舞台『おまつりのヨル』回想
〜あの役に込めた思い、そして青春の千秋楽=`

序章 −夢は形を変えて−
物語・登場人物紹介・・・・・博一=主人公、らん子=博一の妻=主人公博行=博一の長男
初稽古での演出家からの第一声:「代わりはいくらでもいるんやぞ」
想像以上に“重かった”、長男・博行へのセリフ
『子どもとのコミュニケーション』ということ
『夫婦仲の表現』へのチャレンジ
立ちはだかる厚い壁:『らん子の“愛”を感じながら』子どもに語る
もしも本当に私が結婚するなら、相手はどんな人? 独り万博公園で思いを巡らせた日
本番で、2日連続しでかした大失敗
脳震盪を起こしながらの芝居、そして『受ける愛』表現の行方は?
終章 −青春の千秋楽−

←書籍版も発行されています。



文庫版76ページ、500円+税、出版社:日本文学館

※印刷をして手元で読みたい方は、Word版をどうぞ(写真は割愛しております)


序章 ー夢は形を変えてー

 『愛・地球博』開催に沸いた2005年、世間では改めて35年前(1970年)に行われた、日本初の(アジア全体でも)万博である大阪万博のことが、話題に上がった。


 “こんにちは こんにちは 西〜の〜 国から〜 こんにちは こんにちは 東の〜 国から〜 せんきゅ〜ひゃく〜ななじゅう〜ねんの〜 こ〜んに〜ち〜は〜”
 

 三波春夫の『世界の国からこんにちは』の歌のフレーズを読んで、「懐かしいなぁ」と感じる方も、中にはおられると思う。ある人は働き盛りの頃に、ある人は青春真っ只中の時代に、そしてまたある人は幼少〜子ども時代に、あのお祭り騒ぎの万博、『世紀の祭典』と謳われた万博に行ったなあ、と回想しながら・・・・・・。
 私もそんな『万博世代』の人たちと一緒に懐かしめたらな、と思う。しかし残念なことには、
その時私は生まれていなかった。それどころか私の両親さえ、まだお互い出会っていなかったのである。私が生まれたのは万博から3年後。もうあのお祭り騒ぎの気分など、とっくに冷めたあとの時代だった。「出来るものなら何らかの形で、万博を体験してみたい」私はずっと思っていた。それは万博が、私の地元近くで開催されたということで、大変身近に感じるからである。また、生まれる前とはいえ、その風景は私の幼少時とさほどかけ離れておらず、「少し手を伸ばせば届きそうなくらい近い過去。行けなかったのが惜しい!」という思いが強かったのだ。日頃から図書館で万博の写真集を見たり、テレビで時折万博の映像が出てくる番組があると、録画して見たりしていたものだった。そして・・・・・、


 『万博30周年』ムードに沸いた2000年、27歳だった私は、思いがけない形で万博見物を実現させることになる。
 当時、私は役者になることを夢見てある劇団に所属していたのだが、その劇団の公演が毎年8月にあり、私も公演班に入っていた。そして、この年の演目が『おまつりのヨル』となり、内容は、1970年9月5日の万博会場を舞台とした、ある見物客家族の物語だったのである。9月5日という日付まで設定されるとはずいぶん細かいなと思ったが、脚本の作者曰く、
「これは万博の開催当時本当にあった出来事で、夜の閉館時間になっても、『会場で野宿して明日の朝パビリオンを見る』というお客が溢れて大変な事態になってしまったんです。実際、相当数の人が会場で一夜を明かしたということです」
 『そんな体験、実際にしたら、さすがに大変な思いを味わうだろうな』と思ったが、とにかく舞台の内容は万博見物で、私はなんと、会場シーンの最初から最後まで登場する主役級の役となったのだ。具体的には、メインの登場人物となる7人家族の父親役だったが、こうして私は、生まれていなかったために行けなかった万博に、舞台の中の登場人物という形で、行けることになったのである。
 もちろん、実際に公演が行われる場所は万博記念公園ではない。しかしそれでも、役作りの一環としてあちこちから万博当時の資料を集め、稽古場ではいつも『世界の国からこんにちは』を歌っていたから、おのずと気分は万博見物客になっていたわけである。
 配役的にも『主役』というゴツいものをいただいた私であるが、形を変えて実現した万博見物であった。 


