【メモリアル】マイ バースディ
〜ただ一度、日付変更線を越えた誕生日〜

1990年、七夕の日に
突き付けられた、英語力の壁
Surprised!!!Happy Birthday to you♪
ニックネームは、『Birthday Boy』 サプライズがもたらした効果
日付変更線を越えた誕生日

※印刷をして手元で読みたい方は、Word版をどうぞ(写真は割愛しております)



1990年、七夕の日に


 17歳の誕生日を10日後に控えていた、1990(平成2)年7月7日、私は、高校の夏休みを利用して、アメリカのある高校へのサマースクールに旅立った。場所は東海岸のマサチューセッツ州。ニューヨークの北東方向に位置する州で、ボストンが州都である。
 マサチューセッツ・・・・・、ボストン・・・・・、地名こそ学校の地理の授業などで何回も聞いた事があったとはいえ、遠いかなたの地で、私は最初、大阪空港で飛行機に搭乗した瞬間も、自分がそんなとこまで行くとはピンと来なかった。アメリカなら中学2年の冬、西海岸に旅行に行った事があったが、今回の東海岸というのは、それより約6,000km(ぐらいかな?)向こうになるわけで、かねてよりアメリカの存在は身近に感じていた私も、いざ実際に現地に向かうとなると、とてつもなく遠い旅であった。


 途中、シカゴで飛行機を乗り換えたのだが、あのシカゴ空港というのが、忘れもしない、巨大で迷路のような空港だった。私は単身、まだ英語力もおぼつかない中、次の飛行機の搭乗口を探してさまよい歩き、途中、何人かのスタッフにルートを尋ねるも、それぞれが少しずつ違う行き方を案内してくるので、余計にパニックになったのを今でも覚えている。
 今から思えば、「ちゃんとスタッフ同士で、案内の仕方を統一しておけよ。」という話になるが・・・・・。ただでさえ、あんなマンモス面積の空港なのだから。
 そんな、ドタバタ劇も体験しつつ、乗り換えを含めて約15時間のフライトの末、ようやくボストンに到着した。空港の到着すると、これから滞在する高校の職員が、迎えに来てくれていた。そして同時に空港に着いたサマースクール参加者は実はかなりおり、各々バスに分乗して高校へと向かったのだが、そのバスというのは、迫力満点のゴッツイ観光バスで、およそ日本では考えられないスピードで高速道路を飛ばすこと実に4時間以上、予想をはるかに上回る距離を走って、ようやく高校に到着したのだった。


 何もかも初めての体験だった。知り合いの一人もいないところに、一人だけでやってきて、さすがに落ち着かない心境ではあった。日本から、一体どれだけ離れたところに来たのだろうなぁと、時差ボケもあってポ〜ッとなっていた。
 これから約45日間、ちょうど一月半ぐらいを、この地で過ごすことになるのだった。とりあえず、高校に到着すると寮に案内され、私は生まれて初めての寮生活を体験することになった。


 この寮が、私の生涯にとって最も忘れられない誕生日の舞台となろうとは、この時点では想像もせず・・・・・。


突き付けられた、英語力の壁


 マサチューセッツの高校に着いて数日後、クラス分けテストが行われ、いよいよサマースクールが始まった。クラスは英語力別に、レベル1〜レベル20まで分けられ、レベル20が一番上で、1が下となった。私はレベル6に入ることになり、下から6番目のクラスであった。なるほど、みんなはもっと英語が上手いのだなと実感したが、別に大きくは気にならなかった。それでも、始まって何日か経つにつれ、クラスでの勉強、寮での生活ともに、英語力の壁を激しく突き付けられるような格好になっていった。特にそれを痛感したのは、寮に居た時である。クラスにいる時は、周りも基本的に同じような英語力の人が集められているので、まだ付いていけた。しかし寮のほうは、英語力別に入れられていたわけではなかったので、英語がバリバリ上手い人が何十人もいた。ルームメートもかなり上のほうのクラスで、彼は一生懸命話しかけてくるのだが、こっちは「え?」「あ?」「もう一回。」の繰り返しで、かなり相手をイライラさせてしまう事態も出てきた。そして放課後の、いわゆるオフの時間、みんなとてもフレンドリーだったので、私にも声をかけてきたのだったが、そこでも私はハッキリしない生返事がほとんど。何かからかわれたりしても、全然意味が理解出来ないので、困惑顔を浮かべていると、余計笑われたりもした。
 根は内向的な性格の私だったが、せっかく一生に一度あるかないかという、サマースクールを体験しているのだから、出来るものなら友達も作りたかった。しかし、英語力がネックとなって、なかなか周りとのコミュニケーションは捗らなかった。


