つ上の階にある息子宅を訪ね、そこで“異変”に気付く、なんていう事になったら、これはもう、『気の毒』や『同情』という言葉では済まされないものになる。ショックのあまり生きる気力が完全に無くなり、それが引き金で“旅立つ”という様な最期には、絶対になって欲しくなかった。
 そのためにも、父は『助からなければならない存在』になっていたのだ。今ここで父が亡くなることは、『有り得ない』と、かたくなに否定していたのである。


 ところが・・・・・、父は逝った。最後は呼吸器を着けていた父の、その呼吸の音が止まったのだ。母が父の体を揺さぶりながら、『息して!ねえ、息をして!!」と絶叫したためか、少し間を置いて2回ほど呼吸器が動いたが、その後・・・・・、二度と父の体が動く事はなかった。ヘナヘナと力が抜けた。線が真っ直ぐになった心電図を見て、周りの全ての音が聞こえなくなった様な気がした。


 希望、消ゆ・・・・・。この瞬間を、私は忘れない。
 凍りつくような病室の空気。不気味なまでの、重苦しい沈黙。全て目の前の現実としては、受け入れたくない光景だった。
 この時を境に、私の中で、ある部分の人生観が変わった。それは、『未来を占う』という事についてだ。それまでは、
 『未来というのはこれから誕生するもので、今の時点では、何がどうなるか分からない。そして、【思い】を持ち続ければ、それが通じる事だってあるのだから、諦めずに希望を持とう。』
 という考え方をしていた。それが、父の臨終を告げられた瞬間、
 『未来というのは、実はどうなるか決まっている。自分が分からないだけで既に結論は出ているから、そこに【思い】を持ち込んでも無意味。物事、通じない時は通じないし、ダメな時はダメ。今の時点というのは、結論が出ている未来を終点として、そこから遡って来た途中停車駅である。』
 という考えに変わったのだ。この『結論既出、現在即ち後追い論』は、今も私の心の中心で、不沈盤となっている。


 さて、ここで私や母、そして親戚の人たちと、ある議論をしなくてはならなくなった。祖母の事である。
 そう。父が先に逝くという、最悪のシナリオが現実となった以上、あとに残った祖母に対して、果たしてどうするか?という事だった。


 『息子(父)の死を知らせるか否か?』大問題である。


 親戚の内の何人かは、「もし病院に電話をしたりして本当の事を知ったら、本人は『何故知らせてくれなかったのか?』という気持ちになるかも知れない。辛い事実だが、知らせる必要はあると思う。」と言っていた。
 しかし一方では、「言い方は悪いけど、お婆ちゃん(祖母)だって余命は僅か。本人は一時帰宅も、しんどいし家が寒いという理由で望んでおらず、暖かい病院で満足しているところがある。人の言う事を真っすぐ信じるタイプで、勘ぐったりする事も全くないから、『息子に連絡は、つながりにくいから止めといてだって。』と言ったら、それで大丈夫。黙っていたら、そのまま知らずに済むだろうから、知らせたくない。」という意見も出た。
 母は、「本人に会ったら、思わず涙があふれてきて、顔に出そう。そしたら気付かれると思う。不安で会えない。」と言ってきた。


 私はというと、やはり知られる確率が極めて低い事から、知らせない方が良いのでは?という考えだった。結局、この考えが通り、みんなで、言葉は悪いが『口裏合わせをして』、真実は言わない事に決めた。
 

 その後、ほぼ毎日祖母の見舞いに行き、嘘八百を並べて&モフ『偽の近況』を報告する役目の中心が、私になった。
 一番最初は、父のお骨上げの翌日に見舞いに行き、開口一番、「お父ちゃん、どないや?」と聞いてきた祖母に、
 「うん、今日はちょっとだけ食べたかな。まだあまり体力は戻ってないけど。」と言った。言いながら、めちゃくちゃ変な気分だった。
 親戚たちとの話合いで、私自身も『最後まで知らせない』を選択していたにもかかわらず、いざ実行すると、およそ言葉で表現出来ないような、妙な感覚、強い違和感≠ノ支配されたのである。
 『親父は死んだのだ。昨日、骨になっていた。それがまだ生きている?・・・・ン?どっちがどうなのだ・・・・・?』
 そしてまた、こうも感じていた。
 『今婆ちゃんに言っている事の方が、自分がずっと信じ続けていた事やないか!今、親父は生きていて、少しずつ回復している。これこそ、俺が本当の事として言えたらいいのにと、今でも思っている事だ。そうか。この場でだけ、俺の夢が叶っているのか・・・・・。』


 父が死んだ後には、この様な辛い役割が、私を待っていたのであった。


 その後も、『辻褄合わせ』、『偽状況作り』に余念が無かった。親父の死後、2回目に見舞いに行った時は、先ほども出てきた、『親父のいる病院は電話がつながりにくいから、かけない方がいい。』という事を言った。これだけでは不十分だと思い、
 『親父もまだちょっとしんどくて、電話に出たりするのが億劫だと言ってる』
 『個室にいたんだけど、病院の都合で大部屋に移って、そこには電話が付いてない。』
 と、これも事前に親戚と話し合った上で言った。この内の2つ目は、実際には有り得そうも無い話だが、そんな話でも、特に孫の私が言うとストレートに信じるのが、祖母の特徴であった。
 そしてこの一言を添えるのも忘れなかった。
 『お袋は、親父の看病だけで一杯一杯で、ここには来れる時間を持てない。いつも、よろしく伝えてと言ってる。』
 祖母は、『それでええねん。お母さんには、お父さんの事に専念して欲しい。』と、まるで出来過ぎというぐらいに、こちらの思惑通りの反応を示してきた。


 時折、こんな自分の役割を少々揶揄(?)して、こんな風に自問する事もあった。
 『何でワシ、いつもこんな役回りやねん・・・・・?』
 この言葉は現在、人にイジられたりからかわれたりした時に、ワザとボヤくセリフとして、私の口から飛び出す様になっている。周囲の笑いを取るための、一つの定番文句になったこの言葉だが、もともとは父亡き後の祖母の見舞いの際に、思わず一人で呟いたのが始まりであった。


 最後まで、私を中心とした周囲の『ハッタリ作戦』に囲まれて、本人自身は平穏無事な入院生活を送っていた祖母は、1998年8月11日午前2時34分、父の死から約半年で、逝った。81歳だった。
 意識が無くなる数時間前、自らの死期を悟った祖母は、病室で遺書をしたためていた。その母親宛ての遺書にはこう書かれていた。
 「○□(←私の父の名前が書かれていた)の事を、くれぐれもよろしくお願いします。」
 

 ・・・・・『作戦成功かぁ・・・・』、私は思わず心の中で、ボソッと呟いていた。
 因みに私宛ての遺書はというと、
 「語学を活かした仕事をして下さい。」と、「結婚して家庭を持って下さい。」の2つ。
 これ、どっちも果たせないじゃないか〜〜!!と、思わず内心、誠に不謹慎ながら苦笑いを浮かべてしまった。


 「まあ語学のほうは、将来、思いがけない形で活かされる可能性もあるから、『果たせない』と決め付けるのは早計だな。」と、後になって感じた次第である。


運命の『跡継ぎ指名』 −人生最大の“ジレンマ”に苛まれた時−

 話が、父の亡くなった時に戻るが、1998年2月28日の没日以降、祖母の事でもいろいろあった一方で、私の周りで、ある大きな『気運』が沸き起こっていた。そしてそれは私の人生にもろに影響を与え、今に至るまで、『果たして人生とは何なのか?仕事とは何なのか?』という大きなテーマを、私が掲げるきっかけとなったのだ。
 私という、一人の人生の運命を、ある意味において大きく変えた一大事となったのであるが、その出来事とは、『跡継ぎ指名』である。つまり、私が父の跡を継ぐべき人物であると、事実上指名されたのだ。


 しかし、そもそも何故『跡継ぎ』か?実は私の父は、自分で会社を立ち上げ、社長となって経営していたのである。それも日本ではなく、中国の北京で。中国の大衆文化というものに強く憧れ、頑固なまでに中国にこだわって、もともと日本の組織で日中貿易の仕事をしていたのを、独立して北京を拠点にした。その根底には、『日本の一般社会風土には馴染めない』という、かねてよりの父の思いがあり、また、生まれが満州であった事から、どこか潜在的に『回帰願望』が働いて、中国大陸に飛んだとも考えられる。
 そうして父は、北京に住む日本人を対象に、『北京かわら版』という冊子を創刊して、その編集長に就任。自らも取材・記事の執筆を続ける傍ら、いろいろな相談に応じる経営コンサルタント的な立場になっていたのだ。年に何回かは、日中交流を主たるコンセプトとしたイベントも企画。当時の北京では恐らく名の通った存在だったと思われ、『中国人と働く日本人のための、自称何でも便利屋』という看板を、常に掲げていたのである。


 病に伏して以降、父はあくまでも自分が助かる事を前提に闘病生活を送っていたため、最後に肝性昏睡に陥って帰らぬ人となるまで、後継者指名の話などは、一切、口に出てこなかった。父自身は、言わば“黙って”逝ってしまったのである。
 一方で、私は前述のとおり、ひとりっ子であった。しかもフリーター。
必然的に、親戚その他周囲の人の間では、『息子さんが跡を継ぐのでしょう?』となったわけだ。特に父のもとで働いていた会社の従業員の中では、私に対する『跡継ぎ推進』が強かったらしく、私が継ぐ事がほぼ決定という様な考えの人も、いたとか、いなかったとか・・・・・。
 通夜の席でも、父の会社関係の人が、今後の事について母に訊き、母が「まだちょっと分かりません?」と答えると、相手はキョトンとした顔をして、「え!何で?息子さんがいるんでしょ?」と訊き返していたのを、2〜3回、目の前で目撃している。
 涙に暮れ、目も真っ赤になって、失意のドン底にあった私の前で、そういうやり取りが、母と行われていたのであった。


