我が心のバレンタイン:青春 八重桜物語
実は失意を紛らわす事だけが動機だった、
『介護福祉士受験』
 〜勢い任せの申し込み〜

 「あれはやはり、神様の計らいだったのだ。」
 9月に入って、私はハッキリと気付いた。何が計らいだったのかというと、あの5月の、名刺を作るパソコンのトラブルである。
 あれによって、私は結果的に、ヘルパー講座の受講期間中の七絵に一度逢えたわけであるが、もしトラブルが無かったら、一度も逢えなかった事になる。


 ヘルパー講座は、通常約3〜4ヶ月ほどの行程で行われる。そして、今回の講座では多くの日程に於いて、下の階の事務所が会場となっていた。だから私から見れば、約4ヶ月もの間、七絵が自分の職場の直ぐ下に通っていた事になるわけで、ある意味、これで一度も会わない方が不思議とも言えた。
 もし、全行程を通じて一度も会わなかったならば、『こんなに近くにいるのに逢えないなんて』を地で行く様な状況に、なってしまっていたであろう。


 「一度でいいから、どうにか逢えないだろうか?こんな好機を活かせないのでは、もったいなさ過ぎる!」と思ってはいたのだが、悲しいかな日程がズレていた。すなわち、講座の開講日は常に日曜日で、私のいる事務所は休みだったのである。そうなると、さすがに用もないのに下の事務所をほいほい訪ねるのは、ただ単に不自然なだけという事になる。
 わけの分からない苛立ちが募る中、耳に飛び込んできたのが、『施設実習』枠での実習生受け入れの報であった。直前に下の事務所で逢っていた事で、「もう1回逢える!講座期間中に、七絵と2回逢える事になるぞ。」と喜んだのだった。
 その後、私は仕事が立て込んだために、日曜出勤をした事が何度かあったが、はやる気持ちをグッと堪えて、自分の仕事が済んだらさっさと帰った。いや、一度だけ、受講生が帰る時間帯にうまくタイミングを合わせようと試みたのだが、狙い過ぎたため失敗に終わった。


 ・・・・・・運命の神様は知っていた。私の『ひと夏の夢』が、決して実りを結ばない事を。だから突然パソコンを壊し、極めて変則的なパターンながら、結果的に七絵と逢えるよう、取り計らってくれたのだ。ここに来て、やっと事の全容を理解出来た。


 さて、その様な『失意のドン底』の中で、私は何とか気分を紛らわし、気持ちを立て直していかなくてはならなかった。もう8月中旬、ちょうどお盆を過ぎたあたりから、七絵が来ない事をどこかで覚悟している自分がおり、いかにしてショックを散らしていくかを、真剣に考え始めていた。職場の同僚からも、「何かここ最近、根箭さんピリピリしてませんか?」と言われたりして、ますます、「この不安定な気持ちから立ち直らなくては」と焦るのだった。
 そんな折、仕事仲間からある質問をされた。それは、
 「根箭さんは今年、介護福祉士を受けへんの?」


 あの“筆記で合格しても、実技で落ちたらそれで終わってしまう”、介護福祉士の試験。
 私は従来、丸っきり受ける意志は持っていなかった。何故なら、国家資格が無くても、それで今の職場で働けなくなるとか、急に仕事が無くなるという事は、ないからである。だが、この時の私は仕事仲間からの質問に対して、
 「介護福祉士か・・・・・、おっしゃ!受けてみようか。申し込むわ。」と言って、本当に直後に申し込んだのである。まさに即行。資格に目を向けない姿勢だった私としては、考えられない行動と言えた。一体何があったのか?


 私は飛び付いたのである。介護福祉士を受験する事に。もっと正確に言うと、『介護福祉士の受験を申し込む事に』である。試験日は来年の1月下旬だから、まだ先の話となるが、今の失意から何とか抜け出そうと躍起になっていた私は、何でもいいから過去にやった事のない、新しい行動を取ってみる事で、気持ちの切り替えを図ったのだ。
 「介護福祉士?いいではないか。国家試験を受けるのは大きな事だ。考えただけで気持ちが引き締まるし、もし一発で合格出来たら、それはすごい話だ。」
 私は大きな期待を寄せた。実際、申し込むための手続きをこなしていくと、さらに神経が集中してきた。職場の事務の人にも一部書類を作ってもらったのだが、その時も出来上がった書類を前に、「根箭さん、受けるんですね。頑張って下さい。」と言われた。
 「おー、俺って本当に国家資格に挑戦するんだ。頑張らないとな〜。」と、気持ちが高揚してくるのを覚えたものである。


