野上電気鉄道乗車 撮影:1990年5月2日
和歌山県海草郡野上町というところに、かつて、野上電気鉄道というローカル私鉄が走っていました。JR紀勢線海南駅を起点に(野上電気鉄道としての駅名は日方)登山口までの全長11.4kmの路線で、1994(平成6)年3月限りで廃止になりました。
私は1990(平成2)年のゴールデンウィークに、この野上電鉄を訪ねました。結局この時が最初で最後の乗車となったのですが、この時は同時に、私にとって初めての、和歌山県訪問でもありました。そう、大阪に隣接している県なのに、私はこの日まで、一度も和歌山県に行ったことがなかったのです。左の写真はJR和歌山駅前で、駅に着いた直後に撮影しました。画面真ん中の奥のほうには、真っ赤に目立つみかん色をした和歌山バスも見えます。でもちょっと分からないですね。


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JR和歌山駅紀勢線ホームです。ホーム全景を撮るとともに、向こうの方、ホーム両側に停車している、白と濃い水色の塗り分けの113系電車も画面に収めました。でも、電車の写りはあまりにも小さ過ぎますね。この『阪和色』とも呼ばれた塗り分けの113系も、いち鉄道ファンとしてみれば、非常に懐かしいですね。しかも向かって左側に停まっているのは、これまたこの写真では小さくてほとんど確認出来ないですが、ヘッドライトが大きい初期型の車両です。私は、確か向かって右側の電車に乗ったと思います。


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さあ、いよいよ野上電鉄の起点、日方駅に到着しました。いかにもくたびれた感じの駅舎、そして車両、ローカル色満点です。向かって左側の電車が、この時発車待ちをしていたものです。そして待機線にいる右側の車両は、これも当時の鉄道ファンの間ではつとに有名な車両でした。大正時代に流行した正面五つ半円窓をもち、車体は元阪神電鉄の旧型車、野上電気鉄道での車番は24でした。お目にかかれて光栄でしたが(笑)、なぜ、もっと近くで撮らなかったのだろうと、今思うと不思議な気持ちです。ともあれ、前々から乗りたいと思っていた野上電気鉄道と、いよいよ対面した瞬間でした。


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これは私が乗った車両で、23号という車両です。私は地元が豊中ですので、阪急宝塚線沿線ということになるわけですが、実は写真の車両は元阪急宝塚線用です。それも1910(明治43)年、宝塚線が開通したその年に製造されたという、いわば阪急電鉄の第一号世代のグループの生き残りなのです。この時点で車齢は実に80年となっていました。全国的に見ても、一番古い電車のうちのひとつだったのではないかと思います。
野上電鉄は、『ミニ阪神』という異名を持っていました。元阪神電車の旧型が大変多かったからです。実際、上の写真に写っている車両は、どちらも元阪神です。そして左の写真の23号は、ただ1両の、元阪急。大変貴重な存在でした。しかも、ローカル私鉄であった野上電鉄は一日の本数も少なく、一本見送って次の電車に乗るということも、よほどの時間を確保しないと出来ない状況。明治生まれで、旧型ぞろいの野上電鉄の中でもダントツ最古参のこの元阪急パイオニア形式に乗れる確立というのは、恐らく相当低かったはずです。私も「せめて姿だけでも拝めれば」という気持ちで、運よく乗れるなどとは期待していませんでした。それが、ホームに入ってみたら、いきなり扉を開けて停まっていたのですから、大きな感激です。地元の電車の、開通当時からの姿を記憶に留める、『超大老』23号車両、乗車できて、本当に光栄でした。


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元阪急1形、23号の車内です。ご覧下され。明治の香り満点、いかめしさムンムンです。心持ち奥の浅めの座席や、やや高めの座席仕切り、半木造の車内はまさに、50年前にタイムスリップした錯覚をもたらすのに充分です。そして、80年という、電車の寿命としても考えられないぐらい長生きをしているだけあって、扉部分などは、外板が微妙にですが、湾曲しているようにも見受けられました。中に入るなり『クラシックな匂い』がプーンとしてきたこの車両ですが、よく清掃もされ、清潔度は抜群でした。そして走っている時の揺れ方というのが、およそ半端ではなかったです。つり革が大暴れをして、一斉に網棚のふちにガツンとぶつかったあと、反対列のつり革の支柱にぶつかる寸前まで、ギュワン!と揺れるのです。この極端な振り子のごときつり革の動きは、老体にムチ打って走る必死さを表すのに何よりの『バックサウンド』でした。