 跡継ぎ・・・・・。社長だった父の跡を継いで、この私が父の会社の『社長』になる・・・・・。
 これは、父の死そのもの以上に、ピンと来ない、現実感が沸かない事であった。もとより放心状態で、思考がマヒしていたというのはもちろんある。しかしそもそも、『北京で社長』という時点で、全く何の事だか分からない。自分≠ニいう存在とは、何の関わりも無い世界の様に感じられた。


 『何で俺が、親父がやってた様な、経営コンサルタントとか、日中の関係とか、貿易関連とか、商売とか、そういう道に進む事になるのだ?それも北京で・・・・・・????』


 私は正直言って、父の会社を身近に感じた事は、一度も無かった。父自体の事は、もちろん身近に感じていたが、あくまでも“親子として”の感情であり、父の勤め先というか、父が経営していた会社の事を、“父親自身として”捉えた経験は、一度も無かったのである。従って、父が死んだら自分が跡継ぎなんて、一かけらも考えた事が無かった。想像すらしていない世界だったのである。
 では、何故私には、自らを『父の会社の後継者』と認識した事が、全く無かったのか?


 最大の理由はズバリ、父の仕事内容や会社の事業内容が、自分に向いていなかったという事である。
 私はいわゆる会社の経営とか、商売・貿易・ビジネスといった分野に、全く関心を持てない性格だったのだ。自分で独立して事業を起こしたいとか、ビジネスで成功させたいとは、ただの一度も考えた事がなく、これは今でもそうである。
 加えて、出世にも全く興味が無かった。
 偉くなりたいとか、部下を持ちたいというのは、およそ自分が抱く思いとしては“有り得ないナンバー・ワン”で、寧ろそういう立場になる事を嫌うタイプであった。恐らくこれからも一生、出世欲を持つ事は無い。
 さらに、急に遠く中国は北京で働かなくてはならないという事も、大問題であった。
 中学生の時、北京で暮らした経験はあった。そして何人かの人はそれを理由に、「だから自然と中国で働きたいという気持ちになって当然ではないか」という見方を、していたらしい。しかし北京に住んでいたのは、何も自分の意志によるものではなく、正直、もう二度と住みたいとは思っていなかった。この当時も、『日本の大阪で暮らしていて当然』という感覚しかなく、いきなり、否応なしに日本を離れなくてはならないというのは、耐えられなかった。
  もう一つ、忘れてはならない理由として、前述の祖母の事や、自分も世話をしなくてはいけない愛犬の事もあった。まず、愛犬と離れる事が辛かった。留学中、ずっと離れていたし、もうこれからは、最後まで傍にいたかった。


 それでも、私が跡を継ぐのが順当、という声は、しばらく消える事は無かった。
 本当に、周囲にいろいろ言われた私であったが、結果的に私は、父の会社を継ぎたくないという意志を通した。通した≠ニ言うとカッコ好く聞こえるが、実際にはあまりにも気持ちが小さくなって、態度が硬くなっている私を見かねて、そして母が密かに私の見ていないところでブロックを≠オてくれたのもあって、周りが諦めたというのが正しい。まあ、図らずも孫の存在が何より必要になっていた祖母の事も、織り交ぜて話してくれていたのかも知れないが。
 私は本当に、『縮こまって』いたのである。入れる穴があったら、どこにでも入りたいという心地で、迷える子羊のように、頼りなげな顔をして毎日を送っていた。


 『親の跡を継ぎたくない』・・・・・、それで自分に、何か『これだ』という道があるのなら、『これでやっていける。こうやって俺は独り立ちしている』という何かがあるのなら、良かったのである。しかし・・・・・、無かった。先ほども述べた様に、当時はフリーターで、取りあえず劇団に籍を置いているという状況。就職は事実上、『失敗』。“進路未定”の状態であった。だからこそ、跡継ぎの機会をむしろ、タイムリー≠ニ見る向きもあったわけで、私は周囲の目も気になって仕方が無かったのである。
 「もしかして、自分は間違えた事をしているのだろうか?」と感じた事は、一度や二度ではなかった。


 就職が決まってもいないのに、親の跡を継ごうとしない。
 ハッキリした進路希望がある分けではないのに、親の跡継ぎを好機と捉えない。
 母親にとっても、この様な時こそ息子が安心材料を与えないといけないのに、不安材料しか与えていない。
 父親の死が、経済的に影を落とすにもかかわらず、息子は現実に妥協しようとしない。


 「・・・・・俺はお荷物にしか、なれないのかも知れない。」深刻にそう思った。
 ろくにしっかりした社会生活を送れず、無力さばかりを露呈しているではないか?それでいて、自分の思いやこだわり≠ゥらは抜け出す事が出来ない。母親の力になれず、役にも立てないのなら、これはれっきとした、【お荷物人生】だ。
 しかし一方で、父が去った寂しさを少しでも埋める上で、私は絶対に必要であった。元々3人家族。従って母以外に、家族は私しかいなくなったのだ。悲嘆に暮れる母にとって、自分以外の家族が一人いるというのは、確かに大きかったはずだ。


 私は、いるだけで大きな存在・・・・・。これだけ言うと、聞こえはいいだろう。しかし、裏返せば『いるだけ∴ネ上に期待出来るものが、何も無い』という事を意味するのも、厳然たる事実なのだ。母親自身は、敢えてこんな悪い見方はしていなかったと信じているが、それでも、周囲の声をブロックしていたはずの母親自身から、『跡を継いでくれたら嬉しかった』と言われた事も、実は何度かあって、私は言葉を返せなかった。やはり、『傍にいて、なおかつ、何らかの力になってくれたら、それに越した事はない』というのが、偽りならざる本音だっただろう。そんな中、実際レベル(行動レベル)の【支え】にはなれず、心の面だけの【支え】になっていたのが、私の実情であった。


 『満足にしっかり出来ないお荷物人間≠セったら、いっそ死んだ方がマシかも知れない。だけど、今の自分はただ生きているだけというのが、逆に一番意味のある事になっている。』


 ・・・・・、何かジレンマだった。本当に【人生最大の】、究極としか言いようのないジレンマに苛まれている。これが率直な心境だった。このころの私は、ハッキリ言って、いつ引きこもりになっても、おかしくはなかった。そう、まさに、引きこもり寸前の状態だったのである。 


それでも神様は見ていたのか?【絶妙の3連休】

 父親を失い、周りからは跡継ぎと言われていた私。それに対して、本当の意味での“味方”がいないという、ある意味非常に孤独な状態が続いていた。【社会力】が付かず、父の仕事に興味も示せない性格、不運な上に巡りあわせの悪さにも見舞われて、私はもう、神様に見捨てられたのでは?と感じていた。
 しかしそんな自分にもなお、計らいを与えてくれる神様がいる、と思わせる出来事が、実は父の死に際して起こっていたのだ。


 2月27日。父の死の前日・・・・・、この日私は最後の望みを懸けて、午前中から図書館に足を運び、癌によく効く漢方薬についての本を借りた後、早速本に書かれていた薬を購入し、父のもとまで届けるという行動を取っていた。そして夕方以降はずっと病院にいた。最期≠フ時まで・・・・・。
 この様に一日を過ごせたのは、他でもない、仕事が休みだったからであった。当時私は、とある雑貨屋でアルバイトをしていた。なかなか忙しくて、年中無休の店だったので、年末〜年始も10日ほど連続で勤務したりしていたのであるが、2月27・28・3月1日は、滅多に無い3連休となったのだ。時々休みの日でも、誰かの代わりに出勤してくれと言われる事があったが、この時はそれも無かった。しかも、3連休明けの3月2日も、勤務は午後〜夜で、午前中はまるまる休みだったのだ。
 その連休初日の夜、父は容態が急変、そして日付が変わって28日未明、父は息を引き取った・・・・・。
 気が動転する中で、一旦父の遺体は自宅に戻った後、この日の夕方に葬儀会場に運ばれて、通夜が営まれた。


 翌3月1日、葬儀。終了後、火葬場へと移動したのだったが、夕刻近くになったため、お骨上げは翌日、つまり3月2日の朝という事になった。骨になっていく父を見送りつつ、この日は火葬場を後にし、翌朝、“最後の姿”になった父を迎えに行った。父の遺骨を抱いて帰ってきたのが昼前ぐらい。食欲もなく、昼食は取らずに、午後になるとバイトに行った。そして夕食はバイト先で取ったのであるが、この時もあまり食欲がない中、多少無理して食べた。そして夜の閉店まで無事、勤務したのだった・・・・・。


 さあ、いかがだろうか?
 父の臨終〜通夜〜葬儀〜火葬〜お骨上げ。この一連の流れが、ものの見事にスッポリと、3連休(連休明けの日の午前中も含めると、3.5連休)の中にハマったではないか!何とも絶妙な、まさしく奇跡としか言いようの無いタイミングの、3連休と言えるだろう。
 こんなにピッタリと、連休と冠婚葬祭行事が重なる偶然なんて、そう、誰の人生にもあるものでは無い。1日休みがあれば済むというのならまだしも、3日(正確には3.5日)も・・・・・。これはもう、神様が計らってくれたとしか言いようのない、およそ人生で2度と起こる事のない偶然である。
 この“奇跡のタイミング”によって、私は父の死に際してバイトを一日も休まなくて済み、従って、バイト先に父の死を知らせなくてはならない事態も、回避する事が出来た。これには心底助かったと思っていた。ただ一つ、つい先ほどまで、骨になった父の姿を見ていたという状況でバイトに行って、何事も無かった様な顔をするのは、さすがに大変であった。


