未完の夢よ、永遠に
〜人生最大の、ある皮肉≠ノ沈んでいた日々〜

序章
運転初練習まで・・・・・筆記試験は一発合格
運転初体験は、『目回りパニック大賞』
ちょっとした“隙あり!”
ここで告白:運転を始めた本当の理由
悪戦苦闘の運転練習、そして幕引き≠ヘ訪れた・・・・・
ある意味、人生最大の皮肉
『暴走の忘れ形見』となった免許証
恋煩い解消、そののち
終章

※印刷をして手元で読みたい方は、Word版をどうぞ(写真は割愛しております)


序章

 人は時として、「自分はこれだけは絶対やらない。」と宣言していた事を、突然、何でもない顔をしてやり出す事がある。本当に「何で突然に?」という感じで、日頃からその人をよく知る周囲の人たちも、一様にビックリした顔をする。その様な時、人は必ず何か、よほどの動機、そして『転機』となるものがあるのである。違う言い方をすれば、人はその時、何かに取り憑かれて≠「る。そして、その取り憑いているもののパワーに完全に支配され、通常ならおよそ考えられないような行動に出るのである・・・・・。


 私にもかつて、その様な事があった。別に仕事や勉強のために、または生活のために絶対必要というわけでも無かったのに、ある時突然、『従来からの方針撤回』、周囲もアッと驚く行動に出た事が・・・・・。その行動というのは、内容自体は別に珍しいものでも何でもなく、誰もが当たり前にやっている事である。しかしこの私にとっては、この上なく意外で、およそ考えられないものだったのだ。
 では私は一体何をやり始めたのか?答えは『車の運転の練習』である。免許を取って、運転を出来るようになろうとしたのだ。当時21歳。車の運転なんて、成人になった人なら誰でもやろうとする事。しかし私となると、話は別だった。
 およそ半端ではない運動神経・反射神経の鈍さ。そして前を見たら前だけ、右を見たら右だけにしか神経が行かない性格で、パニックにも極めて陥りやすい。
 周りの誰もが、「あいつは運転させたら危ないな。」と思っていた。そして自分でもそれを素直に認めていたから、「運転するな。」と言われても、別に気を悪くする事はなかったのだ。寧ろ、「ちょっとは運転やってみたらどうだ?」と言われる方が、極度にプレッシャーがかかり、精神的に負担を感じていたぐらいである。その私がある日、誰にも相談をせず、いきなり運転の練習を始めた。しかしそれは、今でも忘れられない、ある『皮肉な体験』の第一歩となったのである・・・・・。



運転初練習まで・・・・・筆記試験は一発合格


 正確な日付までは覚えていないが、私が密かに、「車の運転をしよう!」と心に決めたのは、1995年1月下旬、ちょうど日本では阪神大震災の直後で、特に地元でもある被災地、関西は、大混乱の真っ只中という時であった。
 『日本では』というのは・・・・・?
 そう。実はこの時期、私は留学でハワイのホノルルに住んでいたのである。1992年8月〜96年5月まで、4年間ハワイの大学(ハワイ大学ではない)に留学していたのであるが(従って、日本の大学は経験していない)、その期間中、現地で免許を取る事になったのだった。
 さて、運転をすると決めた私であったが、何しろ初めての事なので、先ず何からどうやって、どこにアクセスをすれば良いか分からなかった。当時はまだインターネットも一般的ではなく、まァ普及していたとしても、学生時代の私は、パソコンは全くやらなかった。とにかく機械ものは、誰も私の右に出る者はいないというほど、苦手だったのである。そんな私が、車という難しい機械を操ろうとする事自体、奇跡だと言えたが、同時にそれだけ機械苦手で気も短いという事を周囲もよく知っているだけに、友達が聞けば恐らく鈍い反応を示してくるであろうという事は、目に見えていた。だから誰にも教えてもらわずにやろうとしたわけだが、結局は電話帳を見てドライビングスクールにコンタクトをし、そこで言われた事に従って行動した。曰く、
「先ず本屋で交通ルールが書かれたマニュアルを購入し、それをよく読んで中身を覚えた後、警察署の交通課(いわゆる日本で言うところの)に電話して、筆記試験受験の申し込みをする。そして筆記試験に合格した段階で、もう一度ここに電話して下さい。」