 こうして私は、介護福祉士を目指す結果となったわけだが、先程来書いている通り、受験動機は、
 『失意を紛らわしたかったから』
 ただそれだけ。ほかに何も無かった。もしこの夏に七絵が実習に来ていたなら、私は、いきなり風向きを変えるかのごとく介護福祉士を受ける事は、100%有り得なかった。
 本当に、今思えば何と単純で、衝動的な行動を取ったのだろうと思うが、それだけ当時は落胆が大きかったという事で、仕事に対するモチベーションさえも、一気に下がりそうな気配だったのである。激しい精神的息切れ≠ゥら、遠からず無気力に陥るのは必至で、何か新しい行動に飛び付くということは、急務だったのだ。
 それだけではない。実は同じ頃・・・・・。


 嗚呼!人生、何故悪い事はこうも続くのだろう?何と、オカンが『退職』する事になったのである。
 最初に本人からメールで知らせを聞いた時、私はそれこそ、「ガーン!!」という気持ちになった。「まさか・・・・・、こんなに早く!」
 「オカン、とうとう辞めてしまうのか。でも、もうちょっと先だと思ったんだがなぁ・・・・・。」


 実は、私は去る6月にパソコンを渡した時、オカンから退職をほのめかす様な話を聞いていた。その時点ではまだ何も決まってはおらず、オカンも、
 「この話は内緒やで。まだ誰にも言うてへんねんから。いずれ何か決まったら私から報告するから、あんたは黙っといてや。」と言っていたので、一切口外をしていなかったのだ。
 しかし、不安は拭い切れずにいた。だいたい人はどんなに仲良くなっても、いったん物理的に距離が離れてしまうと、お互い疎遠になってしまうというもの。私みたいな人間は尚更その傾向が強いし、ことにオカンに関しては、「絶対疎遠になってしまいたくない」と望んでいた・・・・・。
 そう、何といっても、七絵の『オカン』である。そうでなかったら、『オカン』とは呼んでいなかった。私にとって七絵は、個人的感情の中では『かつての愛犬からの恩返し』である。だが一方で、客観的に見た関係というのは、飽くまでも『職員の子ども』、『職員の家族』なのだ。その事を、私は常に冷静に受け止めていた。どんなに運命だと感じても、心のどこかでは私らしく(?)、醒(さ)めた目で現実を見ていたのである。・・・・・否、逆に私は、職員という『肩書きを介して会う』事に、こだわっていたのかも知れない。『仕事としての空間』の中で会わないと、輝ける自分を見い出せなくて、心細くなるから。


 オカンが去れば、辛うじて七絵につながっていた、“糸”も切れる。そして、その日が決して遠くない内にやって来る事を、私は6月のオカンのひと言から察知していた。だからこそ、直後に七絵が実習生として事務所に来る話をオカンがしてきた時には、それが私にとって、『惜別のセレモニー』になると感じたのである。だが、結果的には七絵は現れなかった。従って、惜別のセレモニーは“中止”のまま、3年前のクリスマス以来続いてきた一つの『時代』が、幕を下ろす事になったのだった・・・・・。


 正式にオカンの退職が決まると、上司からも報告された。9月末日限りで退職となり、最終日には職場で花束贈呈が行われたが、その際、渡す役が私になった。せめてもの、これも計らいかな?と思った。神様からとかそんなのではなくて、日頃身近に働いている同僚からの、計らいかな?と・・・・・。


 10月、オカンが辞めて以降の毎日というのは、充分に予想は出来ていたものの、炭酸の抜けたコーラのごときテンションになってしまった。しかしそんな中、ある日突然、七絵からメールが来たのである。これには驚かされた。
 「久しぶり!元気?お母さんも次の仕事で頑張ってるぞ。ねやろーも頑張れ!」
 大いに元気付けられたものである。以前のメールよりも、文章や漢字変換がだいぶしっかりしている。これも一つの成長の証かな?と思ったり・・・・・。そして頑張るといえば、介護福祉士である。