 バイト先に父の死が一切知られない・・・・・、この事に私は、今も述べた通り、とてつもない安堵感を覚えていたのであるが、では何故それほどまでして、父の死を知られたくなかったのか?
 実は、まだ父が北京で健在だった頃、私はバイト先の上司や先輩に、自分の父の仕事について話をした事があったのだ。今から振り返れば、その時に本当の事を話したのが悪かった。即ち、独立して自営業をやっていると・・・・・。別に調べられるわけでも何でもないのだから、「普通にサラリーマンをやっています」と言えば良かったのだ。そしたら父が亡くなった時も、2日ぐらいは素直に休みを取る事が出来ただろう。
 だが、バカ正直に話したがために、それを聞いた上司や先輩からは相次いでこう言われた。
 「そんなら、君がちゃんと、お父さんを継がなあかんやん。」
 「あんたも最終的には、お父さんの跡を継ぐんやろ?」


 「い、いや・・・・・。」言葉を失ってしまったが、この時点ではまだ、まさか父がその後半年もしない内に他界するとは思ってもおらず、まだ後何年も生きられると信じ込んでいたから、あまり気にせずに聞き流すという心境であった。しかし、いざ死なれたとなったら、話は別である。
 「父が亡くなりました。」この一言を一度でも言おうものなら、たちまちバイト先の中でも、
 「じゃあ早く跡を継げ。何やってんだ。」「もう自分の希望やこだわりなど、持っている場合ではないだろう?」と言われる事は、目に見えていたのである。
 せめてバイト先にいる時ぐらい、日頃、周囲から言われている事を忘れたい。気分を入れ替えて、家にいる時には常に感じていなくてはいけないプレッシャーから解放されたい。切実に願っていた。そんな私にとって、バイト先でまで、プライベートな時と全く同じ事を言われ、同じプレッシャーを吹っ掛けられるのは、とても耐えられない事だったのだ。
 私だって生身の人間である。たまには違う空気も吸いたい。だから、バイト先に父の死を知られては、それこそ大ピンチだったのだ。


 「もう君はお父さんの会社へ行かなくてはならない立場なのだから、早々にここを辞めなさい。」
 そんな事を、もし仮にでも言われた日には、もう逃げる場所は無かった。偶然にしては出来過ぎる様な巡り合わせで、結局何も知られる事無く済んだのは、こんな根性の人間にも、神様は付いてくれるという証に他ならないだろう。
 だが、あれから10年が過ぎた今だから思う。
 親を失った直後に、そのままバイト行きを強行したのは、ある意味では本当に辛かった。本当はこの上に無いほど気が動転していたのを、よくぞ隠し覆せたものだと思う。あの時は、ある種の気力と勢いだけで行動していた。
 人間の勢いとは、本当に恐ろしい・・・・・。


赤裸々暴露編:「私は今、敢えてタブーを犯します」

 父の跡を継ぐ事を否定し、何とか自分自身、認められる仕事というのを手に入れたいと躍起になっていた私、しかし一方で、跡を継がなかった事に対して、心ならずも罪悪感を感じる私がいた。
 「何でこんなに苦しまないといけないんだ?普通に親を失って辛い上に、何で俺はこんな・・・・・?」
 言葉に表しようのない感情が、日夜、渦巻いていた。先ほども少し触れたが、父が長年、自分で会社を経営していたのを知っていたからと言って、将来は自分が跡を継ぐなどとは、およそ考えた事もなかったのだ。
 しかし、周囲は『考えた事があるほうが普通』と見ていた。そして、跡を継がない事を、【もったいない】と表現した人もいたし、
 「せっかくお父さんが遺してくれたのに。継がないとお父さんも残念がる(=ハッキリ言えば、親不孝という事)」と諭された事も、何回かあった。


 「もったいない・・・・・?」「遺してくれた・・・・・?」
 いずれも、私の感覚としては、まるっきりピンと来ない発想であった。そういう風に、私は思わないといけないのか・・・・・?
 私の中での疑問の波は、途絶える事が無かったが、当時は、私にはこの様な疑問≠口にする事は許されないという、『暗黙のかん口令』が出されている様な気がしていた。否、疑問を持つ事自体、タブーとされていると感じる事もしばしばだったのだ。
 あの頃は口に出せなかった。しかし今だったら言えるぞ・・・・・。
 ここで一挙、タブー大放出といこう。今から書く事は全て、理屈の上では正しくても、世間の感情としては受け付けられないものばかりである。しかしそれでも、世の中でただ一つ、このエッセイのこのページだけでも、『話の分からないことを言うコーナー』があっても、別にいいではないか?とりあえず、ケンカを売る意図はありませんが、反感をお持ちになる方はご自由に、という事で・・・・・。


 さて・・・・・、はじめにズバリ。親の跡を継がないというのは、そんなに後ろめたい事なのか?そんなにも、ルール違反なのだろうか?
 そもそも日本では、職業選択の自由というのが、憲法でも保障されている。もし、誰かが誰かに、「どうしても跡を継げ」と言った場合、それは、憲法に抵触するという事には、やはり、ならないのだろうか?「それは憲法違反です」と言っても、いわゆる“KY発言”と見なされて終わり、となるのか?
 現在は江戸時代ではないが、それでも依然として、特に長男と呼ばれる人に対しては、職業選択の自由を否定してまで、跡継ぎを求めるという慣習が、少なからず残っている。


 最近でも、私の職場の人(=既に就職を果たした人)で、家業を継がなくてはならなくなった事を理由に、退職した人がいた。また、ある自営業をしていた人が、既に独立して自分の仕事をしている息子に、自分の商売を継ぐよう、再三説得したという話が、テレビ番組でなされた。
 私はとても遣る瀬ない気分になり、同時に、ある種の恐怖感を覚えてしまった。


 例え独立して自分の進路を歩んでいても、その進路が認められないというのか・・・・・?


 あるとき急に、それまでの自分の人生が絶たれる。そして親の跡継ぎという、全く違うレールに乗せ換えられる・・・・・。当人にしてみれば正直、『戸惑い』以外の何ものでもないのではないだろうか?
 跡を継がせる側(親や親戚など)は、『息子(長男)が継いだ』という既成事実を得られれば、それで満足なのだろう。息子(長男)が継いだという構図を眺めるのが、継がせる側にとっては、『画的に見て美しい』と映るから、そういう『画』を実現出来れば、それで納得いくわけだ。だがその陰で、自分の人生を、ある意味犠牲にしなくてはならなくなった、息子(長男)の気持ちというものが存在する。これはどうなるのか?『問うに値せず』で終わり、としか、ならないと言うのか・・・・・?


 もちろん、息子のほうが自分の意志で、「継いで良い」と思ったのなら、問題はないのだ。しかし、『断りきれなくて無理矢理』というのがあったのだとすれば、それは納得しかねる。
 息子にだって、選択権は当然あるわけだし、適性・向き不向きもある。それに何より就職というのは、人の一生を左右する、大変重大なものなのだ。それを、いとも簡単に(ということは決して無いのだろうが)、今まで抱いていた夢や、進んでいた人生を全て諦めて、親の跡継ぎに『路線変更』をしてくれ、というのは、言われた本人にしてみれば、「自分の人生を根こそぎ否定された」に近いものに、なるのではないだろうか?ひとたび跡を継げば、もう後戻りは出来ない。一生跡継ぎの仕事だけという人生になり、ほかの人生を送ることは、最早不可能となるのだ。それでも・・・・・。


 残念ながら、今の日本ではまだ、この様な疑問や意見が受け入れられる場面は、少ない。
 もし、私の父が亡くなったのが今だったとしたら、私はやはり、「今の職場を退職して、北京に行きなさい。」と、一度は言われていただろうか?想像すると、正直、体に緊張が走ってくる。私自身は、跡を継げと言われた理由が、ひとえに自分の就労・進路が未確立だからだと、思っていたのだ。だが、上記の事例等を見る限り、必ずしもそうではなさそうである。


 ・・・・・と、ここまで過激な言い方ばかりしてきたが、私は決して、父の仕事が嫌い≠セったわけではないのだ。客観的には良い仕事だと思っていたし、それなりに魅力もある、誇りも持てる仕事(会社)だと思っていた。それは今でもそう思っている。
 しかし、悲しいかなあの当時、少しでも父の仕事に対して好意的なコメントをしようものなら、周りから、
「そう思うんだったら、跡を継げばいいじゃない。君だって、お父さまの仕事が好きなんでしょう?」
と言われるとしか、思えなかったのだ。こちらはあくまで一般論として言っていても、周りにとっては、それがイコール跡を継ぐ意志を表明した、となってしまう・・・・・。跡を継ぐ意志は無いことを伝えるためには、敢えてやり過ぎぐらいに、父の仕事を“否定する”態度に出るしか、なかったのである。
 人知れず、「なんか、親父がかわいそうだよな」とも思ってはいた。
 しかし私は確信していた。父の会社を、一つの立派な会社として尊重するのなら、なおさら私は、跡を継ぐ【べきではない】と・・・・・。