 「なるほど」と思い、早速本屋で交通ルールのマニュアルを買ってきた。それを読み進めている内に、私は徐々に胸の高鳴りを覚えてきた。
 「オレ、ホントに運転免許取得に向かっているんだ・・・・・・!!」
 内側から突き上げてくるエネルギーを感じ、自分でも信じられない思いがした。そして筆記試験に出てくる問題部分を中心に何度も読みこなし、2月10日頃、私は警察署に電話をして筆記試験を申し込み、数日後、受験≠オた。もうすっかり覚えていたので、一発合格は十分に自信があったが、それでも実際に合格を言い渡された時は、何だか物凄い事をやってのけたような気分になったものだ。
 「たかが筆記試験に通ったぐらいで何を。」と、普通の人は笑うだろうが、私にしてみれば、たかが≠アれぐらいの事でも画期的な事だったのである。一瞬、あの高校合格の瞬間の記憶が脳裏をよぎったほどで、何とも言えない清々しい気分が、我が身を包んだ。そしてすぐさまドライビングスクールに電話をかけ、筆記試験合格の旨を報告。先方からは、「分かりました。では早速運転の練習に入りたいと思いますので、家の場所と空いている日時を教えて下さい。」と言われた。
 「いよいよだー!」と高揚感さえも味わいながら、私は家の住所と、すぐ翌日の放課後が空いていたため、「明日、お願いします。」と伝えた。すると程なくして待ち合わせ場所を指定され、何色のどんな格好の車で向かいますと説明されてアポイント成立。かくて生まれて初めて、車のハンドルを握る日がやってきたのだった。


運転初体験は、『目回りパニック大賞』


 筆記試験の翌日、私は大学が終わるが早いか、前日にドライビングスクールの人と約束した待ち合わせ場所に行った。そこは家の向かいにあるドライブインの駐車場なのだが、行ってみると、エメラルドグリーンっぽい色の、確か車種はインプレッサだったか?の車が停まっていた。これこそが、今から私が運転を体験せんという車であった。
 運転席の扉をノックすると、中から日系人の教官が降りてきた。そしてあいさつもそこそこに、こう言ってきたのだ。
 「ハイ、乗って下さい。どうぞ。」 見ると教官の手は運転席の方を指している。
 「え?」と私は一瞬動きが止まってしまった。『まさか、いきなりここから運転するわけではないだろう?』と思ったのだが、訊いてみるとそうだったのだ。
 「エェー!?」と思わずスットンキョウな声を出してしまった。『そんな。大丈夫なのかよ・・・・・。』
 誘導されるがままに、あたふたと車(それも運転席!!)に乗り込む。同時に教官は助手席に乗り込み、シートベルトを締めるが早いか、「ハイ、じゃ先ずそこキー回して、エンジンかけて。」と言ってきた。
 『お!オレが車のエンジンをかけるのか。』と興奮する暇も無くキーを回す。
 「ハイ。で、ブレーキ踏む。ブレーキ必ず踏んで下さいね。」
 『ああそうか、ブレーキね。左・・・・・・だよな。』“ギュウゥゥー”
 「ハイ。じゃ、そこ。そのDとかRとかPとか書いてあるレバーがあるでしょ。そこを、先ずバックして出ますからね、Rにして下さい。」
 『おう!これも自分で動かすんだ。』因みに、RとはReverse=バックする、の事である。Reverseにした後、教官は言った。
 「ハイ、じゃあゆっくりね、ゆっくりゆっくり、ブレーキから足を離して下さい。」
 「離すんですか?」と言いながら、そ〜っとブレーキから足を離した。と同時に、ヒュウ〜っと音も立てずに車が勝手に後に動き始めた。
 「ワ!」と思わず叫んで、反射的にまたブレーキを踏んでしまった。教官が言った。
 「な〜に、怖がらなくても大丈夫、大丈夫。ブレーキこっちにも付いてるから。」
 『へ?どういう事?』と思って見ると、何と助手席の下にも、ブレーキが付けられていたのだ。つまり、どちらからでもブレーキをかけられるわけで、そんな構造の車なんて想像もしたことが無かったから、めちゃめちゃ驚いたし、感激したものだ。そして、
 『それなら安心出来るわな。オレはてっきり、自分がミスったら教官を道連れにするものだとばっかり思っていたから。』と、肩の力がスーッと抜けるような気がした。


 それにしても、今教官と会ったその場から即運転開始などとは、思いもしなかった。いわゆる教習所≠ニいうところがハワイに、というよりアメリカに無いのは知っていたが、それにしても、もうちょっと初心者の練習用としてふさわしい、交通量の少ないところまで教官が案内して、そこで初めて練習開始になるものとばかり思っていたのだ。そしてその間に色々運転の技術や、運転席の各部位などについての講習を受けるもの、と想像していた。だから、さしたる前置きも無しにいきなり目の前の、車がビュンビュン走っているこの道路から運転と言われた時は、本当に心臓が飛び出しそうになった。助手席からもブレーキを踏める構造の車だと聞いて、初めて少し安心出来た次第である。