 申し込んだ当座は、『大スランプ』からの脱出欲も手伝って、非常に燃える気分であった。早々(そうそう)に仕事仲間から、参考書を貸してもらったりもしたのだが、オカンも去り、時代の大きな節目を感じたあたりから、にわかに熱が冷め始め、『燃え尽き症候群』のような状態に陥ってしまった。
 試験を申し込んだだけで『燃え尽き症候群』なんて、聞いた事も無い話だろう。しかしこの時の私は、『申し込む』という行為をした事で、まるで実際に試験を受けて合格したかの様な“達成感”を味わってしまっていた。本来ならほんの入口の第一歩に過ぎない、『申し込んだ事』が、イコールゴール≠ノなっていたのだ。だから、その後はもう息切れしたかの様に、試験の事を考える気力が無くなってしまった。いかに『勢い任せに』申し込んでいたかという事だ。


 結果、本来なら追い込みの時期にあたる晩秋〜新年にかけて、私はまともに勉強をしなかった。もちろん少しはやったし、自分で新たに過去問集を買ったりもしたが、やはりいざ問題を見てみると難しい!範囲も広いし、どこから手を付けていったらいいのか、分からない。
 「こりゃもう、アカンなぁ。」と、すっかり消極的になる有様だった。おまけに試験間近である1月後半になって、私は風邪を引いて寝込んでしまった。まあ真冬だし、仕方が無いと言えばそれまでだが、やはり健康管理の面でも甘くなっていたと見るのが、正解であろう。
 『目標合格』からは程遠いモチベーションのまま、いよいよ試験当日を迎えた。この日は筆記試験である。
 予想以上に物凄い人数で、さすがに雰囲気は違っていた。当日も鼻水が出て仕方が無かった私は、ろくに集中出来ないコンディションの中、洟(はな)ばかりかみながら試験を受けたのであるが、それでも一応、各問題はじっくり読めて、全問解く時間は足りた。これは一つ、明るい材料であった。


 結果は当然のごとく不合格。従って、実技試験には進めず。
 一瞬「あ〜、残念だな。」と思ったが、元より合格なんて考えていなかったから、「ま、いいや。」と思ったし、結果が来る前から緊張もしていなかった。


 月日は巡って1年後。私は再び、介護福祉士の試験に挑んでいた。2度目の挑戦となったこの時は、当日の3ヶ月以上前から、連日猛勉強に励んだ。目の色を変え、本気で合格を目指したのだ。まるで受験生のごとき気合いの入れようで勉強に打ち込み、体調も万全の状態で試験に臨んだ。
 ただ、予想外に問題が難しくて(他の受験者もそう話していた)、「これはかなり厳しいな・・・・・」と、眉間にしわを寄せながら合否通知の到着を待ったのだが、結果は合格。
 「ヨッシャ!」先ずは第一関門突破であった。


 そして初挑戦となった、実技の試験。
 この実技の試験に合格して、初めて介護福祉士の資格を得られる。もしここで落ちたら、今年も『不合格』だ。数日前から緊張して、満足に眠れない日が続いた。そして試験前日には、昼食も夕食も、「合格をとりに≠「くぞ」という意味で、鶏肉を食べた。さらに当日には、ちょうど1週間前に従姉妹の結婚式に出ていたのだが、式の日の、私服姿でいる時間帯に着ていた新しいセーター(買ったのは式前日)を、『おめでたい日に着た服を着れば、おめでたい結果が出る』と考えて、着て行った。私としては珍しく、ゲン担ぎ≠おこなったのであるが、ここまでやったという事は、裏を返せば、それほどまでに真剣に合格を目指していたという事である。
 それでも試験前日〜当日にかけては、まんじりともしない夜を過ごし、迎えた当日の朝は出発ギリギリの時間まで、教材ビデオを見てチェックしていた。


 6時50分、いよいよ家を出発して、8時25分に会場に到着。しかし自分の出番までの待ち時間が実に3時間もあり、その間、手のひらに汗をかき過ぎて、握っていた受験票がフヤフヤになってしまった。
 プレッシャーにはことのほか弱く、ナーバスになる一方だったが、
 「思い出してみろ。俺は昔、劇団の舞台に出ていた。あの舞台の本番直前の方が、よっぽど緊張しただろう?あの時の方がもし失敗した場合、責任重大だっただろう?でも成功したじゃないか。だから今回も大丈夫だ。いくら緊張するといっても、あの時よりマシだ。」
 と、かつての劇団での体験を回顧しながら、言い聞かせていた。そしてこうも。