 では、なぜ継ぐ【べきではない】のか?以下に理由を述べる。


@私として有り得ない昇進順序
 普通、就職というのは、先ず履歴書を書き、面接を受け、採用が決まったのち、まずは3ヶ月間試用期間が与えられる。そこで成績が良ければ本採用になって、平の社員からスタートし、その後徐々に昇格して、長年勤めて貢献し続けるという実績が積まれた時点で、初めて最高責任者=社長となる。つまり社長とは、長年その会社に勤めて会社の事を熟知し、社員とも苦楽を共にした付き合いと、それによる信頼関係がある状態になって、初めてなれるものなのだ。父の会社に限って、入社するなり社長になっても通用する甘い会社だ、などとは、断じて思ってはいけないのである。


A“数字で”経営するものであって、“血で”経営するものではない

 いわゆる『親の七光り』の存在を否定したいという、意思表示でもあるのだが、ひとたび会社を経営すれば、そこから先は現実の世界である。従って、あくまでも『数字』を出し、『数字』で経営していかなければならない。たまたま前社長と同じなのか何だか知らないが、【血】で経営できるものではないのだ。言葉を換えれば、単に血がつながっているというだけで、能力が保障されるような甘い世界は、どこにも存在しないのである。私が跡を継げば、それはイコール、父の会社だけはそのような、甘い世界だと認識した事になるわけで、それは父の会社にとっても父個人にとっても、失礼以外の何ものでもない。


B実態のある自分が必要とされない
 もし私が父の会社を継いだとしたら、私は100%の確率で、みんなに歓迎され、受け入れられていただろう。だが、みんなは『私』という人間に対して歓迎しているのではない。『前社長のご子息という名のブランド』に対して歓迎しているのである。別の言い方をすれば、私に投影された、前社長の残像が、歓迎されているわけで、私は、自分が自分であるという実感が持てない存在となる。経営者たるもの、仕事がどれだけ出来るか出来ないか以前に、まず、『自分は確かに自分である』という、しっかりとした実感と自信が無ければ、組織なんて動かせるわけがない。


C人は伸びるべき。小さくなってはいけない

 Bの補足というか、続きのような内容になるが、私という人間に、父の威光・残像を感じている限り、周りはみな、私がどんな粗相をしても、その都度許すだろう。いつも優しく、温かく接してくるだろう。ところが、そうした周りの、ある意味『偽の優しさ』というのが、実際の私自身を、より小さく、削られたものにするのである。そして、周りも自分たちがどこかで無理をして=A本当なら経営手腕も無く、ただの頼りない人間でしかない私を、“持ち上げている”事に気付く。それでも気付かないふりをして、ある種の『演技』を続ける事になるのだ。私みたいな世間知らずでも、世の中に、建前や計らいが必要なことは分かっている。しかし、建前と計らいだけしか存在しないとなると、その会社はいずれ人間関係がギクシャクし、組織として不健康になる。私が跡を継いだがために、一つの会社が病んでしまう様な事は、断じてあってはならないのだ。人は伸びるべきであり、また伸びる権利もある。社長は上に立つ者として“伸ばす義務”もあるのに、自分もろとも小さくなっていては、もうおしまいだ。


D会社のことは、会社内の家族≠ナ解決すべし
 私は自分の事を、父の『家庭内の家族』としか、認識してこなかった。つまり、父の『会社内の家族』とは、捉えてこなかったのである。親子関係というのは、あくまでも家庭内のこと。同じ父でも、ひとたび外に出て、『いち社会』という立場になれば、それは私とは全く別の世界、“人物は同じでも違う存在”と、映っていたのだ。私は父とは『家庭内の関係』に徹したかったし、社会に出ている時の父とは、常に一線を画したかった。何故なら、お互い個性も能力も違うから。その意味で、会社の事は、あくまでも会社の中同士で解決して欲しかったのである。社長である父が亡くなったら、長年、ともに同じ会社でやってきて、父が『社員として』信頼していた人に継いでもらうのが、筋というものだ。会社は、一つの“社会的家族”である。だから会社の長が亡くなって、次の長を、前の長の“家庭的家族”から引き抜いてくるのは、とんだ方向違い行為であり、あくまでも社会的家族の中から、引き抜くべきだと思ったのである。


 以上、ざっと5つにまとめて述べてみたが、要は私が継いだが最後、『先代が泣く』という実態をもたらす事は、目に見えていたという事である。
 ここまで書いてきた、『私が跡を継ぎたくない理由』の内のいくつかは、父の死後、2ヶ月経って作成が決まった、父の追悼文集の中で、実際に書いた。さすがに2ヶ月が経つと、『跡継ぎ論』は下火になってきており、遺族として父の追悼文を書くことになった私は、ここぞとばかりに、かなりストレートに本音を綴ったのである。結果は概ね好意的に受け止められた。私の中で、『決着は着いたな』と思った。

北京の、万里の長城から見た大陸の山々。父の追悼式出席のため、北京に行った際に、
父の遺骨とともに訪ねた。そして・・・・、ほんの少し、この場所で散骨をおこなったのである。
中国大陸をこよなく『愛していた』、我が父の[最期]を悼んで・・・・・・。



 この追悼文作成に関して、忘れられないエピソードが一つある。それは、母が、自分の書いた追悼文を私に見せてきた時である。
 文章に自信がないから、得意である私に校正してもらいたい、という事で見せてきたのであるが、ある一箇所を読むなり、私は母に猛抗議をしてしまった。それは、『私と長男の2人で、主人を看取りました』という下りである。敢えて私のことを『長男』と書いていた事が、ものすごく引っ掛かってしまったのだ。それも、普段は私の事を、単に『息子』としか表現していなのに、いきなりこう書いてあったから、「何でわざわざ『長男』やねん?」となったわけである。
 当時の私にとって、『長男』という言葉は、私に跡継ぎを、と考えていた人たちを、さらに刺激するものとして、NGワードになっていた。息子が跡を継いで当然、と考える人ほど、『長男・次男・三男』という順序≠ノこだわるから。
 私の気持ちを汲んでくれたと見えて、母は『長男』の表記を書き換えてくれた。ところが、書き直された言葉を見て、またしても私は、“噛み付いて”しまった。何故か?今度は『一人息子』となっていたのである。


 「何でわざわざ『一人』なんて言葉を入れるねん!こんなん書いたら、息子が一人しかいない事を、必要以上に強調してるみたいやないか!別に息子が何人だろうと関係ないんやから、ごく普通に、『私と息子の2人で』と書いたら、それでええんと違うの?何で、『一人である』というのが大事になってくるねん?!!」
 

 あまりの激しい剣幕に、母親もさすがに面食らってしまったようだが、「何もそんなに怒らんでも・・・・」と言いながら、3度目の正直でやっと、『息子』という一言に“訂正”された。
 後から思えば、母の『一人息子』という書き方の裏には、当時の母自身の本音が、微妙に見え隠れしていたのかも知れない。
 母は何度か私に、「(跡を継ぐのは)、あんたしかいないじゃない。」と言った事があったのだ。
 「あんたしかいないじゃない」・・・・・・。この言葉を、どう解釈したらいいのか、実のところはサッパリ分からなかった。と同時に、たまたま一人しか息子がいない事が、まるで息子本人の自己責任であるかのように聞こえる言い方に、カチンと来ていた。
 前にも述べたが、母からこう言われた事があった。
 「お父さんがいなくなって、あんたしか息子がいなかったら、何であんたが継ごうと思わないのか不思議。」


 この疑問の答えは、上記の、@〜Dまで書いた『理由』の内の、Dである。最初の内、いくら母に同じ事を訊かれても、なかなか自分の考えがうまく伝わらず、イライラしていた私は、何回目かに訊かれた時、とっさにDの内容をそのまま話した。そしたら母は、「は〜、なるほどぉ。そうだったのか。うん、これであんたの考え方がよく分かったわ。」と言ってきたのである。
 『おぉ!こう言ったら伝わったか!!』と、私は一瞬拍子抜けすると同時に、心底ホッとしたものだ。


 こうして、ようやく『跡継ぎ問題』は解決していったのであるが、最後にもう一つ、私がいろんな人から言われていた事を紹介して、次の項に進む事としよう。


 「君は、お父さんの会社のお陰で、今まで食べてきてこれたのでしょう?」


 跡を継げと説得する際に登場する、定番の口説き文句≠ナあるが、これについても私は物申したい気持ちである。
 確かに父の(そして契約社員で働いていた母の)収入のお陰で、私が食べてこれたのは、紛れもない事実である。しかし、大抵の家庭は、みんな父親が収入源で、子どもは父親に食わせてもらっているではないか。
 「お父さんに食べさせてもらったのなら、お父さんの会社を継ぐべき」という論理が常に正しいのであれば、子ども(特に男の子)はほぼ全員、大きくなったら必ず、お父さんが働いていた職場に就職しないといけない事になる。
 それは屁理屈だ、と怒られるかも知れない。だが、父親が自営業だろうと他営業だろうと、子どもは子どもで人生を選択する権利(そして義務も)があるという点では、平等に扱われて然るべきだと思うし、ある特定の場合のみ、いきなり『お父さんと同じ事を』と来られるのであれば、いっそ世の中の全てが、まず父の職場を体験すべし、という法律を作ってしまえばいいのだ。最もそれはあくまで極論で、実際はそんな法律は、出来てほしくないが・・・・・。