 「すごいな、こっちのシステムというのは・・・・・!」感心している間に、教官が、もう一度ブレーキを外して、駐車スペースから車を出すよう促してきた。
 ソ〜ッと、先ほどより3倍ゆっくりと、ブレーキから足を外した。またヒュ〜っと車が後に下がり始める。この時、私は初めて知った。
 「車って、アクセルを踏まなくても、ブレーキから離れた時点で動き出すものなんだ。」
 そう。何も知らなかった私は、アクセルを踏まない限り、車は動き出さないものだと思っていたのだ。急な坂道なんかでは話が別かも知れないが、普通の平らな道では、ブレーキから足を離しても、アクセルを踏んで初めて、前でも後ろでも動くものだと思っていた。だから、この時の驚きというのは、強烈なものがあった。
 「ハイ、後ろチェックしながら、バックして。ハイ、ハンドル切って、切って。」
 と言いながら、教官自身が横からハンドルを回してくれた。こっちは、急にハンドルを切ってと言われても、どちらに切っていいのか分からなかった。
 さあ、この後はいよいよ出発である。レバーをRからD(=Drive)に切り替え、アクセルを踏むと、今度は前に向かって動き出した。
 「わっ!動いた。コレが運転だ!!」
 これが、『超待望大実現』という事になるのかどうかは知らないが、ついにこの私が、車の運転を体験した瞬間であった。いや、厳密には自分の場合、前進の前にバックから体験したと言った方が正しい。しかし『運転する』と言ったら、普通は前に進んでいる状態をイメージするだろうし、そういう意味では、車の重心がグッと前に傾いたこの瞬間が、『運転』を実感した最初となった。


 教官の指示に従って、私は普段は人の車やバスに乗って行き慣れている道を、自分で運転して走った。そんなにスピードも出していないのに(時速40〜50kmぐらいか?)、“風を切る様に”疾走していると感じたのは、初体験の感激ゆえだろうか?興奮を抑えるのに苦労しながら、小一時間ぐらいだろうか?運転をしたのだった。
 自分が運転しているから車が進んでいる℃魔ェ、本当に信じられなかった。普通、運転初体験の時というのは、みんなそう感じるものなのだろうか?私の場合は、それだけ如何に、自分が運転する姿を想像していなかったかという事なのだと思うが・・・・・。とにかく、頭の中が毎秒バウンドしている様な状態になって、大変だった。アクセルを踏む時は肩から首筋まで『力み』を感じ、ブレーキを踏む時は早過ぎるタイミングから急ブレーキになった。『早過ぎない様に。』と注意をすると、今度はタイミングが遅れかけて教官が横からブレーキを踏み、私自身は、ブレーキを踏む前に車が減速するので、一瞬頭が前に傾きかけた。度々交差点も通過したわけだが、信号も、自分が運転する立場で確認するとなると、今までとは全然違って見えてきた。何と言うか、より自分に“差し迫った存在”として、目に飛び込むようになったのだ。ハンドルも、どのぐらい切ったらどのぐらい車が曲がるかという感覚は、味わう余裕が無かった。カーブに差し掛かると、教官のほうが横から手を伸ばしてハンドルを操作してくれていた。
 練習後半は、少しスピードを上げ気味に運転していた様に思うが、どのぐらいの速度だったかまでは、記憶に残っていない。とにかく教官から、矢継ぎ早に指示や注意が飛び、私は頭の中では無く、目の前が回転している様な、一種独特の心地であった。


 最後は私の住むアパートの前に車を止めて、練習終了。ドワーと汗が吹き出て、顔面がほてってくる感覚を覚えた。過去体験した事の無い緊張感だった。降り際に次の練習日程の打ち合わせをしたが、このような感じで、この後、何十回も練習を積み重ねることになる。
 家に帰ると、疲れがドッと出て、いきなり眠ってしまった。あれだけ運転って大変なものなのだとは想像もしなかったが、とにかく無事に済んで何よりだった。そして・・・・・、


 なんか、大人≠セと感じた。一般道路を、自分がハンドルを握って車を動かした。運転席に座っているのが、自分になっていた。
 車のハンドルを握る姿。これがどれだけ、サマになっている≠ニ映っていたか、分からなかった。今まさに、自分がその対象に“なれるかも知れない”第一歩を踏み出したのだと思うと、ドキドキせずにはいられなかった。
 興奮と緊張に満ちたこの日は、まさに『目回りパニック大賞』だった。


留学時代の内、3年間を過ごしたアパート(縦に3つ見える内の真ん中)と、
私が初めて運転した時に通った交差点。



ちょっとした“隙あり!”


 運転の練習を3回ぐらいやった頃だろうか?ある日家に帰ると、同じ大学に通うルームメートから、いきなり一言訊かれた。
 「お前、運転を練習しているのか?」
 「え・・・・・!?」 一瞬目が点になったが、すぐに「何で?」と問い返した。
 「お前が車を運転しているのを、目撃したヤツがいる。それにお前、そんな本買ってきてるし。」
 パッと彼が指差す方向を見ると、最初に本屋で買ってきた、筆記試験用のマニュアル本が床に転がっていた。前の晩、改めて感慨深げにその本を手にとってそのまま寝てしまい、本棚に戻すのを忘れていたのだ。
 「そんな本、お前持っていなかっただろう?」
 そこまで言われて、私はもう観念した。何より、目撃情報まであるとあっては、誤魔化しようがない。実は私の家というのは、大学を出て本当に直ぐのとこにあった。だから、その辺りで車の運転をしていれば、目撃されない方がおかしいくらいなのだ。
 「うん・・・・・。実は、最近始めた。」
 「な〜んだ。全然知らなかった。また今度俺も教えてやるわ。」