大阪万博のシンボル、太陽の塔。
今でもこれを見る度に、舞台で苦労した日々を思い出す。



物語・登場人物紹介

 さて、舞台『おまつりのヨル』の思い出を語るにあたり、まずはその物語の内容と登場人物の紹介をしなくてはならないだろう。
 ここで掻い摘んで、物語の解説をしていく。


 『おまつりのヨル』のあらすじ
 物語は、実は現代(2000年)の大阪から始まる。場所はある会社のオフィスである。
 万田博行(まんだひろゆき 以下、博行と称す)、37歳。彼はこの会社の課長であったが、パソコンが全くの苦手で、そのため若い部下たちに、いつもパソコンに関して同じ質問をして、すっかり部下から敬遠される存在になっていた。いや、いい加減見下されていたと言うほうがいいかもしれない。とにかく、時代の波についていけず、内心孤独を味わっていた。
 ある日、博行は会社で残業していた。そこへ警備員のお兄さんがやってくる。「課長、今夜も残業ですか?」と話しかけ、しばし博行と話し込んだ。博行はカップ酒を飲みながら仕事をしていた。会社内での飲酒は原則として禁じられており、警備員にそのことを指摘されると、博行は、「バレた? でもまあええがな。お前も一緒に飲み」と、勤務時間である警備員に付き合いを強要する。
 警備員は、元は交番の巡査だったという。その話を博行にすると、ホロ酔い気分になってきた博行は、ひと言「へーえ」と言った後、こう続けた。
 「俺な、昔、あんたみたいなお巡りさんに、一晩中世話になったことがあるんや」
 この話に警備員も少々ビックリして、「何か悪事でもしでかしたんですか?」と訊く。博行はにわかにテンションが上がり、少年のような目になってこう言った。
 「違う。万博の時や、万博。知ってるか? 今からちょうど30年前、千里の丘で・・・・・・。そう! 思い出した。思い出したぞ!! 日本万国博覧会。世界の国からこんにちは! さあ 握手を〜 し〜よ〜う〜!!」


******** ここで一気に場面転換、1970年の万博会場となる ********


 大阪・千里の万国博覧会会場。各国のパビリオンが林立し、色とりどりの国旗に、民族衣装を身にまとった外国の人たち。
 太陽の塔がそびえ立ち、その手前は『お祭り広場』となっていて、絶えずイベントが催される。辺り一面、陽気の海。
 およそ過去に前例のない賑やかさ、そして何より空前のスケールの大きさである。会場内、見渡す限り、人・人・人・・・・・・。


 万博会場に、ある一家が見物に来ていた。その一家とは万田一家。
 父親の万田博一(ひろかず 当年34歳)、母親のらん子、長男の博行(当年7歳)、長女の千里(せんり)、次男の博太郎(ひろたろう)、次女の平子(ひらこ)、三女の和子(かずこ)の7人家族。2男3女という兄弟の多さであった。
 一家で万博見物に来ていたが、主導権を握っていたのは母親のらん子だった。らん子はとにかく気が強く、おっかない、そして厚かましいを地でいく人物で、典型的な、ナニワの肝っ玉母ちゃんだった。それに対して父親の博一は、気弱で生真面目、頼りないを地でいく人物で、典型的な、嫁さんの尻に敷かれる旦那だったのである。こんな好対照な夫婦のもとに、実に5人もの元気な子どもがいたのであるが、その子どもたちも一人一人個性が違っていた。
 長男の博行は、のんびり屋でやや反応が鈍く、しかし密かに勉強家というタイプ。5人の子どもの中では、一番父親似の性格だった。母親からはいつも、「大きくなったら大きな会社の、せめて課長ぐらいにはなりや!」と檄(げき)を飛ばされていた。長女の千里は、大人になったら才女になりそうなタイプ。的確に“現在(いま)”のトピックについて情報を収集し、ものをハッキリ言う子だった。あとの3人はまだ小さ過ぎて、あまり特徴をつかめないが、次男の博太郎は結構ひらめきが強く、“ハイカラ嗜好”があり、次女の平子は大らかでおっとりしていて、三女の和子は一番小さいので、万事(ばんじ)人のマネをして動く、といったところである。