 「まあ、この調子なら、恐らく誰にも覚えられることも無く、ろくに会話をする気も無いヤツと思われて終わりだろうな。」
 私は、やや落胆しながらそう思った。寮の管理人としゃべっている時も、やっぱり聞き取り理解がチンプンカンプンなため、度々きつい口調で、「You understand?」と訊かれ、私が中途半端に「Uh・・・・・、yes.」と言いながら、明らかに『分かっていません』という様な顔をしていたため、そんな私の態度を見て、また周りが面白がる、なんてことがあった。
 そんな、気が晴れない心境が続いたまま、気が付いたら10日が過ぎていた。思いのほか長い10日間だった。


高校2年の夏を過ごした、Cushing Academyのキャンパス風景。
広大な芝生に、豊かな木々。日本人の私から見れば、
およそケタ外れの敷地面積とスケールを誇る学校であった。



Surprised!!!Happy Birthday to you♪


 7月17日21:30頃・・・・・、
 私が寮の2階にある自分の部屋に居たら、管理人の人が私の部屋にやってきた。ルームメートは不在で、私一人がいた。
 「ちょっと下のミーティング室まで来なさい。急いで!」
 管理人は私を見るなり険しい表情をして言った。その緊迫した表情から、私は「何かあったのか?」と察した。管理人はかなりイラついている様子で、私が自分のスピードで歩いていこうとすると、
 「コラ!もっと急いで。速く歩け!」と催促、さらに「お前、全員に集合をかけたのに、何やってたんだ。呼ばれたの、聞いてなかったのか?」と、怒った調子で訊いてきた。私がすっかりうろたえてしまって、「い、いいや、全然・・・・・」と言うと管理人は、「あー、もういい。」と一言。そうこうしている内にミーティング室の前まで来た。と・・・・・、


 扉の窓ガラス越しに、中に人が集まっているのが見えたのだが、みんな笑っているのである。私を呼びに来た管理人は、いかにも深刻な事態が生じたと言わんばかりの表情をしていたのに、ミーティング室の中にいるみんなは、予想に反してずいぶん楽しそうだ。ハテ・・・・・?
 と思った次の瞬間、前を歩いていた管理人がサッとドアを開け、続いてすっかり早足になっていた私が入る。


 「Surprised!!!!!」パチパチパチパチ(←拍手)・・・・・、Happy Birthday to you♪♪・・・・・


 「えっ?」 私は一瞬何がどうなっているのか分からず、唖然としていた。そしてようやく事態を飲み込んだ時、本当に「驚いた〜!」と感じた。
 「ああそうか。そういう事だったのか。そういえば今日は17歳の誕生日だった。でも、もうすっかり忘れていて、今初めて思い出したという感じ。何より、まさかこんな企画をしてくれていたとは、全然気が付かなかった。」


 みんなが声高らかに誕生日の歌を歌っている間、私は静かにそう思っていた。そして歌が終わるとまたそこで拍手。目の前のテーブルには、全員分の大きなケーキと、飲み物が置かれていた。完全にパーティーであった。
 私は照れくさそうにハニカミながら、手を振ってみんなの祝福に答えた。出来るだけ笑顔を振りまいたつもりだが、それでも緊張で少々固くなっていたかも知れない。
 「Thank you,Thank you!」と、小さくはあったが声に出し、続いて、先ほど部屋に私を呼びに来た時とは別人のような表情になっていた、寮の管理人に、『どうもありがとうございます。』と、目であいさつをした。