 思ったほど反対されたりはしなかったが、その晩、ルームメートの彼女がうちに来てその話を聞いた時は、「ちょっと不安だな。」と言われた。
 「何で急に運転する気になったの?」とも、案の定というか、2人から聞かれたが、
 「うん、まぁ、前々から何人かの知人に『アメリカにいるなら免許取らないと損だ』と言われていたし(←実際に言われていた)、やってみようかという気は一応あったんだけど、オレ、どんくさいし止めておこうかと思ってたけど、もう来年卒業して日本に帰るし、4回生になったら卒論とかで忙しくなるから、やっぱり今のうちに取っておこうかと思って・・・・。」
と、淡々と述べた。我ながら合理的な、如何にも有り得そうな理由だと思った。
 「あぁ、なるほどね。」
 と、あっさり納得してくれた。その後も、予想通り仲間うちの間で、『不安説』は飛び交ったが、
 「This guy drives a car!(この男が車を運転するんだぞ!)」と、えらく注目される事もあった。
 そりゃ、普通の人が運転する場合とは、訳が違うだろう。
 取りあえず、友達には知られた。しかし、適当にいい理由を作れた事には満足していた。


ここで告白:運転を始めた本当の理由


 読者のみなさんは、ここまで読んできておよそ見当が付いている事と思うが、ハッキリとは書いていなかったので、ここで明記したいと思う。私が運転を急に始めた、本当の理由である。


 当時、私には好きな人がいた。そしてその人が、もし学校から歩いて帰れるところに住んでいるか、遠くに住んでいても車で通学しているというのなら、私も別段運転したいという気持ちは起こらなかった。事実、彼女の前に私が好きだった人は、少し遠くに住んでいたが、車通学をしており、またバスで通う場合も、ひんぱんに来る路線だったから特に不便は無く、従って私の中にも『運転熱』というのは、一切沸いてこなかったのだ。
 しかし、この時好きだった人は車を持っておらず、バス通学で、しかも極めて本数の少ない路線を利用しなくてはならない状態だった。歩いて行くにはかなりの距離があり、その上、学校でも毎日朝早くからのクラスを取っていたのである。多分、取りたかったクラスが、早い時間帯に集中していたからだろうが、そういう状況に置かれている事から、特に登校時、そして時に下校時にも、何人かの友達に車で送ってもらっている事があった。もちろん毎日では無かったが、私自身、彼女が車で登校してきた場面を、何度か目撃していたのである。
 私の中に、一案が浮かんできた。


 『自分も、送迎出来る内の一人になれれば・・・・・。』

 切なる想いだった。もし送迎が出来れば、車の中で、その人との会話の時間も作れる。もちろん、いわゆるタブーな話(いきなり告白するとか)はしない。飽くまでも日常会話をイメージしていたのであるが、それがある時間枠、自分とその人と2人だけの空間で出来るというのは、ものすごい事だ。何よりもその人の中で私が、『ただ学校で会うだけではなく、自分の送迎もしてくれる存在』として認識される様になる。つまり、普通に学校で会う以上に縁があると見なされるわけで、それがどんなに自分にとって励みになる事か、計り知れなかった。
 『その人の役に立つ』という“シェア”を作る事によって、普段でもその人から声をかけられたり、何かで頼ってもらえたりするチャンスが増えてくる。そしてそれは自分にとって、何よりの潤いとなり、男としても大きな自信につながると思った。普段学校では、会ってもお互い教室の場所が離れていて、あいさつする時間を作るのがやっと、という現状もあっただけに、なおさらであった。


 私はその人と、学科の専攻は全く違っていたのだ。それだけに、勉強の面で彼女の役に立つというのは、自分が専攻を変えでもしない限り、不可能であった。実は、一瞬それも考えたのであるが、全然自分は興味もない学科を無理に専攻したところで、それは無謀な策でしかないので、さすがに思いとどまった。
 勉強面では全く出る幕が無い。ならばそれ以外のところで、何か彼女が必要としているものを見付け、それを出来るようになる事が、自分の出る幕を作る道だと思った。そこで、運転習得→送迎≠ニなったのだ。


 好きな人を助手席に乗せ、自分が運転して移動をリード¥o来たら、カッコいいではないか。それこそ『男冥利』に尽きる。
 一段と強い、『大人』としての力を得たような気持ちになれる。高い『ステイタス』を得たような気分も味わえる。
 彼女から、『こういう時は頼れる』と思われる一面が出来、そのぶんワンランク上の印象を持ってもらえる。