 さて、万田一家は万博見物中、行く先々でさまざまなハプニングを巻き起こす。その全てが、主導権を握っているらん子の振る舞いによるものだった。
 最初は博太郎と和子が迷子になった時だった。博一は心配して探しに行くが、らん子は「ほっといたら匂い嗅いで付いてくるわ。それよりも、ウチ『動く歩道』見たい」と言って、そっちに行こうとする。
 その後、平子が「トイレに行きたい」と言った時は、博一はあたふたとトイレを探しに行こうと平子の手を引くが、らん子は「構わんからそこでシーシー、しよし」とひとこと言うだけ。


 その間に博太郎は再三、「お母ちゃん、おなかすいた〜!」とせがみ、らん子は「じゃあお弁当にしよう!」と言って、その場にゴザを敷いた。ところがその場所というのは、人の往来が最も激しい、会場のメインストリートだったのだ。そんなところにゴザを敷かれては、見物客の通行の邪魔になって仕方がない。早速、コンパニオンに注意されたが、らん子はいっこうに聞く耳を持たない。
「家族みんなでお弁当。これは日本の文化や! 見せたれ見せたれ外人さんに!」と、逆にアピールをし始めてコンパニオンを困らせた。
 らん子は、そもそも「コンパニオン」というのが何なのかサッパリ分からず、そばにいた博行に「外人さんか?」と聞くぐらいだった。博行がふざけて、「プレイガールや!」と答えると、らん子は博行の頭を一発どつき、「あんたは、またお父ちゃんから変な教育受けたな!」と決めてかかった。


 このやり取りの時、博一は平子をトイレに連れて行っていて、その場にいなかった。そして数分後、何も知らずに戻ってきた博一が、コンパニオンを指して「この人ら、プレイガールか?」と訊いたものだからたまらない。らん子は「やっぱりあんたか! 子どもに悪い教育ばっかりしよって」と、いきなり博一にプロレス技を仕掛ける。居合わせた見物客は仰天し、コンパニオンも青ざめるが、子どもたちは、「ガンバレー!ジャイアントらん子〜」「お父ちゃん、お母ちゃん、両方ガンバレ〜」とはやしたてる。らん子は、「おっしゃあ! 任しときィ!」と、ますますプロレス絶好調となった。博一は元より「ギブアップ!!」を連発。駆けつけた警官に止められてようやく、らん子は博一を“解放”するが、今度はその手で警官にまでコブラツイストを仕掛けようとする凶暴ぶりだった。このとんだケンカ騒ぎに、周りの見物客はすっかりエキサイト。一方、服もヨレヨレになった博一は、警官に平謝りだった。


 さんざん警官に注意されても、一向に懲(こ)りないのがらん子だった。
 「何やねん? 万博の会場なんて、遊園地をちょっと大きくしたやつやがな。何でハッスルしたらあかんねん? うちには子どもが5人もいてるのに、ハッスルせんと帰るやつがどこにおるか! だいたい、どこに行っても行列行列で、6時間待ちに7時間待ち。うちら遊びに来たんやで。行列に並びに来たんとちゃうわ!」
 まさに向かうところ敵なしとばかりに、言いたい放題のらん子だったが、これには周りで聞いていた見物客からも、「そうやそうや!」と、賛成する声が上がった。
 らん子は文句の矛先を博一にも向け、「だいたいアンタが夏休みの間に来れなかったのが悪いんや! せやから見てみ。同じように来そびれたアホがこんなにようけ来よって」と周りの見物客を指しながら言い、さすがにこの時は周りは呆気(あっけ)にとられていた。


 警官は、「確かに今日はいつもの倍以上の人が入場していますが、あと8日で万博も閉幕ですので、仕方がないんです」と弁解。

 コンパニオンも、「昼過ぎまでに、既に75万人の方が入場されています。パビリオンも、一番短い行列で10時間待ちとなっている状況です」と、多少申し訳なさそうに説明した。
「一番短くて10時間!!」スットンキョウな声を上げたのは、またもらん子だった。しかも、「今の時刻は?」と訊いたところ、答えは「午後1時です」。そして、「会場が閉まるのは?」との問いには、「午後10時」つまり、あと9時間で閉まるところ、最短の行列が10時間待ちなのだから、事実上、どこも見られないわけだ。そのことに気づいたらん子は、いい加減バカバカしくなってきて、やおら大声で笑い出した。周りの見物客もつられて笑う。
 「ギャハハハハ、ギャハハハハ・・・・・・!!」