 「Speech.Speech.」 と、誰かが言った。
 「Oh,yeah!Speech!」 と、さらにみんなの声が続く。私は一言スピーチをすることになったが、急に気の利いたいい言葉が出てこなかった。英語力も怪しかったし、下手にいろいろ話そうとすると長くなって、場が白けてしまう。ここは一つ、簡潔に短く括ることが必要だと思ったが、そうなるとこれまたパッと言葉が出てこない。結局私は、
 「Thank you for welcoming my birthday.」と言い、少し間を置いて、「Very surprised.」と言うと、みんなドッとウケた。多分みんな私が現れる前から、驚く姿を想像していたのだろう。
 管理人さんが、「OK.Let’s eat.」 と音頭を取り、みんな私と乾杯した後、アメリカらしいゴッツいサイズのケーキに、舌鼓を打った。20分ぐらいだっただろうか。みんな食べや喋れやのパーティーとなり、その後は、時間も22:00を回ったので解散となった。
 部屋に戻る時、またみんなが口々に、「Happy birthday.」と言って握手を求めてきた。私は「Thank you.Thank you.Very happy.」と言葉を返しながら、お礼の気持ちを込めて握手をした。


 部屋に戻り、何ともいえない充実感と喜びがにじみ出てきた。と同時に、
 「いやぁ、オレ、すっかり騙されてしまったなあ・・・・・。」
 管理人が私を呼びに来た時、私は本気で、何か深刻な事態が起こっていて自分だけ気付いていないのだと思った。元より私は人より神経が鈍く、感度が乏しいヤツだったから、なおさらであった。人と同じくらいに努力をしていても、いつも自分だけ気付くのが遅く、読みが鈍いから、そんな自分に対する失望感が、私の人生の基盤としてあったのだ。
 今回もまた自分だけ遅かったか、と思ったものだから、ミーティング室に入って、いきなり「Surprised」ときた時、私は本当に心底ビックリしたのである。そもそも、誕生日にサプライズというのは、生まれてこの方体験したことが無かった。だから、この様な祝われ方があるというのも、想像つかなかった。


 このパーティーを企画してくれた管理人には、心から感謝した。何となく気難しそうだという印象も無いではない管理人だったのだが、この時を境にすっかり打ち解け、あいさつもしやすくなった。それにしても私は思った。
 「本当に演技が上手いな。歩き方までバッチリ演技していて、俳優になれるんじゃないのか?オレは本当に怒られると思ったぞ。」


『メモリアル マイ バースディ』の舞台となった学生寮。
寮の名前は『クック(Cooke)』、私の部屋は3階にあった。
ここに再び行く事は、恐らく無いであろう・・・・・。



ニックネームは、『Birthday Boy』 サプライズがもたらした効果


 感激のサプライズパーティーの翌日、朝寮から学生食堂に向かおうとすると、何人かの人と会った。私は相変わらずのたどたどしい英語で、
 「Thank you for yesterday.」と言ったのであるが、それより早く、
 「Hey,Birthday boy!」と、相手は言ってきたのである。一人だけではない。私に会う人会う人、次々と、まるでそれがあいさつだと言わんばかりに、「Birthday boy!」、「Birthday boy!」・・・・・。何だか私はそれですっかり有名人みたいになった。
 でも、気分は良かった。つい2日前まで、私は毎日悶々としていたのだ。なかなか周囲とコミュニケーションが取れない。自分が壁を作っているような状態だから、なかなか周りも自分には打ち解けてくれない・・・・・。16〜17歳という、思春期ならではの対人意識、対外意識というのもあったと思う。この頃は、一番自分に自信を持てない時代だったから・・・・・。
 それが、サプライズパーティー≠ナ、一気に流れが変わった。結果的に自分が『話題の人物』という格好になったことによって、周りのほうからどんどん親しげに声をかけてくれるようになった。特に、ニックネームが付くと状況が変わる。やはりニックネームというのは、親しみの象徴でもあるから。どんなニックネームでも、あるのと無いのとでは、当人に対する周囲の印象が大違いなのだ。  私は今でも、ニックネームが付いている人のほうが、何となく安心して接することが出来るように思うところがある。もしかしたら、それはこの時の体験が原点になっているのかも知れない。これ以前にもニックネームをつけられていた経験はあったが、やはりこの時が、一番付いて有り難かったニックネームであったと、今でも感じている。


 寮の何人かが他の人に話したからであろう。違う寮の人からまで、「Hey Birthday boy.」と声をかけられるようになった。私は何だか照れくさくもなったが、それでも自然と笑みがこぼれるようになり、2日前までの暗そうな表情は、完全に過去のものとなっていた。
 一月半という短期間の事とはいえ、知っている人が誰もいない異国の地で過ごすというのは、それなりの心細さというのも出てくる。ことに言葉が満足に理解出来ない状況では、なおさらである。そんな時、何より励みになるのは、やはり自分に声をかけてきてくれる友達が出来ることだろう。そのための切っ掛けというのが、なかなか無かったのであるが、ちょうどサマースクール開始1週間後が誕生日というタイミングだったことが、大きな切っ掛けとなるという、何とも幸運な巡り合わせとなった。
 
