1985年4月号(NO.114)
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阪急沿線、1985年4月号
1980年代、私の毎月の楽しみの一つは、この阪急沿線というパンフレットを集めることでした。
私の実家の最寄り駅であった豊中には何故かあまり置かれておらず、主に石橋駅で取っていたのを
思い出します。85年頃は、表紙が『突然ですがハイチーズ』のシリーズ、裏表紙は、駅の今昔
シリーズでした。そして、下2枚の画像ですが、先ず右側、この時は、85年3月に行われた、
810系のさよなら運転のニュースが載っていました。この車両、私も今津線や伊丹線で乗りました。
左側の画像では、車窓クイズと質問箱が、これもシリーズで載っており、私も車窓クイズは何回か
当てたものでしたが、残念ながらプレゼントの抽選からは全て外れました。


1986年3月号(NO.125)
阪急沿線、1986年3月号
1986年3月に発行された、第125号です。ちょうど、私が小学校を卒業した時に発行された
この号では、表紙が塚口駅での『ハイ!チーズ』となっています。そして写っているのは、
恐らく中学1年生ぐらいではないかと思うのですが、詰め襟の制服が、時代を物語っていますね。
そして下の画像を見てもらいますと、まず右側に『駅別乗降人員表』と書かれています。
何号かに1回、阪急沿線では、各駅の乗降人数のランキングを発表していました。ちなみに
私の地元、豊中駅は、いつも13位だったような(84駅中)・・・・・。そして左側では、『阪急ブレーブス
50周年ファンクラブ&こども会入会受付中』と案内されています。そう。当時はまだ『阪急』ブレーブス
でした。オリックスに身売りしたのはこの1年後でした。この時が最後のイベントだった感じです。


1988年11月号(No.157)
阪急沿線、1988年11月号
1988(昭和63)年11月に発行された157号では、表紙(画像上左)が、
『さようなら阪急ブレーブス、長い間のご声援、ありがとうございました。』となっています。
そう、ちょうど昭和時代が間もなく終わろうとしていたこの時、『阪急ブレーブス』は、50余年に
わたる歴史に、幕を下ろしたのでした。思えば物心のついた頃より、プロ野球にはあまり興味を
持てなかった私も、我が地元の代名詞=w阪急』と名の付く球団がある事は知っていました。
そして一番親しみを感じていたものです。その阪急の球団が姿を消す。同時に南海も姿を消すと
聞き、大きな時代の動きを感じると共に、ある種の寂しさも覚えました。さて、その他の、この号の
トピックはというと、新潟行き夜行高速バス『おけさ号』の運行開始。この頃は、夜行バスが一番
輝いていた時代でした。そして、現在でも宝塚線では最新系列になっている、8000系車両の
登場。車内外とも、およそ28年ぶりに大きくモデルチェンジを果たし、話題を一身に集めたこの
8000系。運行開始約1週間後に、初めて乗った時の印象は、今でもよく覚えています。


1989年7月号(No.165)
阪急沿線、1989年7月号
1989(平成元)年7月に発行された、第165号です。まず表紙の画像ですが、
右上に、『花の万博を成功させよう。』と書かれています。この年は花博の前年で、
街中至るところで、花博をPRする看板や文字が見られたものでした。これも時代を
物語るものとして、懐かしいですね。長年続いた刊行物『阪急沿線』も、この頃、終盤を
迎えていました。そして下の画像です。目に止まるのは、『1010系・1100系さよなら
記念部品セールの販売』というニュースです。そう。今でもハッキリと記憶していますが、
この年の3月、阪急電鉄の初期高性能車両で、片開き扉の1010・1100系が引退
したのでした。独特の丸っこいスタイル。いかにもモノコックな感じのするこの形が、
私は大変好きでしたので、引退する時には大変寂しい思いでした。それこそ、
連日のように乗りに出かけたものです。これも古き良き青春の思い出ですね。