 「俺の場合、平常心というのは無理だ。でも、逆にナーバスになればなる程、最後は良い結果に終わる様に出来ている。だから今は緊張するだけ緊張しろ。その方が、いざ本番ではうまくいける。」


 果たして、僅か5分間の本番は、少々時間が足りなかったという悔いは残ったが、覚えていたこと、気が付いた事はほぼ全部やったし、ベストを尽くしたという手応えは感じる事が出来た。ただ、それでも結果を待つ間の1ヶ月間は、かなり緊張の日々を送り、夜、突然体が震えて目が覚める事もあった。周囲は案外楽観視する人が多かったのだが、自分ではどうしても、ギリギリまで追い込まれる様な、厳しい心境になってしまっていたのだ。ある大きな『夢』が懸かっていたから・・・・・。


 今年、七絵が再び受験生となっていた。大学受験である。そして、私が介護福祉士の筆記試験を受ける前に、既に合格が決まっていたのである。だから私としては、何としても自分も合格して、七絵との【ダブルで合格おめでとう】を、実現させたかったのだ。
 『2人でお互いに祝福の言葉を交し合う』
 これが私の夢だった。この夢があったからこそ、今年は『必勝』を期して頑張ってきたのである。


 もう一つ、今年ぜひ合格したい理由があった。
 去年、『勢い任せの申し込み』をして結局それだけで終わった、情けない自分に対するリベンジを果たしたかったのだ。私は、後から振り返って本当に恥ずかしい気持ちになった。そして、
 「あんなお粗末な受験動機だけで、終わらせてなるものか。」と、自分に渇を入れたのである。だから、もし今年も合格出来なかったならば、もう二度と受験しようという気には、ならなかっただろう。


 2009年3月31日、運命の合格発表の日。合格者の受験番号のみが、インターネット上で公表されるのであるが、私の受験番号が載っていた。
 合格である。


 『ヨォ〜〜ッシャァ〜〜!!』


 私は一人、歓喜の叫び声を上げた。『夢』を実現させる条件をクリアした瞬間だった。これで【ダブル合格おめでとう】が、現実のものとなったのだ。そして、去年の自分へのリベンジも、同時に果たせた。興奮冷め止まぬ中、早速オカンにメールを打った。
 「いつか近い内に、七絵の入学との合同祝いをやろうや!」
 すると期待に違わず、七絵からの返信がきたのである。
 「おめでとう。また頑張れや!」
 短い文面であったが、晴れの春休みを送る七絵からの、このメールこそが一つの夢だったのだ。まずはこの一通のメールを受け取るために、今まで勉強を頑張った。そしてもう1人、K子姉さんにも報告のメールを送った。近所とはいえ、久しく音沙汰が無かったK子姉さん。七絵と私の事を嬉しそうにからかっていたのを、昨日の事の様に思い出す。K子姉さんには、次にメールを送る時は介護福祉士の合格報告にしようと、去年から心に決めていた。だから、実現出来てとても嬉しかったものである。


 さて、依然喜びが覚めやらぬ私だが、「それにしても」と、ふと思った。
 もし去年に合格していたら、七絵との【合格揃い踏み】というのは、実現しなかった事になる。今年に合格したからこそ、実現出来たわけだ。そう考えると、去年落ちたのはかえって良かったという結論にもなるし、自分で分かっていた理由とは別に、『落ちるべくして落ちた』という気がしてくる。
 私と七絵がそれぞれ何かに挑戦して、2人とも良い結果を出すという事は、お互いが生きている限り、これからも充分起こり得る。しかしその時期が“同時”という事になると、これはさすがに、今回を置いてほかに無いだろう。


 長い人生の中でも、【理想の舞台に立つチャンス】というのは、そんなに訪れるものではない。だからこそ、去年でも来年でも無く、今年合格したという事に、大きな意義があったのだ。
 しかし・・・・・、ここまで来てみて、私はつくづく思った。
 最初に介護福祉士を受験しようと思った動機と、2度目の受験で合格を目指した動機、どちらもまともに七絵が関係している。
 どうやら私の中に於いては、介護福祉士を取得する事と七絵の存在とは、互いに切り離せない関係にあった様である。




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