この時に出来た友達はいずれも外国人だったが、英語により慣れるためには、これは大変プラスになる。のちに私は4年間、アメリカ(ハワイ)の大学に留学することになるが、この時の体験が敷布となったと言っても過言ではないだろう。


 サマースクールの期間は、誕生日の後、丸1ヶ月ぐらいあったので、さすがに最後のほうでは、私のことを『バースディボーイ』と呼ぶ人はいなくなったが、2〜3人、帰国前夜のファイナルパーティーの時にも、「Hey,Birthdai boy.」と呼んできた人がいた。これには私もビックリして、「もう終わったよ。」と、思わず照れ笑いがこぼれた次第である。そして、日常的に周りと声を掛け合うという関係は、最後まで続いてくれた。


 1990年7月18日、この日は、前日の誕生日に続いて、忘れられない思い出の日となった。


ダイニングルームのある建物を望む。上の階は寮になっていた。
写真は誕生日翌日、『Birthday boy』呼ばれた最初の日に撮影。
上の2枚の写真も、同じ日の撮影である。



日付変更線を越えた誕生日


 17歳になった夏の最大の思い出となったサマースクールは、誕生日から一月余り経った8月20日頃、終わりを迎え、私は日本に帰国した。現地を発つ前、私は『サプライズ』以降仲良くなった何人かの友達の住所を手帳に控え、その後しばらくは、手紙や国際電話のやり取りをしていたと思うが、さすがにあれから16年が経った今、交流が継続している人は一人もいない。
 生涯初となった『サプライズ!』の誕生日パーティーだが、このような体験はその後は一度もする事が無く、恐らくこの17歳の時が、最初で最後の体験になるのではないか?と思う。そして実はもう一つ、これは帰国後に気が付いた事なのであるが、私は生涯初の、そしてこちらも恐らく唯一となるであろう体験をしていた。
 それは、『誕生日を、日付が変わる時差のある国で迎えた』という事である。


 これまで私は、日本以外に、中国(北京)で誕生日を迎えたことが3回あった。しかし、中国と日本は時差が1時間しか無いため、日付が変わる事は夜中の1時間以外に無く、実質日付差≠ヘ無いということになる。アメリカは違う。正確に何時間だったかは忘れてしまったが、太平洋上の日付変更線を東に向かって越えるため、日付が1日さかのぼる事になるのだ。これは逆の言い方をすれば、アメリカにいる時は、日本では既に翌日になっているという事で、私が『サプライズパーティー』で感激していた現地時間の7月17日、日本では既に7月18日になっていたのである。
 もし日本時間を基準に考えるならば、この年だけ私の誕生日は、1日ずれて7月18日になっていたとも取れ、本来誕生日が変わる事は有り得ないはずであるのが、例外的に変わっていたという面白い話になる。あまり実感はわかない“例外”であるが、今ふり返ると何ともユニークな例外だと感じる。


 私は今でも誕生日が来ると、あの、アメリカでのサプライズバースディ≠思い出す。人生で一番華やかな、思い出の誕生日。しかし、向こうの時間に照準を合わせようと思ったら、日本では7月18日にならないと、その思い出のサプライズ記念日≠ノはならないのである。これもまた不思議な感じがするが、時差の存在が成し得る、一つの“芸当”と言えるのかも知れない。
 ところで、先ほど私は、「4年間、アメリカの大学に留学した。」と述べたが、誕生日は、ちょうど夏休み期間中とあって、毎年日本に居た。そして留学から帰国後は、日付が変わるほど時差のある外国には、一切行っていない。


 1990年、この年は、日本では花の万博(花博)が、地元大阪で開催されていた年。しかし私自身にとっては、一年を通じて、自分の事、そして異性の事ですごく悩み、暗い気分で、精神的にもかなり老け込んだ年であった。それだけに、あのサプライズパーティーが、せめてもの光明となった。苦しい青春時代の真っ只中にあっただけに、大いに励みとなる出来事になったのだ。
 そんな、17歳の誕生日は、ちょっと他とは違う、ユニークな誕生日。それは、はるか東の彼方へと、日付変更線を越えた誕生日・・・・・・。

(完)


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