 父が独立して会社を興したのは、1988(昭和63)年4月。奇しくも、世を去るちょうど10年前にあたり、私は受験生の中学3年になる時であった。父が、それまで勤めていた会社に、何か最後の用事があって出掛けた時、たまたま私も一緒だったのを覚えている。その時は、「ああ、親父辞めるんや。それで北京で自分で何かやるんや。」と、ポ〜ッと思っていただけだったのだが、まさかその事が、のちの自分の運命を大きく揺るがす事になろうとは、まだ15歳になる少し前だった私には、知る由も無かった。
 父の独立最初の1年間は、私自身も北京で暮らしていた。そして中学を卒業後、帰国。以来父は基本的に、『単身赴任』の生活を送る事となり、最期≠迎えるまで、『本帰国』をすることは無かった。


我が人生、2つの【ターニングポイント】 〜母に隠していた、ある真実〜

 話が前後して申し訳ないが、再び、父の会社を継いで欲しいと言われていた時期の話に戻る。


 よく、『悪い事は重なるものだ』と言う。人間、誰もが一度や二度は、『何でここまで立て続けに悪い事ばっかり』と言いたくなるほど、悪い事が重なった経験を持っているだろう。
 私も例外ではない。父を失い、祖母も間もなく失う事が分かっている。そして『北京で父の会社を継げ』と言われ、安心して相談出来る人はいない。そして就職は、もとより失敗していた。
 そこへ、さらに追い討ちをかける出来事が・・・・。父の死から約10日後、突如、アルバイトをクビになったのである。当時劇団に所属していたとはいえ、そこからの仕事など、実質皆無に等しかった状況からしてみれば、突然の『無職(今で言うニート)』状態であった。
 アルバイトは、最後までそれなりに忙しくて、自分なりに日々努力もしていた。確かに、なかなか他のスタッフのレベルに追い付けずに四苦八苦する事や、気持ちが空回りして悩む事も、しばしばあったのは事実だが、それでも、何とかこれからも頑張ろうと思っていた矢先、突然、クビを言い渡されてしまったのだ。
 一瞬、何が起こったのか分からなくて、声が出なかった。そして顔も固まっていた・・・・・。


 クビになった理由の一つは、やはり仕事のスピードの遅さであった。どうしても、他のスタッフなら20分で出来るところ、私だと30分以上かかるというのが、あったのである。加えて、直前1週間で2度、レジ打ちにおける収支ミスがあったのも大きかった。これも自分としては細心の注意を払っていたつもりだが、混み過ぎるとパニックになり、誤差を発生させていたのだ。
 それと今一つは、覚えの悪さであった。働いていた場所は雑貨屋で、相当な種類の商品の名前を、覚えなくてはならなかったのだが、その覚え方が、どこか普通の要領からは、ズレていたのである。商品知識の習得に伸び悩んでいた事から、重要な仕事も任されないでいた。

 
 以上のような訳で、私はクビになった。最後に店長から、「1ヶ月以内に、ユニフォームをクリーニングに出した上で、返却するように。それと、みんなには明日、君が『劇団の仕事のほうが忙しくなってきた事により、退職した』と報告しておくから。」と言われたのだったが、せめてもの私の名誉への計らいをしてくれた事に感謝をすると同時に、内心苦笑いを浮かべていた。実は、この当日の朝、出勤してきた時に、何人かのスタッフから「劇団の仕事はあるの?」と訊かれ、私は「全く無いよ。」と答えていたのである。まさかこの日限りで終わるとは、夢にも知らず・・・・・。脳裏に、翌日の朝礼で店長が私の退職とその理由を告げ、それを聞いたスタッフたちが、笑いを噛み殺す場面が浮かんできた。


 『あ〜〜・・・・・・、どうしよう???』私はポカンとして、まともに物も考えられない心地だった。体中から力が抜けた。
 クビ・・・・・、今の状況の自分には、あまりにも厳しい現実だった。明日以降の事を、考えたくない気分になった。
 『取りあえず・・・・・、母親には内緒だ』一つだけ、ハッキリと出た結論だった。理由は言うまでもない。この時期、このタイミングで私が実質無職になったとあれば、「即刻北京に行きなさい」と言われる事は、目に見えていたからである。
 劇団も当然、退団である。もとより収入が無くなったのでは、月謝も払えない。劇団に関しては、遅かれ早かれ、退所または休所する事を、念頭に置くようになった。
 とりあえず、北京に連れて行かれるのだけは、どうしても避けたかったのである。自分はこの豊中で暮らし、大阪周辺で働きたかった。何か自分に向いている仕事を探して・・・・・。でも、バイトがクビになった事実を母が知れば、私は日本に居られなくなるし、まずは
 『こんな大変な時に、あんたまでが心配の種を増やしたりして・・・・・』と、嘆き悲しまれることだろう。それは私が、ある意味余計に“厄介者”になった事を意味するわけで、私としても、この上なく心が痛む事であった。


 何とか早く、次の仕事を見付けよう。そして、母親を始め、周囲には今回の失職≠、一切伏せておこう。そう決意して、家に帰った。
 「あしたは早番か遅番か、どっち?次の休みはいつ?」母が聞いてきた。
 「ええっと、ね、あしたは早番。で、次の休み・・・・は・・・・、3日後や。」努めて平静に答えたが、内心かなり焦っていた。
 そう。私は明日以降も、普通にバイトに行く“振り”をしようとしていたのだ。だから、嘘のスケジュールを伝え、休みの日も、一度『この日』と言ったが最後、うっかり“ボロをさ出ない様に”、気を付けなくてはならなかった。そして、何日かに1回は、ユニフォームも洗濯に出す・・・・・。
 ユニフォーム。店長から、1ヶ月以内に返却するよう、言われている。従って、これが一つの目安と言えた。1ヶ月以内に次の仕事を見付ける=E・・・・。果たして出来るかどうか、不安は尽きなかったが、現実は容赦なく、“リミット”を突きつける。
 ・・・・この時期、私は祖母に対しても、父の事で嘘をついていた。その上今度は母に対して、『仕事に行く』と嘘をつく羽目になってしまった。ああ悲しきかな、私のダブル嘘つき人生=E・・・・。


 翌朝、いつもの早番バイトに行く時間に、私は「行ってきます」と言って、なんちゃって出勤≠した。そして取りあえずバスで最寄りの駅まで出た後、「一体どこに行こうか?どうやって過ごそうか・・・・・?」と、考え始めた。あまり近場をウロウロしていると、バッタリ母親と会うかも知れない。そうなるとマズイので、私はやおら電車に乗り、何駅か乗った大き目の駅で降りて、そこで過ごす事にした。
 生まれてこの方、こんな『息苦しい外出』は、した事が無かった。実際には仕事をクビになっているのに、それを隠して仕事に行くフリをし、一日、行くあても無くブラブラ過ごす・・・・・。「何てことだ」と思っていたが、それでも親に隠すしかない、【事情】があったのだから仕方が無い。普通に、ただクビになっただけなら、わざわざこんな事までして、親を騙す&K要は無かったのだ。


 「それにしても、よくやるよなぁ」と、内心呆れさえしながら、私は、ある事が出来る場所を探していた。それは、ゆっくり弁当を食べれる場所である。実は、バイトに行く時は、母が弁当を作ってくれていたのだ。それをどこかで食べない事には、家には帰れない。グルグル歩きながら、食べれそうな場所を見付けると、何とも奇妙な心地で食べた。そして、もともとバイトから帰宅していた時刻に合わせて、「ただいま」と、何食わぬ顔をして家に入ったのである。
 翌日は遅番だと偽って家を出たが、「ちょっと先に行きたいとこあるから、出先からそのままバイトに行く」と言って、昼頃に家を出た。カバンに夕食用の弁当を入れて・・・・・。


 向かった先は、淀川の職安だった。実は前日も、時間潰しに行った駅前の、いろいろな店の前や通りをブラブラしつつ、どこかで『求人募集』の紙が張り出されていないか、探していたのだ。今のようにインターネットが普及していなかった時代、地道に足を使って、街なかで求人の紙を探すという手段は、今以上に有効だった。そして『偽出勤』2日目のこの日、今度は職安へと出向いたのである。
 久しぶりの職安で、私はグルッと見渡していたが、不意に『福祉の仕事なんて、いいかも知れない』と思い立った。本当に、何の前触れも無く・・・・・。自分でも不思議な気持ちがしたものだった。
 でも、何故急に福祉なのか?やはり自分の心が弱っていて、どこかですごく助けを求めていたから、それが転じて『弱い人を助けたい』という発想になった、というのが大だったのであろう。それと、自分は人に『頼ってばっかり、与えられてばっかり』の人生だったから、たまにはこんな自分でも、逆に誰かの力になれて、誰かに必要と思ってもらえる、そんな場面に飢えていたのかも知れない。