1989年5月号(No.163)
阪急沿線、1989年5月号
1989(平成元)年5月に発行された、第163号です。一つ上の165号と同じく、
表紙には『花の万博を成功させよう。』の文言が書かれています。桜並木の写真は
なかなかきれいですね。この時から20年目に入ってい今でも、見られるのでしょうか。
さて、注目すべきは下の画像ですが、先ず右側、高槻市駅の高架化工事が半分完成
したという記事が書かれています。高槻市も、茨木市も、そして地元豊中市内の各駅も、
私は地上駅時代をよく覚えています。私の中で、一番古い『高架化工事』は、池田
ですね。まだ半分は地上である高槻市駅が非常に懐かしいです。左側の画像では、
身障者用トイレの写真もあり、今で言えば『バリアフリー情報』となります。三宮駅は、
現在ではエレベーターもありますが、エスカレーターも平成時代になってから出来た
のですね。また、十三のエレベーターもこの時期に出来たのだと、改めて知りました。


1984年2月号(No.100)
阪急沿線、1984年2月号
1984(昭和59)年2月号で、ちょうど創刊100号の記念号でした。この当時の阪急沿線冊子は、
そののちの物よりも大分異なっており、紙は普通の厚紙仕様、毎号全体が一つのカラーで統一されて
おり(この号の場合は青)、ページ数も僅か4ページでした。つまりずっと簡素だった分けで、デザインや
字体も大きく異なっていたのですが、これが初期のスタイルでした。そしてこの号の表紙と特集を飾って
いるのが、6300系6330編成の登場です。この時はデビュー1ヶ月目で、阪急の最新鋭車両であると
同時に、まだまだ6300系が阪急の花形として君臨していた、同系の全盛期でした。今、6300系は
末期を迎えつつあり、この写真を見ると感慨深いものを覚えます。そしてもう一つのページでは、運賃
値上げのお知らせが掲載されているのですが、初乗りが80円→90円とは、まだまだ安い時代ですね。
なお、画像の冊子自体は、最近、オークションで再購入した物で、元々持っていたのは紛失しました。


1983年3月号(No.89)
阪急沿線、1983年3月号
1983(昭和58)年3月号です。この号の表紙を飾ったのは、今は無き宝塚ファミリーランドです。時に閉園
丁度20年前。当時は繁栄を極めていました。掲載されている写真は全て電車館(後に『のりもの館』と改称)
ですが、これこそまさに私の記憶に残る電車館で、屋外には旧1形の保存車両が展示されていました。宝塚ファ
ミリーランドについては、閉園直前に行った時の記録をこちらのページで公開しております。こうして活気溢れる、
展示物も充実した光景を見ると、また行ってみたくなりますね。さて、左の画像で登場しているのは、これまた
今となっては思い出の遊園地、神戸ポートピアランドです。1981年の神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア
81)に合わせてオープンしたポートピアランド。この時はまだ開園して2年で、新進気鋭の遊園地でした。宝塚
ファミリーランドが『宇宙大作戦』なら、神戸ポートピアランドには『魔法のカーペット』が登場。話題を二分してい
ます。本当に、両遊園地の華やかなりし時代が偲ばれ、どちらとも縁が有った私にとっては懐かしい限りですが、
神戸ポートピアランドは2006年3月31日限りで閉園されました。残念ながら、手元に写真は残っていません。


1983年4月号(No.90)
阪急沿線、1983年4月号
1983(昭和58)年4月号です。この号では、懐かしい山陽電鉄への乗り入れ区間の様子が表紙を飾って
います。一番下の写真は、山陽電鉄乗り入れ開始(神戸高速鉄道開業)時の祝賀列車ですが、この号の
時(83年4月)が、丁度乗り入れ開始15周年だったので、掲載されています。これより丁度15年後に、
須磨浦公園までと六甲までの乗り入れは廃止されましたので、この時が丁度折り返し時点だったことになり
ます。白黒なので塗色は分かりませんが、山陽電鉄もこの当時は旧塗装で写っております。さて、左側の
ページですが、小さくて見にくいでしょうが、一番右上に、『駅ホームのベンチが全駅統一されました』という
写真入りニュースが書かれています。現在のベンチは、これよりさらに2代後の物となりますので、非常に
地味な話題ではありますが、思い返せばこのベンチにもよく座ったもので、懐かしいです。また、左上には
『冷房改造車38両計画』という記事が書かれていますが、これもまだ全車が冷房車にはなっていなかった
時代を偲ばせています。全車冷房化は、これより3年後に達成しました。