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23号の運転台です。明治時代の、標準的な運転台の姿でしょうか?実に簡素な構造で、向かって右側には大きな鉄製ハンドルのような物があります。博物館にある昔の電車や、古い時代に撮影された電車の写真を見ても、このようなハンドル状のものはよく登場します。用途が今一わからないのですが、パンタグラフの操作でしょうか?とにかく、大阪から決して遠くはない場所で、このような運転台の車両が現役でいるという事に、ある種の『奇跡』を感じずにはいられませんでした。


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終点、登山口駅です。これまで何度か鉄道専門雑誌でこの駅の写真を見たことがありましたが、初めて実物を目にして、雑誌とよく似たアングルで撮ってみました。ふるぼけた木造の、いかにも過疎地のローカル鉄道の駅というムードがあふれています。駅名は登山口ですが、別に目の前に山や登山コースが続いているというわけではなく、どういうわけか、登山口という駅名になっていました。駅入口横にはバス停も見えますが、こちらも相当『朽ちて』しまっている感じがしますね。


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登山口の駅から、前の道をテクテクと歩いて、少し離れた坂道の上まできたところで、駅のある方角を撮影してみました。画面真ん中のほうに、白と赤の色をした電車が小さく写っているのがお分かりでしょうか?それが、登山口駅のある地点です。こうして見ると、過疎地というわりには、駅の向こう側は結構家が建ち並んでいるとも思えます。もちろん、みんな車を持っていて、本数の少ない電車を利用する人は少なかったのでしょうが・・・・・。


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登山口駅前にて待機していた、野上電鉄の2台のバスです。このバスの形というのも、非常に懐かしいものがあります。オールドバスマニアが見たら喜ぶかも・・・・・?このような形のバスは、この時点ではもう、地元周辺では見ることが出来ませんでした。1970年代半ばに造られた型で、85年ごろまでは、地元阪急バスでも同型のバスが走っていました。この時は、「どちらか動き出さないかな?」と一瞬思いましたが、運転士が来る気配もなく、ひたすら昼寝をしていましたね。


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さて、向こうのほうからゆっくりと近付いてくる、帰りの電車を撮りました。何故かこの一枚だけで、もっと近くから一枚撮影すれば良かったと、あとで後悔もしたのですが、この、向こうからやってくる車両、元富山地方鉄道5010型であるデ10形で、富山地方鉄道時代は射水線という路線で使用されていました。
電車は小さくしか写っていませんが、その代わり、のどかなローカル色たっぷりの風景に、北陸の地からやってきた車両がよく溶け込んでいる様子が表現出来たのではないかと思っています。


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上の写真の、デ10形車内です。薄緑色にエンジ色のシートで、行きしなに乗った元阪急パイオニア形と比べると、ずいぶん明るい印象を受けます。この車両は1951(昭和26年)製で、この時点で40年目という古豪車両でした。それでも野上電鉄の中では最新鋭の車両で、一番古い明治生まれの車両よりも40年以上も新しいのですから、その平均年齢の高さに驚きです。富山から来たこの形式は全部で3両あり、行きしなに乗った23号と合わせて4両が、『旧阪神電鉄王国』の野上電鉄にあって少数派といえる、元阪神ではない車両です。私は結局、この少数派の車両ばかり乗ったことになり、奇しくも最年長と最年少の車両に乗車したことになりました。その代わり、主役の座を占めていた旧阪神勢には一度も乗れず、結局その後再訪することがないまま、この鉄道は廃止されてしまいました。
もう一度乗りに行くという計画が果たせなかった事が、今振り返ってもちょっぴり残念に思います。


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この一枚は、JR和歌山市駅で撮影したもので、帰りは南海で帰ったため、JR和歌山駅から、左端に写る電車に乗って、和歌山市駅まで来たのでした。右側に停まる電車は南海電車ですが、旧塗装が非常に懐かしく感じられますね。私は特急サザン(もちろん旧塗装時代の)に乗って帰りましたが、途中、泉佐野駅を通過する頃、私は目を凝らして海岸の方を眺めていました。その理由は、関西空港の建設現場を確かめたかったからです。当時はまだ『関西新空港』と言われていた時代、私は海上に置かれた“区切り線”のようなものを見て、「ああ、あそこが新空港が出来る場所か」と思ったのでした。それから4年、関西空港は新しい関西の空の表玄関として開港し、それより約半年前、この日のミニ旅の主役、野上電鉄が姿を消しました。一つの時代の動きがありました。


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