 もう一つ、実は伏線があった。前年(1997年)の7月17日、ちょうど私の24歳の誕生日、私はこの日に限って、普段滅多に見ない日経新聞の夕刊を開いたのだ。夕刊を見る事自体珍しく、それも日経のとなると、本当に『レアな行動』だったのであるが、そこで偶然、僅か3cm四方ぐらいの小さな求人広告が目に止まったのだ。いわゆる求人欄ではない、全く違う紙面である。
 『夏休みボランティアプログラムを実施。みなさん、ボランティアをやってみませんか?問合せ:大阪ボランティア協会、電話・・・・・』
 これが、広告の内容だった。いつもの私ならそのまま素通りするところだったのが、この時は何故か印象に残り、広告を切り取って保存。後日、実際に大阪ボランティア協会に電話をかけた。
 『ボランティア』というものに、興味は持っていたのだと思う。ことに私は阪神大震災の時に日本におらず、被災地でのボランティア活動も体験し損ねた、という思いがあったために、なおさら何かやってみたい気持ちだったのだ。
 この前の年の秋に観た、或る知的障害者を主人公にした映画の印象も、このころまだ残っており、障害者を介護するボランティア、という体験も、してみたいとはどこかで思っていた。
 私は実際にボランティア協会に出向き、そこで紹介された『月刊ボランティア』の購読申し込みをおこなった。そして、ある福祉作業所の旅行に付き添うボランティアとして、新聞広告にあった、『夏休みボランティアプログラム』に参加したのである。そこで生まれて初めて『障害者介護』を体験し、“手応え”は強いものがあった。何人かの知的障害者とも仲良くなり、その後連絡を取り合うようにもなった。数ヶ月後、大阪ボランティア協会主催のバザーの案内が届き、そこでもボランティアとして活動した・・・・・。


 ここで話を、淀川の職安の場面に戻すが、私が不意に『福祉の仕事』に気持ちが向いた背景には、今述べてきたような経緯があったのだと思う。


 一発で、期待する様な収穫は得られないだろうと思っていたこの日、私は職安の窓口で、あるところを紹介してもらった。それは、『大阪府福祉人材センター』。大阪府社会福祉協議会が運営する、『福祉のための無料職業紹介所』で、言い方を換えると、職安の福祉職限定版である。このような機関が存在していたとは全く知らず、私にとっては、耳よりな情報となった。場所が大阪市内の谷町七丁目という事で、少し遠いなとは思ったが、往復の地下鉄代ぐらいのお金はまだどうにか余裕があり、この日はもう夕方近い時間になっていたので、「明日、行ってみよう。」と思った。
 少し希望が見えてきたような気がした。母が作ってくれた夕食用の弁当は、梅田周辺のどこかで食べたと思う。

 
 翌日、私は早速、谷町七丁目の福祉人材センターに行った。この日はバイトは休みと『設定』していたので、午前中から「遊びに行ってくる」と称して、出掛けたのだった。
 センターの窓口に着くと、はじめにパスポート≠ェ発行された。繰り返し利用する場合は、次回からこのパスポートを掲示すれば、すぐに入れるのだという。早速求人ファイルを見てみようと思ったのだが、一つ、どうしても気になる事があった。それは資格である。この当時私は、福祉の仕事に携わる場合、例え少しでもお金をもらう仕事をしようと思ったら、必ず資格が必要なのだと思っていたのだ。しかしそれは間違いであった。『無認可』の団体では資格は関係ないし、資格が無くても働けるところはあるというのである。ただし『無認可』の団体では何年働いても、資格の受験資格にはならないという事だった。
 私は資格を目指しているわけではなく、仕事に就く方が急務だったので、この情報はある意味、嬉しい誤算だった。また一つ希望が出たと思いながら、『資格有無問わず』の職場を探したが、ここでも壁になったのが、『要普通免許』の条件だった。


 結局この日の内に、いけそうなところは見付からなかったが、ここ2日で予想以上の進展があった事は、大きかった。その後も連日、人材センターに通い詰め、だんだん常連のようになってきた。そしてセンターの建物にはロビーもあり、そこで“バイト用”の弁当を食べていた。
 ある時、ようやく一つの職場を紹介してもらうまでに至った。そこは、家から30分ぐらいで通える授産施設だった。2日間の研修を受けた後、正式に採用か否かが決まるという事で、私は内心、『必勝』を期して、まずは1日目の研修を受けた。


 かなり緊張した。初めてだったので雰囲気に慣れない部分もあったし、急には周りの人たちにもなかなか話しかけられなかったが、それでも生の現場を一日観て、得るものはあったと感じたし、研修は2日組まれているわけだから、これで明日はもっと、自分から打ち解けてみるよう頑張ろうと思った。しかし・・・・・、
 一日目の研修終了後、私は施設長に、面接室に通された。そして、「明日の研修には、もう来て頂かなくて結構です。」と告げられたのだ。
 「え・・・・・!?何で??」とっさに相手の言葉を飲み込めず、反応を失っている私に、施設長はこう説明してきた。


 「結論から言いますと、あなたは暗過ぎるんです。確かにウチは人手が不足していますが、だからと言って、どんな人でも良いという訳ではない。やはり新しく人が来た事で、その場全体がより活気づき、明るくならなければなりません。あなたからは、『この人ならより職場が生き生きする』というものが、感じられなかったのです。」


 ・・・・・・。そんな事、いきなり言われてもなぁ、というのが正直な気持ちだったが、もう、そこまで否定されたのなら、仕方が無い。いきなり研修が1日で打ち切られるとは全くの予想外だったが、失意の内に、私はその場をあとにした。
 施設長は最後に、「でも、あなたが活躍出来て、あなたに向いている職場が、絶対にあると思う。」と、一言付け加えていた。これは今から振り返ると確かにその通りだったのだが、聞いた時点では、半分外交辞令の様にしか聞こえなかった。

 
 『暗過ぎる』・・・・・。そりゃあそうだろう、と、私は苦笑いをしていた。親を失い、親の跡継ぎを要求され、その中で仕事も失い、祖母も間もなく失う・・・・・、これで明るくなれという方が無理だ。だけど、これらの事は仕事を得る上では単なる『私情』であって、だから考慮してもらえる、というものではもちろん、無かったわけである。
 また振り出しに戻った・・・・・。漠然とした不安と、焦りが再燃してきた。この時、3月の末。バイトがクビになって約3週間。もうそろそろ隠し続けるのは、限界となってくるだろう。『今の心境が顔に出ないように』と気を付けながら家に帰ったが、依然、光は見えなかった。


 さて、次の日の夕方だったか、私がなんちゃって出勤≠ゥら帰ってくると、私宛に分厚い封筒が届いていた。差出人は、豊中市内の作業所Y。一瞬「うん?」と思ったが、すぐに思い出した。
 実は、まだバイトも忙しく、父も意識があったこの年(1998年)の1月、私は、前述の『大阪ボランティア協会』発行の『月刊ボランティア』を読んで、『春休みボランティアプログラム』への参加を申し込んでいたのだ。前年の『夏休みボランティアプログラム』に参加して、初めてで大変な部分もあったものの、また参加したいと思っていたので、「春休みにもありますよ」と言われると、「では参加します」となったのだ。そして、ボランティア募集をしている豊中市内の各作業所一覧を見て、「豊中には、こんなにたくさん作業所があったのか!」と驚きながら、自分に条件が合い、何より、名前が非常に面白くて印象に残った作業所Yを、選んだのだった。時期は4月初旬の2日間という事だったので、日が迫ってきたこの日、ボランティア協会を通じて、作業所Yから要綱一式が送られてきたのである。
 

 正直言って、私はボランティアを申し込んでいた事を忘れていた。封筒を見てハッと思い出し、次の瞬間、「どうしよう・・・・・?」と思った。というのも、申し込んだ1月時点と今とでは、状況が、まさしく天と地ほどに違い過ぎていた。今の自分はもう、収入のある仕事が必要なのであって、のんきにボランティアなどやっている暇は無かったのだ。もう親に真実がバレてしまう日も、足音を立てて近付いているように感じていたし、実際問題、ATMでお金をおろしても、残高が確実に心細くなっていた。この時ばかりは、金銭的にキツかった。
 

 『大変無責任な話で申し訳ないが、今回はもう、ボランティア辞退しよう。そしてこの封筒も、開けずにそのまま捨ててしまおう。』そう、決心しかけたのであるがしかし、『まぁせっかく送ってくれた物だし、何も捨てなくてもいいか。』と、思い留まった。
 それでも、当分封筒を開ける意志は無かったので、一旦は部屋の隅っこに置いたのであるが、
 「今回は縁がなくても、将来、何かで縁を持つ時が来るかも知れない。ボランティア協会には明日、断りの電話を入れるとして、自分が行く事になっていた作業所、どんなところか、ちょっと覗くだけでも覗いてみるか。」
 と思い、結局その晩遅くになって、封筒の中身を見た。


 いろいろ、作業所を紹介した物が入っていた中で、ある1枚の用紙の内容を読んで、思わず目が見開いた。
 『メンバーの中に、親元を離れ、介護者とともに自立生活を送っている人がいます。みなさんもぜひ、その方の介護者になってくれませんか?仕事内容は夜間の泊まり介護。報酬は1泊△千円』


 ・・・・・・!!!「え?お金もらえる仕事もあるの?俺でも、すぐ出来るのだろうか・・・・・。」
 なんか興奮して、色めき立ってきた。そしてこの翌々日だっただろうか?私は作業所Yのボランティアに、実際に行ったのだった。
 『ボランティア辞退』は、完全に撤回していた。それも、ただただ【お金をもらえる泊まり介護】の話のために・・・・・。
 ボランティアは、なかなか楽しかった。作業所の雰囲気にもすぐ馴染めて、この前、『暗過ぎる』と、“一発落第”を食らった授産施設の時とは、大違いだった。というより、やはり『暗過ぎる』の一件が気になっていたので、努めて明るく振舞っていたというのも、あった。そして、最も気になる点、『自立しているメンバーの泊まり介護』について、代表の人に訊くと、
 「いつでも入ってもらえるよ。え?すぐにでも入りたい?そしたら介護調整の担当者と引き合わせて、早速入れるようにしよう。とにかく、介護者が足りないねん。よろしくな。」
 とんとん拍子で話が進んだ。『ヤッタ!!』と思った。そしてその日の夕方、介護調整の担当者とも面接をさせてもらい、代表の言葉どおり、その週から早速介護に入れる事になった。この作業所Yも無認可だったので、資格は一切不要。そして1回のみならず、毎週入る事に決まったほか、この泊まり以外にも介護の仕事は沢山あるので、それにも入って欲しいという事になった。
 かくて新しい仕事が決定した。