大阪市交通局ニュースNO.75(1976年3月発行)
下側の画像をクリックすると、次の大阪のあしの画像へ行きます。

大阪のあし、No.75
1980年代前半、ちょうど『阪急沿線』を収集していたのと同じ時期、私は、大阪市交通局の
ニューズレターにあたる、『大阪のあし』も収集していました。この画像は1976年3月に
発行された物ですが、その当時はまだ収集しておらず、1983年頃に、梅田駅の駅長室
に行って、バックナンバーをもらってきた内の一つです。この号では、営業開始となった
直後の、御堂筋線の10系車両の紹介がされています。左上、表紙の写真に写るのは、
今は無き、試作車両の先頭車です。まだ字幕も白地に黒文字、そして私も記憶にあるのですが、
座席も、当時の主力車両30系と同じ、赤色でした。左下の写真には、普段は見られない正面
貫通扉が開いた状態や、冷房化される前の車内天井部も見られます。一方、右上では、
『大阪南港に新種交通システム』と題して、想像図が載っていますが、今のニュートラム
の事です。この頃、初めて公開されたのですね。『新種交通』という表現が、何とも面白いです。


大阪市交通局ニュースNO.89(1983年5月発行)
『大阪のあし』第二弾は、1983(昭和58)年5月に発行された、No.89です。
この83年5月というのは、『大阪市営地下鉄開通50周年記念』で非常に盛り上がった
時期で、正確には5月20日が、50周年記念日でした。私は当時記念キップを購入し、
また、テレビで放送されていた、『ゴーゴー地下鉄!50年』というシリーズ番組を、
毎回見ていたのを覚えています。当日、地下鉄開通50年を取り上げた新聞記事も
切り取って保存していたのですが、現在は紛失してしまいました。この『大阪のあし』でも、
地下鉄50年のあゆみと称して、当時から見ても非常に懐かしい写真や、何ヶ所かで
行なわれていた記念イベントの案内が書かれています。表紙の写真は、ファンの間では
有名な、『牛に引かれて100型登場』の場面ですね。昭和8年に撮影された物です。


大阪市交通局ニュースNO.66(1973年2月発行)
これは、私が所持している『大阪のあし』の中でも最古の物で、私が生まれる5ヶ月前の、
1973(昭和48)年2月発行です。ここでは、市バスの塗装変更がニュースになっています。
左上の写真に写っているバスの塗装が、当時の新塗装なのですが、これは私にとっては、
市バスの初代塗装に当たります。現在から見ると、先代の塗装という事になるこの塗装は、
それまでの、モスグリーン系の地味で濃い色から、一気に明るいトーンの色に変わったと
いう事で注目されたのですが、その理由が、『スモッグで、濃い色は隠れて見えにくいため、
遠目にも分かりやすい色に変えた』というところに、当時の時勢がよく窺えます。その他、
バス専用レーン初導入のニュースや、『お年寄りやご婦人のために低床バスを増加した』と
いう、現在のバリアフリー情報の先駆けの様なニュースも見られました。ただ、『障害者
のために』とは、どこにも書かれていないですね。さて、右上の写真のページでは、のちの
ニュートラムに当たるシステムが、『ゴムタイヤによる新動力方式』として紹介されています。