 当時21歳7ヶ月だった私は、今思えば笑ってしまうしかないこれらの事を、本気で思っていたのである。
 『朝早くから不便な思いをして通学するのは大変だろうな。』と、毎日ことさらに気遣っていた。一方では、
 『自分みたいな男が』、『オレに異性と付き合う能力なんて・・・・・』という様にも捉えていたのである。それでも、
 『彼女の日頃の人間関係に於ける、“レギュラー員”になりたい。彼女がパッと私の名前を聞いた時、ただ“顔は知っている”以上の存在でありたい。』
 という想いが、日ごと私を圧迫≠オた。そしてそれに寄り切られる格好で、ついには本当に運転の練習を始めたのだった。
 『もし免許を取ったら、車を買うか、それが無理なら長期リースをしよう。』 私は、実にそこまで考えていたのである。


悪戦苦闘の運転練習、そして幕引き≠ヘ訪れた・・・・・


 運転の練習は、ほぼ毎日というハイペースで続いた。車庫入れや縦列駐車、大通りでの左折(日本では右折)や車線変更など、一通りの技術を教わったが、とにかくよく怒られ、同じ注意を何度も受けた。
 本当に運転は難しかった。自分で運転を体験した事を通じて、普通に車を運転している人というのが、何だかスゴイ人に思えてきた。特に、私は幼少の頃から乗り物好きでバスが大好きなのだが、バスの運転士というのが、神様だと思えてきたのだ。今までバスというのは、ともすれば車両そのものが自動的に動いているという錯覚≠ウえも起こり、運転士の存在がイメージに浮かばなかったぐらいなのだが、この体験を境に、『バスは先ず運転士ありき』という認識に変わった。
 

 一方、私と言えば、もともと運転なんて全く向いていなかった人間である。それをひっくり返して、言ってしまえば見切り発車にも近いような状態で運転を習い始めて、そうそう順調にいくものでは無いというのは良く分かっていた。だが、それにしても上達が遅かったようだ。
 教官は、「日本人で、簡単で安く免許を取れるという理由で、ハワイに取りに来る人は多い。」と話していた。そして、「大体は、全くの未経験から始めても2週間ぐらいで取れるよ。」とも。
 しかし私の場合は、とてもじゃないが2週間やそこらでは、実技の試験を受けられる状態にはならないな、と確信していた。練習初日が2月10日頃だったから、まあ来月に入った時点でどこまで上達しているかだ、という気持ちで、マイペースに構えていた。
 ことに車庫入れや縦列駐車は難しかった。何十回やっても、同じ様な失敗をし、注意されていた。
 そして私が一応の目安の時期と定めていた3月初め、ある事が起こった。それは、運転そのものとは直接関係の無い事だったが、ある意味、今後運転の練習を続けるべきか否か、自分の進路≠フ根幹を揺るがす大きな出来事であった。


 恋の幕引きを告げられたのである。


 この時期、ちょうど恋の相手の誕生日があった。そして、当日校門で待ち伏せをして、誕生カードを渡したのだ。
 誕生日にカードを渡す事自体は、別に悪い行為ではないと思うが、わざわざ朝早くに校門で、それも自分自身はまだ登校する時刻では無いというのに、待ち伏せをしていたというのは、今思えばストーカーまがいの行為だったようにも思える。
 カードは受け取ってくれた。そしてそこに、告白めいたメッセージは書かなかったつもりだ。しかし、いわゆる女の勘≠ニいうのか、渡した時の私の表情や雰囲気などで、何となく感じ取ったのだろう。カードを受け取ったのを境に、彼女の態度が変わってしまったのである。廊下で会っても目線を逸らすようになり、学校の帰り道に会って「バイバイ。」と声をかけても、今までなら「ちょっとバス代の小銭が無いから貸してくれない?」とか言ってくる事があったのが、全くの無言になった。


 「嗚呼・・・・・、フラれた・・・・・・。」 何とも言えない脱力感に襲われた。
 意識し始めてから約4ヶ月、確かに私は、肥大するその想いを抑えきれないあまりの暴走行為しか、していなかったであろう。しかしそんな、“独り善がりの暴走”の中にも、いちるの望みを託し、せめてどこかの場面で自分がプラスの存在になれればと、心静かに準備し、新しい技術(=車の運転)を習得しようとしていた。そのエネルギーが、・・・・・消えた・・・・・。
 もう運転の練習は、する必要が無くなったな、と思った。これまで、綿の先を紡いで糸を伸ばす様な心地で、何とか彼女と会話をする機会をつなげてきた。元々は彼女の中での私の印象も、決して悪いものではなかったと思う。が・・・・・、
 ひとたびちょっと弾んだ行為に出ると・・・・・、フラれた。これが恋の現実というものであった。


アパートのベランダより、私の通っていた大学構内を望む。私の家は、学校のすぐ横だった。
そして、恋の相手から「バス代の小銭貸して。」と言われた時の場所が、写真右側に写る歩道である。