 『ヤッタ〜!!バンザ〜イ!』叫びたい気分だった。こんなにもホッとした気分を味わえた事は、今までに無かった。
 この1週間後、私は、「新しく介護の仕事と出会って、そっちの方が自分に向いているし、人もいないみたいで忙しくなってくるので、今までのバイトは退職する事にした。」と、母親に“報告”した。母親からは、「ああ、そうなの。ふーん。でも、向いてる仕事が見付かって、良かったじゃない。」と、何の疑いもなく、言われた。同時に、期限切れギリギリでユニフォームをクリーニングに出し、元のバイト先に返却した。『嘘をつかない日常』が返ってきたのだ・・・・・。
 懐かしいぐらい久しぶりに、清々しい気分になっていた私だが、実はあれから10年以上が経った今でも、母には本当の事を言っていない。母は今でも、『息子は昔、雑貨屋でバイトをしていて、介護の仕事の方がいいと思ったから、前の仕事を辞めて介護に切り替えた』と思っている・・・・・。


 それにしても、僅か3週間あまりの間に、私は2つの、【ターニングポイント】を体験した。
 一つは、アルバイトがクビになった事を、【母親に言うか言わないか】。言っていたら、私は今、日本にいなかった。
 そしてもう一つは、作業所Yから届いた封筒を、【開けて中身を見るか開けずに捨てるか】。開けずに捨てていたら、泊まり介護の仕事とは出会えず、従って今の私が居てたかどうか、分からない。
 今振り返れば、2つとも物凄いターニングポイントだと思う。こんな大きなターニングポイントを、僅か3週間あまりという短い間隔を置いて体験していたというのが、信じられない。長い人生の中でも、そう何回もある事ではないだろう。

  
大阪府福祉人材センターに通い続けていた当時の、利用パスポート。左画像が表側、右画像が裏側である。
右の画像では、年齢24歳、そして小さな字ではあるが、[有効期限:平成10年3月13日から平成11年2月末日まで]
と記されているのが見える。自分が最も仕事に困っていた時代を語る、貴重な“遺品”と言えるだろう。



藁にもすがる思いで就いた、【介護職】 〜決してきれいな動機ではなかった〜

 1998年4月初旬、作業所Yでのボランティアがきっかけで始めた介護の仕事は、私の想像以上の勢いで、急激に増えていった。僅か半月後には、早くもスケジュール的に飽和状態となり、仕事がダブらない様にする事に、一番注意を払うぐらいであった。
 ここまで忙しくなってきた事で、当然収入はどんどん増え、ギリギリに近付きつつあった経済状況も、めでたく改善された。ほんの1ヶ月前は、『間もなく月謝を払えなくなるから、長期休所をする』と決めかけていた劇団も、そのまま続けられる目処が立った次第である。
 そして今でも一つ思い出す事は、現在の仕事に就く際、最初の面接の時にものすごくテンションを上げ、勢い“冗談暴走”に走っていた事だ。初っ端からとにかく『ボケキャラ』を連発し、やがて慣れてくると、やおら日頃会う人のモノマネまで始める始末で、現在でもこのモノマネは、私の職場での定番になっているくらいだが、これは元はと言えば、あの『暗過ぎる』の一言で研修が打ち切りになった、あの授産施設での体験が大きく影響している様な気がする。
 私にとって、『暗過ぎる』という理由で不採用となった事が、やはりそれだけショックだったのだろう。それは当然だと思うが、その点この介護の仕事では、順調に周囲に溶け込む事が出来たのであった。


 本当に、人生というのは、こうも“急転直下→急転跳躍”が起こるものなのかという、驚きと半ば呆れの様な気持ちで一杯になっていた。最初はただただ、【藁にもすがる思い】で介護の職に就いたのだから。
 【何でもいい。収入のある仕事がほしい。こんな私でも役に立てる仕事が、何か一つでも見付かってくれたなら】という気持ちで・・・・・。
 

 介護の世界も、正直、厳しい部分はあったし、特に最初は、『恐い』と感じる瞬間もあった。体力的にもなかなかハードな仕事で、「続けていけるかな?」と悩んだ瞬間はないでもなかったが、やはり【藁にもすがる思いで】手に入れた仕事だけに、辞めるなんてとんでもなかった。本当に、いかに切実だったを思えば・・・・・。「お金のために」というのが、もちろん最初にあったわけであるが、それ以外に大きな訳が、これまでに何度も述べてきた大きな訳が、私にはあった。『北京に連れて行かれたくないから』という・・・・・。


 先ほど、私が福祉の仕事を選んだ理由として、以前にボランティアの体験をして、良かったからというのを挙げた。
 確かに、あの時に『自分はこういう仕事や、こういう現場に、向いている人間かも知れない』と強く感じるものがあったから、それが言わば伏線となって、現職でもある介護の仕事に就いたわけであるが、もう一つ、私なりに腹に含んでいた、計算≠ニいうのがあった。それは・・・・・、


 障害者介護という仕事は、一般には、『誰もが出来る仕事ではない』、『なかなかやりたがる人はいない』と言われていた。今でもその傾向はあるのかも知れないが、まだ何の制度も無かった10年前には、なおさらそう言われていた。だから、そういう仕事をやっていると言えば、必ず人からは、「立派ですね」、「偉いですね」、「それは感心だ。いい仕事してますね」と、褒め言葉が連発して飛んでくる。
 だから、これを“巧く利用”して、日頃から『私が父の会社を継ぐべき』と言っていた人たちに対して、「私は障害者介護の仕事を始めており、今後も続けたい。福祉の仕事は自分に合っている。」と言えば、みんな世間と同じように、「それは立派ですね。じゃあその仕事を続けなさい。なかなかいないですよ、そういう人は。」と返してくれる。結果、『跡継ぎ論』は無くなるのでは?と読んだのである。
 これは、周囲を納得させ、自分も安心するための、思い切った作戦≠ナあった。私自身は、福祉の仕事を選ぶにあたって、『人から立派で偉いと思われたい』という動機は、特に無かった。無かったというより、周囲からの見方や評価には、もともと無関心であった。ただただ自分にとって居心地が好く、働きやすい環境だったから選んだのであるが、『跡継ぎ論』の空気から逃れたいがために、敢えて世間一般と同じ反応を、自ら当該相手に対して求めたというのが、何とも姑息というか、ある種いじましくさえある、強いて良く言えば、『世渡り術』だったのだと思う。


 そしてこの作戦≠ヘ、結果的に大成功だった。実行された舞台は、この月(4月)の末に北京で行われた、父の追悼式である。
 既に3月中旬の時点で、いずれ追悼式が行われる事が分かっていたので、それに備えて、『新しい仕事を選ぶなら福祉の仕事を』と思った部分もあるのだ。そういう意味では、一般には立派な職とされる介護職を選んだ動機というのは、決してきれいなものでは無かった。
 寧ろ、ある部分、後ろめたさも感じざるを得ないような動機が、あったのである。


『営業発トラウマ行き

 動機こそ不純なものを抱えてやり始めた、介護の仕事だったが、やはり自分にはすごく向いていた。もっと早くからこの仕事に出会っておけば良かったと思ったし、あの24歳の誕生日に偶然、日経新聞の夕刊でボランティア募集の広告を発見した事が、ものすごい大きなポイントだった様に感じた。先ほど、【ターニングポイント】について書いていたが、あの新聞広告との出会いこそ、現在の私の人生の全ての源となった、ターニングポイントだったと言える。
 『介護の仕事はまたたく間に忙しくなった』と先ほど述べたが、これは作業所Yの職員の方から、豊中市内のほかの作業所や事業所も介護者を募集しているから、登録したら活躍の場がたくさん出来るよと、教えてもらったからである。そうして登録したところの内の一つが、現在の私の職場である、障害者団体だったのだ。作業所Yと出会ってから3週間後、私は、その障害者団体にフリーの介護者として登録。半年後には、事務所内でもアルバイトとして働くようになった。


 それから月日は流れて、2001年3月、私はその障害者団体(事業所)の正職員となり、27歳にして初の就職を果たすに至ったのであった。これに伴い、劇団は退団、芝居の世界からは足を洗って、名実共に、福祉畑一本になった。


 最初に現在の職場に就職した時、まず与えられた仕事というのは、『点字名刺の営業・作成』であった。現在も、ずっと点字名刺の仕事をしているのであるが、この『営業』という言葉を上司から聞いた時、私はかなり『ドキッ』としてしまった。というのも、私は『営業』ほど自分に向かない仕事は、ないと思っていたからであった。


 就職活動初期の頃・・・・・、
 私は、『社会人最初の仕事というのは、営業しかない』と思い込んでいた時期があった。というのも、当時の求人内容(今でもかな?)には営業が多かったし、当時のバイト先の上司からも、
 「会社で働かせてもらう以上、自分が営業をし、きっちり仕事を取ってきて、会社に対して返さんといかん」と、厳しく言われた事があったからだ。
 『社会人としての修行の第一歩は営業』、『営業なくして次のステップは無し』、そういう思い込みは、相当強いものがあった。だから極端に自信喪失に陥り、必要以上に「自分はダメだ」と思った部分も、今振り返ればあるのかも知れない。