大阪市交通局ニュースNO.118(1993年7月発行)
私が収集した最後の『大阪のあし』で、大阪市交通局開業90周年の記念号です。表紙を
飾っているのは、大阪の鉄道ファンの間ではつとに有名な、大阪市電の2階建電車ですね。
明治末期に走っていました。私にとっても、二十歳になった『節目』の時期である93年の夏。
大阪市交は地下鉄において、激しい車両置換の真っ最中でした。まさに1969〜72年以来と
いう大規模な“車両異動”が行われた時期で、加えてニュートラムでも、初期車両の置換が
始まっていました。丁度留学先から一時帰国していた私は、各線区の廃車間近の車両を、
忙しく乗りに回ったものです。『一日乗り放題』券を買って、バス共々乗車しました。因みに
バスのほうも当時、モノコック車両が全滅間近になっていました。市営交通90年の歩みが
全ページに亘って書かれているこの号。年表の最後の記述は『90周年事業の実施』ですが、
その一つであった市電保存車両公開に行き、表紙の2階建市電の実物を見てきました。



『大阪物語』パンフレット 劇場公開:1999年3月 
  
1999(平成11)年公開の、映画『大阪物語』を鑑賞しました。当時私は、自分自身が役者になる事を夢見て俳優養成所に在籍しており、この映画も、実は同じ養成所の事務所の人から、「先輩が何人か出演しているから」と、鑑賞を勧められました。チケットも、事務所で購入したと思います。さて、この映画、ヒロインは当時まだ高校生だった池脇千鶴、そしてその両親を演じていたのが、実生活でも夫婦の沢田研二と田中裕子でした。実の夫婦が夫婦役ってどんなのだろうと思いましたが、さすがお互いプロ。照れは感じられなかったですね。映画の中では離婚していましたけど(笑)。ただ離婚はしても、元々夫婦漫才をやっていてコンビは継続。しかも元旦那は、新しい結婚相手と、前妻のすぐ近くに住むという、まぁ・・・・、映画ならではのお笑い的オチでした。池脇千鶴は大阪出身なので、関西弁は素で自然でした。大阪が舞台ですが、やはり北摂地域は出てこなかったですね(汗)。監督は市川準。市川準といえば、1995年に東京兄妹(主演:緒方直人、粟田麗)を撮った事でも知られていますが、実際、大阪物語は、東京兄妹の大阪版という見方も多くなされていました。ある映画関係の本でも、『タイトルだけ見ると、大阪物語の東京版は東京物語だと思うが、この2つの映画は時代も作風も丸で違うから、比較対象には出来ない。寧ろ、同じ市川準監督の作品である東京兄妹の方が、作成時代も近いし、作風にも共通性がある』と書かれていました。下町情緒たっぷりの大阪物語を観た後、私は東京兄妹も見ようと思いました。しかし、時期を逸して結局見ずじまいのまま、現在に至っています。



『スタートレック5』パンフレット 劇場公開:1989年6月 
1989年公開の、『スタートレック5 新たなる未知へ』のパンフレットです。これはスタートレックの初代のキャスティングによる映画シリーズ6作品の内の5作目で、私は4作目に続いて映画館に観に行きました。私は何を隠そう、トレッキーです。トレッキーというのはスタートレックファンの事で、現在でもスタートレックは、新しいキャスト、新しい設定で作品が誕生していますが、私の場合は専ら初代の、『宇宙大作戦』シリーズのクルーによる作品のファンなのです。映画も全作品観賞し、後半3作品は映画館で観ましたが、ここで紹介する第5作は、ハッキリ言って「期待外れナンバーワン』、話の筋もあまり面白くなくて、ガッカリしてしまった作品です。実はこの一つ前の第4作が最高に面白くて、今でも私が見た全映画の中でベスト3に入っています。そして第4作は、第2作→第3作から続きの物語で、言わば3部作となっていた訳ですが、私はこの3部作が特に大好きで、重厚感やヒューマンドラマを感じます。それだけに、この第5作と、次の第6作でも感じた“落差”は残念でなりません。第5作は、カーク提督役のウィリアム・シャトナーが、初めて監督を務めた作品としても知られています。当たり外れはありましたが、やはり私は今でも、初代クルーによるスタートレックシリーズが大好きです。