 運転の練習を継続するか否か、相当考えた。皮肉な事に、ここ数日で少しばかりだが上達の兆しが出ていた。怒ってばっかりいた教官からも、「そうそう!いけるいける。Good,Good!」と、ハッパをかけられる様になっていたのだ。
 悩みに悩んだ挙句、『続ける』という結論に達した。運転自体は、これを機に免許を取っておけば、今回は目的不在となっても、のちのち、どこかで何らかの役に立つという時がくるかも知れない。何よりも、友達には運転を練習しようとした本当の理由は告げてはいないのだ。だから、急に「止めた。」なんて言い出すと、「何で?」と、いぶかしがるかも知れない。そこで本当の事を話すのは、多分、心理的に無理であろう。
 私は、練習を続ける事を決めた。心に『目的不在』という看板を掲げて・・・・・。


ある意味、人生最大の皮肉


 恋の幕引きのショックを振り払って、運転の練習は引き続き、ほぼ毎日のペースでやったが、やはり『気が抜けた』という感じは否めなかった。
 『オレは一体、何を考えて車の運転なんか始めたんだ?』と、しばしば自嘲気味にもなった。いや、それだけではない。
 実は、私は密かに、車と並行して、モペッドにも乗れる様になりたいと考えていたのだ。決してモペッドで人の送迎が出来ると考えていたわけではないが、何のことはない、恋の相手の仲のいい友達に、いつもモペッドで通学している人がいたものだから(のちに私自身とも仲良くなった)、その様子を見ている内に、自分も同じように振舞ってみたいなぁ、と思ったのである。
 本当に動機が単純というか、ある意味恋の副産バカ≠ニしか言い様がないが、モペッドは早々に断念するも、車のほうは結局ここまでコマを進めてきたわけだ。


 時に3月、私はこの月の事を、切なさを込めて『散月』と表現した。現在、私は3月が来る度に、心のどこかで散≠ニいう場面をイメージし、『散月』と表現する習慣があるのだが、それはこの時の体験に由来している。そののちにも一度、3月に恋が散った≠ニいう事があったから、なおさら強く『散』をイメージするようになったものだ。


 さて、その3月。後半ぐらいになると、いよいよ私も教官から、「いつ試験を受けましょうかね?」という話が、出るようになっていた。普通の人に遅れること3週間、ようやくまともなレベルにまで上達をしてきたのだ。そしてこの頃になると、教官とも大分コミュニケーションが弾み、お互いに親しくなってきた。私も運転に多少は慣れてきて冗談も飛ばせるようになり、教官もウケてくれた。
 「あなたは面白い。コメディアンみたいな人だ。」と言ってくれる事が多くなった。そして教官は私に、日本語の細かい決まりや言葉の違いを尋ねてくるようになったのである。教官は日系人で、日本語はペラペラなのだが、それでも細かい言い方の違いや同音異義になると、混乱する事が多いらしい。私は最もだと思った。何しろ、日本人でも時折混乱するぐらいなのだから。私が教官の質問に対して一つ一つ説明すると、そのたびに教官はアメリカ人らしい大きなリアクションで、
 「あー、そうなんだ!」「ハー!なるほど、そういう違いだったのね!」「えー!?そうじゃなかったの?ややこしくて分からない!」などと、次々に感想を言ってきた。さながら日本語のレクチャーのようなやり取りとなり、どっちが先生でどっちが教えられる側か、よく分からなくなっていた。
 こうして車の運転をしながら時間を過ごしている時が、唯一失恋のショックを忘れられる時間となっていた。この頃の私は、学校にいれば、彼女と顔を合わす度に気まずさばかりが漂う。そして家にいると、どんどんふさぎ込んで、鬱病みたいな状態になった。勉強しようと思っても、最早気力が出てこない。胃も悪く、食欲も減退して体調は最悪。その中で唯一、運転の練習時間だけが、雑念≠吹き飛ばし、しばしの気分転換を図れたのだ。
 「早く運転の時間にならないかな。」
 そう、自然に思うようになってきたところで、私はハタと気付いた。


 そもそも自分は、なぜ運転をするようになったのか?その元々の動機は何か?
 答えは・・・・・・、恋心である。恋心こそ、突然の行動変化をもたらした源であった。ひたすら相手の人にとって、何かで役に立ち、それによって自分が、メジャーな存在≠ノなる事を夢見ていた日々。その想いが、私を絶対しないはずの運転へと導く、エネルギーとなったのである。
 そのエネルギーは・・・・・、今はもう消えた。そして、逆に自分から恋のことを忘れさせるエネルギーへと“転化”した。
 恋の事を意識していたから運転を始めたのに、気が付いたら恋の事を忘れるための最後の砦として、運転するようになっていた。
 恋のために始めた運転が、逆に恋の事から頭を離れさせてくれる、最後の牙城となったのだ。


 ・・・・・・皮肉だった。生まれてこの方、味わったことも無いような、人生最大の、これは・・・・皮肉だった。
 こんな皮肉は、長い人生の中でも、そうそうは体験するものではないだろう。
 自覚すればするほど、顔中が炎でまみれそうになる。気が付けば付くほど、失意のドン底へと突き落とされてしまう。
 そのくらい、皮肉だった。何往復も顔面パンチを食らったみたいな、痛過ぎるほどの皮肉だった。