 さて、『営業』ということで、一つ忘れられない思い出がある。1996(平成8)年10月、ある貿易会社を受けた時のことだ。
 面接を受けた後、一日研修を受けることになった。私は研修という段階に進んだことなど、全く無かったものだから、「こりゃあスゴい!」と驚き、すっかり興奮して色めき立ってしまった。そしていざ研修が行われたのだが、内容は一日訪問販売、それも飛び込みのセールスだった。社員の人に同行して、見学していた分けであるが、一つのあるビルに入ると、先ず最上階までエレベーターで上がる。そこから、各階の各テナントの各入居団体を、一つ残らず訪ねて販売(営業)をするわけだ。果てはビルの地下にある守衛室にまで販売に行っていた。そしてその後も、診療所があればそこの受け付けで販売するし、大小問わず、付近一帯のビルというビルをつぶさに回って、食堂であればいきなり厨房にまで入り込んで、殺気立った表情で働いている店員たちに、「えー、こちらの商品は・・・・」と営業をしていたのである。
 ビルの中の各入居企業を回っていた時もそうだ。突然セールスに来られて、不快感を露にしているそこの会社員たちに、いわゆる『営業スマイル』というものを振りまいて、ある意味実に『マイペースで』営業をしていたのだった。


 さすがに私も、強い違和感と疑問を感じずにはいられなかった。
 「営業って、ここまでお構いなしに、人の迷惑も顧みず、ズカズカやる事なのか・・・・・?」
 結局、300件ほどを回って、売れたのは1ヶ所であった。それも2種類の商品を売っていた内の1種類だったから、実質1/600という事になる。そして実は、訪問先の1ヶ所で、「おたくの商品を前に買ったけど、調子がおかしい。ちゃんとした商品だったのか?」というクレームも入っていた。しかしそれに対しては、「え?いや、それはきっと、ウチのではなく、ほかのとこで買った商品ですよ。」と、不自然なぐらいニコニコして答えて、終わりだったのだ。


 研修終了後、「うちに入社するか?」と訊かれたが、さすがに辞退した。その事を、その後バイト先で報告すると、
 「お前、仕事を選んでいる場合か!」と激しく叱られたが、そうは言われても、あそこまで無神経≠ニも取れるセールスの仕方をして、仕事をすればするほど、人に迷惑をかけているとしか思えないとあっては、正直、耐えられなかったのだ。
 この体験は、その後の私に、『営業』という職種に対する先入観を植え付け、トラウマになった。


 もう一つ、営業に関して忘れられない思い出がある。父が亡くなった直後の事だ。
 墓石の訪問セールスが絶えなかったのである。
 一日に何回も家のインターホンが鳴り、「お宅で不幸があったと聞きましたもんで、ウチの商品(墓石)をぜひ・・・・・」と言ってくる。その度に、「またか!」と思いながら、ウンザリした表情で断る・・・・・。
 これが繰り返された結果、またも私の中で、「営業というのは人の不幸に付け込む仕事」という先入観が植わってしまい、この時の体験もまた、トラウマになった。
 それまでに感じていた、「人の迷惑を顧みない仕事」というのと合わせて、私の中で営業という仕事は、『トラウマしか、もたらさない、嫌な仕事の代名詞』となってしまったのだった。そうでなくてもこの時、父を失った悲しみに打ちひしがれ、そのショック自体がトラウマになっていたのに、である。


 父の跡継ぎの一件にしてもそうだが、世間というのは本当に、何か物事が起こると、こぞって同じ事しか言わない。
 これも、この時期に私が勉強した事の一つである。『どうせ周りは寄ってたかって、同じ事を繰り返してくるだけ』・・・・・。
 同じ事ばかり言われるといえば、このころ、私は父の死を知った近所の人など、いろいろな人から、こう言われていたものだ。
 「それなら君がしっかりしないといけない。」


 ・・・・・今だから言えるが、ハッキリ言って殺生な言葉である。自分だって悲しくて、すっかり落ち込んでいるのだ。それなのに、あろう事か「しっかりしろ」などと・・・・・。
 自分の事でなかったら、世間というのは、冷たい事でも『当然だ』という顔をして言ってくる。そして悲しいかな、世間的には『当然の言葉』なものだから、悔しくても言い返す事が出来ないのだ。
 『世間なんて所詮、鳥のオウムみたいなものだ。』そう思って、私は内心すっかり腐っていたのであるが、ある時、一人の人が、「あなたがいる事が、お母さんにとっては大きな支えになるでしょうねぇ。」と言ってきた。この人、実は劇団の先生(本職は女優)だったのであるが、神か仏に出会ったかの様な、救われた心地になったものだ。


 さて、以上の様なマイナスのイメージだけしか、『営業』に対して持てなくなっていた私の耳に、点字名刺の『営業をしろ』という言葉が飛び込んできたのだ。内心ソワソワしたが、あまりにも営業というものを避けてきた事への、ある意味“報い”なのかも知れないとも、受け止めたりした。
 結果は、これまでのマイナスイメージを覆すに足る、仕事内容であった。営業先は主に市役所などの官庁関係か、同じ福祉の事業所関係だったし、何も私一人に営業を任された分けではなかった。
 いろいろな所で人に会う度に、ふつうにあいさつを交わすだけではなくて、『営業しなくては』と意識するのは、ときに気が張ってプレッシャーも覚えたが、点字名刺というのは、視覚障害者に配慮したバリアフリーという目的で作っているものでもあるのだから、一つのバリアフリー化事業であると、捉える事も出来た。


 点字名刺を担当して8年目、最初の3年ほどは、足を使っての営業もおこなっていた私であるが、最近は、事務所内での仕事が忙しくなった事に加え、インターネットがより普及した事により、『ホームページ上でのPR』が、もっぱらの営業行為となっている。
 人と対面しての営業行為が、依然苦手な私にとっては、正直、ありがたい時代になったのかも・・・・と、内心思ってみたりもする。


終章 −こんな俺でも生きてはこれた−

 大学を卒業してから、干支で一回り、そして父が亡くなってから10年超・・・・・、初めの内はとてつもなく長い、だけど、ある頃から今度はあっという間の、総じて密度の濃い人生であった。
 まだまだ課題は多いし、甘い部分も少なくないが、それでも一つの職場に就職してから、もう8年目となり、介護の仕事と出会ってからは、11年目となった。
 今の仕事は、全部が全部という訳にはいかないが、本当に適職だと思う。これからも、ずっと今のところで働き続けていければ、と願っている。定収入がある身分になったことで、一時はかなり心理的に圧迫されていた経済面も、楽になった。

現在の私の職場である。障害者の自立を支援する事業所で、私の日頃の仕事は、点字名刺のほかに、
広報誌の取材・記事作成・編集、そしてホームページの管理・更新である。充実した日々を送っている。



 それにしても、こんな自分がよくぞ社会人として、10数年も生きてこれたと思う。
 もともと私は、『自分なんて社会においては、邪魔な存在≠セ』と思いながら生きていた。『自分が人前に出るという事は、人のストレスの種を一つ増やすという事だ』、『人の邪魔にさえならなければ、それでいいのだ』と感じ、例え少しでも、自分のいる位置が邪魔になってはいけないと、言い聞かせていたのである。
 そんな、希望無き船出≠セった初期の頃の事を思えば、今の自分は本当に奇跡だ。酒も飲めない、要領も悪い、付き合いも下手で車の運転も出来ない自分が、一つの職場に就職して、長続きしているというのだから、我ながら感心する。
 一方でしかし、今の職場そのものが、ほかの組織(例えば一般企業など)と、かなり趣を異にしており、ある意味に於いて特殊と言えるのも、事実である。そういう職場だからこそ、私でも勤まっているのだろうし、これがもし、それこそ接待や付き合いも多い一般企業だったならば、35歳になる今でも、通用していたかどうかは、極めて怪しい。冷めた見方をすれば、一般の、営利を目的とする組織で働くには、あまりにも不安材料が多過ぎるだろう。
 私なりに今後も一生、努力は続けていくが、それでも一般の人と同じ社会性というのは、実は持てない定めにあるのかも知れない。何とか自分のいけるところまで成長すれば、後はもう、限りある命、いつかは歴史の片隅に埋もれていくまでである。


 まだ30代半ばという私であるが、最近不思議と、「自分は長生き出来たなぁ・・・・・」と感じるようになっている。
 「バカな!まだ若いクセして何を言っとるか!」と怒られるかも知れないが、恐らく社会に出る前後にかなり本気で、「自分は、世の中で長くは生きられないのでは?」と思い続けた事が影響しているのだろう。今、率直に「長生き出来た」と実感するのである。だからと言って、「もう生きたくない」と思っているのでは決してない。自分はまだ、やり残していることがある。
 かつて、「30過ぎないと大人になれない」と父から言われていた私。
 現在は生活のほうも一人暮らしとなって、公私ともに、いちおうの夢は叶えた。あとは今の恵みを大切に、これまで生きてこれた事に感謝して、残りの人生を全うするばかりである。


 自分にも出来る仕事があるのだという喜び、働ける職場、受け入れてくれる社会的空間があるという幸せを、心身一杯に感じようではないか!こんな自分だからこそ仕事を大切にし、日々、思いを込めて打ち込み、その上で自分らしさも大事にしたいと思う。
 最後に、父親を早くに亡くし、母親の悲しむ姿を見てきたひとりっ子の私の、最終的な人生の目標はこれである。

『絶対に母親より後まで生きる』

(完)


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