『真木栗ノ穴』パンフレット 劇場公開:2008年10月 
 
2008(平成20)年10月に公開された映画、『真木栗ノ穴』です。公開当時は、私はこの作品を知りませんでした。2011年10月、深夜にテレビで放送されているのを偶然見たのが切っ掛けで、この作品に注目するようになりました。一見して不思議な作品です。どこまでが妄想でどこまでが現実か。主人公の男(演:西島秀俊)は、隣室を覗き見出来る『穴』を通じて、隣室に引っ越してきた女性(演:粟田麗)の虜になるのですが、女性の存在はおろか、『穴』そのものも、実は存在していたかどうか怪しいのです。最初は確かに存在していた。しかしいつの間にか、穴の向こう側の、今までと同じ様で何かが違う世界に迷い込んでしまい、その末に・・・・・。見ている私も、最初は何のからくりにも気付かず一緒になって穴を覗き、見終わった後は、見る前とは違う世界に来ていた・・・・・そんな気分にさせられました。実際、私の人生に於いてある一つの変化が生じ、具体的にはライフワークが一つ増えました。この作品でヒロインを演じていた、粟田麗という女優のファンになり、以後、彼女の出演作品には毎回足を運ぶ様になったのです。粟田麗が出演している率が高いということから、深川栄洋監督も自分の中で印象の強い存在となり、深川作品にも関心を寄せる様になった次第です。この映画、実は最初にテレビで見た時は、少し見てすぐにテレビを消そうと思いました。しかしリモコンの電源ボタンの上に手を置いた瞬間、画面が変わって見たことのない女優が大写しになり、思わず見入って暫しリモコンを持ったまま画面を見つめ、気が付けばリモコンをその場に置いて最後まで見たという結果になりました。そして翌日以降、私は前夜まで知らなかった女優の出演作品を次々と調べ、出演情報が載っているサイトも日常的にチェックする、いちファンとしての人生を送るに至ったのでした。



大阪モノレール開業案内
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1990年6月1日、千里中央−南茨木間に大阪モノレールが開業しました。
その、開業を案内するパンフレットです。そう、90年は大阪モノレールが
開業した年でもあったのですね。開通当時の時刻表や料金表も載っています
けど、本当に懐かしいですね。ところで私は一つ、非常に悔いている事が
ありました。それは、90年6月当時、大阪モノレール開業の記念乗車券が
販売されていたのに、何故か買いそびれてしまった事です。地元で初めて
新規に開業した鉄道。買っていれば、きっといい記念になっただろうに、と
思い、残念がっていたのですが、のちにYahooオークションで購入しました。


Attention(アテンション)1980年NO.11
これは『Attention』という名前の冊子で、かつて大阪空港バス車内の、座席背面のポケットに
置かれていました。時代は、私の記憶の限りでは1970〜80年代ですが、現在も置かれているのか、
詳しい事はよく分かりません。全部で40ページの冊子で、毎月発行。空港バス沿線に因んだ話題の
ほか、各種広告などが掲載されていました。これは1980年11月号で、右の画像が表紙に
なりますが、美しい紅葉の写真が、全面を飾っています。そして左画像が最後のページになるの
ですが、最後のページでは毎号必ず、『大阪空港バスごあんない』として、各路線の所要時間と、
基本パターンの運行ダイヤ、始発・最終の時刻、それに乗り場の場所の略図が載っていました。
そしてその右横の、空港バスの写真が、当時の私のお目当てで、毎号、色々な車両の写真が
載っているのを見るのが楽しみでした。実際には毎号は見ておりませんが、70〜80年代は、よく
空港バスを利用していたので、この冊子を見る機会は多く、度々持ち帰っていました。現在、手元に
残っているのは、この一冊のみ。しかも写真で載っている空港バスの車両が、恐らく80年代始め
には消えたであろう、非常に懐かしい形式のものなので、貴重な一冊となっています。写真の
空港バスは、ナンバープレートから判断して、1967年製の車両だと思われます。



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