 1995年4月11日、無事、運転免許を取得。一発で実技試験に合格した。だがその時、元々免許を取得する事に託していた、『運転が上手くなって“男開眼”する』という夢は、既に皮肉沼の底へと、姿を消していた。


ハワイの州都、ホノルル市の官庁街。
免許の試験を受けた、ホノルル警察署がある付近でもある。
この周囲も相当運転したものだ。



『暴走の忘れ形見』となった免許証


 実技試験をパスし、晴れて免許証持ちとなった私。しかし、もう免許を持つ事で広がる世界は、何も存在しなかった。ただ単に、『一過性の夢の遺物』の様な存在となってしまい、一応毎日携帯はしていたものの、最早自分で車をレンタルしようとも、ましてやリースをしようなどとは、思わなくなっていた。実際に車を運転しなくても、既に自分は十分に暴走≠繰り返していた。
 5月に入り、ルームメートから、
 「折角免許取ったのだから運転すれば?」と勧められて、ようやく車をレンタルした。そしてルームメートが『教官代わり』となり、運転をしたのであるが、彼の感想は、「まだちょっと怖いな。」
 そしてレンタル最終日、私は午前中、初めて一人で≠サう、単独で車を運転したのだ。もう横には誰も乗っていない。さすがに助手席を見ると緊張が走ったが、安全運転で、何とか一周街をまわってくる事が出来た。時々怖かったが、どうにかこうにか一人でハンドルを握る格好は、付けられたのである。
 実は、彼女の家があるであろう辺りも走った。何か無性に、自分に対する忌々しさが込み上げてきた。
 「こんな事なら運転せんとけば良かったわ。」という思いが、当に運転中だったにもかかわらず、頭をよぎった。
 それでも、男なんて脆いぐらいに、矛盾に走る生き物である。ハンドルを握り、いっちょまえぶった顔をして運転している我が身に対して、
 「やっぱりこれって、オトナ≠セな。上のランクの世界だな。オトコ≠チていう雰囲気だな」と感じてしまったりもしたのだ。


 「自分が男だというステイタスを感じたい」という“夢のカケラ”が、私の心の中で、つむじ風に乗ってカラカラと回転している様であった。一抹の虚しさがあった。
 その後、12月にもう一度車をレンタル。この時もやはり友達に勧められてレンタルしたのだったが、それを最後に、二度と車の運転に気持ちを向ける事は無かった。

これこそが、『恋は盲目なり』の産物。ハワイ州運転免許証。
客観的に見れば、今日本でこれを所持しているのは、大変貴重な事と言える。



 さて、幕が下ろされてその後、恋の相手の人とは結局どうなったのか?
 結局ずっと、目も合わせられず口も聞く事が出来ずで、毎日学校生活を送っていた。免許を取った翌年(1996年)の彼女の誕生日、休憩時間に顔を合わせた時に「誕生日おめでとう。」と声をかけると、「どうもありがとう。」と普通に返してきたが、これが、前年に誕生日カードを渡した時以来、ちょうど1年ぶりの会話となった。
 これを皮切りに、その後は多少会話が復活し、その年の5月に私が卒業するまでの間、6〜8回ぐらいは口を聞けたのではないかと思う。彼女と私との共通の友達が、会話が途絶えていた1年の間にかなり増えていて、私が卒業する直前、その友達に彼女も含めて、計5〜6人でカラオケに行ったのが唯一のハイライトとなった。


 会話は復活したが、それでまた運転熱再燃という事には、流石にならなかった。傷心で迎えた前年の夏休み以降、何とか体調を立て直し、一時は坑鬱剤におんぶに抱っこの状態になりながらも、その後勉強への意欲も復活させ、学生生活最後の1年に気持ちを集中させようと頑張った。その過程で、『単発夢遊病』みたいな、よこしまな事を考えるのは、止めにしていた。もう現実から浮遊した発想を持つ事からは、卒業したのである。そしてその“卒業”が、確かなものである事を心に噛み締めながら、私は間もなく、大学も卒業した。


恋煩い解消、そののち


 免許を取ってから1年2ヶ月後、1996年6月に私は日本に本帰国した。それからしばらくは、遥か6,400km先の地で体験した恋の病の余韻が、こだましている感じであったが、もう一生会う事は無く、数ヶ月のちには、完全に泡と消えて過去のものになった。
 私は生涯経験した全ての恋において、最後は必ず、相手と物理的に縁が離れて、会わなくなって自然に忘れていく、という終わり方をしている。これは、10数年間に度々経験したどの恋を取っても、不思議なくらい同じパターンである。


 考えてみれば、いつまでもお互いの居る距離が近くて、いつバッタリ再会するか分からないという状況では、どの道忘れなくてはならないだけの恋心も、なかなか忘れにくいだろう。ましてや私は、どちらかというと気持ちの切り替えが下手なほうで、失敗などを引きずる傾向がある。そんな私にとって、いつも最後はヒョイと、互いの距離が離れる展開(終焉)になるというのは、何かの計らいなのかも知れない。引きずりやすい人がキッパリ気持ちを切り替えられる様に、何かが見てくれているかも知れないのだ。


 さて、帰国の際、一度は手放そうかとも考えた免許証は、結局持って帰ってきて、日本免許に切り替えるかどうか、検討する事にした。もう今更運転などに興味を示す理由は無く、もとより本当は運転に向いていなくて『危ないから、してはいかん!』と言われていた私としては、日本免許を取ったところで実際に運転する可能性はゼロであった。最初から免許なんて取らなかった事にした方がいいのではないか?ともかなり思ったのだが、父がどうしても切り替えろと言ってくるので、『言われたから何となく』という気持ちで切り替える事にした。まあ、確かに持っていれば、身分証明書として多用出来るから、何かと便利で助かるのは事実だ。


 日本免許には、1997年8月、期限が切れる直前の、ギリギリの時期に切り替えた。その前年の秋から切り替えのための検査試験を受けていたのだが、1年近くもかかったのは、実技試験をなかなかパス出来なかったからだ。その前に行われた筆記試験のほうは、ハワイで受けた時同様、一発で通ったが、実技は教習所にも何度か通うも、なかなか上達が出来ず、時期に余裕を見てスタートしたのに、終わってみれば期限ギリギリの、滑り込みパスだった。実技試験は回数のほうも、受けられるのは10回まで、という制限があり、自分は9回目でパスしたのだ。
 ともあれ、私は日本免許の結果的取得≠果たしたのだった。それも、自分の中では『運転をしないための』免許取得を・・・・・。
 それから約10年、やがては『史上最長のペーパードライバー』としてギネスブックに公認されるであろう私の免許証は、私が日本免許を取って半年後に亡くなった父も話していた通り、実に様々な場面で、『身分証明書』『写真提供ツール』として役立っている。


ハワイで免許を取った結果として、現在も持ち続ける事になった、日本免許。
写真は最初に切り替えた際に交付された物。ある意味記念物である。


終章


 2005年4月11日、免許取得から10周年を迎えていた。何の感慨も無かった。あの、地獄のように苦しかった、それも自分の心の煩い≠艪ヲに苦しかった1995年の事が、一瞬チラリと脳裏をかすめたか、かすめないか、という程度だ。
 ただ、その95年当時、私はよく、それより5年前に当たる90年の自分の姿とダブらせていた。大きな共通点がこの2つの年にはあって、いずれも年間を通じて、“片恋病”と闘っていたのだ。思えば、私が物心ついて初めて異性を意識したのは、12歳だった年の1985年である。この時はまだ子どもだったし、そんなに『悩む』までには至らなかったが(相手がすぐに転校していった事にもよる)、何故かいつも“5の倍数”の年なのである。
 「何か、嫌な感じのパターンだな・・・・・。」と、ハワイで免許を取る前後の自分は、しばしば思いを抱いていたものだ。
 なるほど。よく考えてみれば、最後に私が、短期間でも特定の異性を意識したのは、26歳だった2000年の前半頃と記憶する。だが、どうやらその時限りで、この奇妙なパターン≠熄Iわりを告げてくれたようだ。


 今日も私の財布には、皮肉の香りも残る運転免許証が、毎日携帯されている。あの、21歳の若かりし男≠セった自分の、『想定外ナンバーワン』とも言える方針転換と、それを行動に移してしまったという体験。そして結果として味わった、“ある意味”人生最大の皮肉を今に伝えるかのように、運転免許証は私の財布にしっかりと入っているのである。
 車のハンドルを握れば、今でもきっと思い出す。あの、運転を始めたきっかけを・・・・・。またあの、『気恥ずかしさ』が蘇ってくる。
 が、その一方で、私はこれまで何度か男として、車の運転が出来るか出来ないか≠ニいうテーマと、真剣に向き合った事もあった。

 
 「彼女から『ドライブに行こう』と誘われて、運転が出来なかったらダメだ。」 と、言われた事がある。
 「女性は、男がどんないいセンスの車を持っているかで、男を選ぶ。」 と、聞いた事がある。
 「彼女とデートに行く時、車で送り迎えが出来ないと、デートとしてパッとしない。」 と、思った事がある。


 運転が出来るかどうかという事自体は、最早論じられる問題にもならない、という現代の空気を、私もこの時代を生きる者として感じ取った事があるのは、紛れもない事実だ。それでも、無理に運転をして事故を起こし、相手に被害を与えてしまっては、元も子もない。それこそ、重大な責任問題に発展する。
 だから私は、車のハンドルは握らない。危険を押してまで無理をしないという以上に、過去に引き戻された気分にならないためにも、車のハンドルは生涯、絶対に握らない。
 恋だけを意識して下手な行動に出たが最後、どの様な気分を味わう事になるのか。身をもって経験した以上は、一生その教訓を忘れないで生きていく事を誓う。


 大人の男≠ニして車を運転し、颯爽と人を乗せて走る、という光景は、永遠に私の心にしまい込まれた、『未完の夢』・・・・・。


(完)


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