 ひとしきり笑い飛ばした後、らん子は急に真剣な表情に変わり、とんでもなく大きな声でこう叫んだ。
 「よっしゃ〜!! 泊まったる〜!! 泊まったるでぇ〜!! 万博の会場に泊まりこんだるううう!! こうなったら野宿や! 朝まで居残って、明日の朝一番でパビリオンに並ぶぞおお!」
 周りの見物客はこれを聞いてさすがにビックリした様子だったが、次々に、「おお〜〜〜! おお〜〜〜!」と声を出した。一方、警官にコンパニオン、それに騒ぎを聞いて駆けつけていた他の万博職員たちは、「そ、そんな・・・・・・」と言うだけが精一杯だった。らん子はますます高揚して、周囲に団結を呼びかけんばかりの態度を取るようになる。かくして、恐らく万国博覧会としては前代未聞であろう見物客の会場泊まりこみが決行されたのであった。


たった一枚残っている、舞台本番中の写真。
博一が、らん子にプロレス技をかけられ、アップアップしている場面。
周りには野次馬の見物客。そして会場コンパニオンがうろたえている。
だが、周囲の迷惑などお構いなしの、傍若無人ならん子であった。


明けて9月6日未明・・・・・・・


 思いがけず万博会場の中で日付を越えたことに、らん子や万田一家をはじめ、見物客は少なからず興奮しているようだった。やがて万博職員が何人かやってきて、万博協会としては会場泊まり込みを許可するわけにはいかないから、協会で準備するバスやタクシーに分乗して帰るよう、見物客に指示を出したが、当然のようにらん子は猛反発をした。しまいには大声で、「みなさ〜ん、コイツらを殴りましょう」と言って、本当に周りを誘導して職員を取り囲み、ボコボコにするものだから、職員はただただ「助けて〜!」と叫ぶばかりだった。
 らん子の暴走はさらに続き、「こんな夜中に帰されたらオオカミに襲われます〜! 太陽の塔も暴れだすぞぉ。お〜大魔神よ!」と大騒ぎをし、ほかの見物客も面白がって一緒に騒ぎ出したから、最早職員の手には完全に負えなくなった。
 ここにきて会場は、らん子を中心にまとまった一つのチームと化した。そして時にらん子をなだめ、時にジョークでフォローするもスベッてしまい、らん子に派手にどつかれるのが、博一だったのである。


 会場に残っていた人の総数は、実に5,000人以上。そのため、万博の最高責任者の指示で、特別に会場泊まり込みが許可され、また、食料も急遽支給されることになって、要請を受けたパン屋や弁当屋が駆けつけた。
 寝るときの毛布も支給されたが、いくら職員が「順序よく、秩序を守って」と呼びかけても、見物客はらん子にならえで一切お構いなし。おまけに、ヤクザのテキ屋や無許可の金魚すくい屋もどさくさに紛れて登場し、とがめようとした職員に、「別にええやないの! お代は万博協会が出せば」とらん子が首を突っ込んだものだから、ますます混乱に拍車がかかった。
 そのうちに、なぜか突然阿波踊りの一行が現れたり、一輪車に乗った子どもの集団がやってきたり、挙句の果てにはお囃(はや)しの一行が登場したりと、もうどこまでが現実でどこまでが夢か分からない、不思議な空間・・・・・・。


 さて、大人たちの宴が激しくなるのを尻目に、万田家の子どもたちは大人の大群を抜け出し、子どもたちだけで行動し始めた。はじめのうちは、こんな真夜中まで起きていることを楽しんでいたが、そのうち眠くなったり、疲れて家に帰りたくなったりして、小さな子どもたちは泣き出した。兄弟で一番上の博行も、どうしていいか分からなくなって、一緒に泣き出してしまった。
 そこへほかの家族の子どもたちがやってきて、泣いている万田家の子どもたちを見ると、「や〜い、泣き虫」と冷やかした。これに博行がムキになったことからケンカが始まり、やがて仲直りをした頃、巡回していた警官が子どもたちを発見した。警官は、
「君たち、今何時だと思っているんだ? 早くお父さんお母さんのとこに帰りなさい」と諭したが、博行の顔を確認すると、「君のとこのお母さんは、あの騒がしい人やな」と言った。この警官、実は昼間らん子に、コブラツイストを掛けられた警官だったのだ。
 博行は「はい、そうです」と、ややバツが悪そうに答えた。
「家でもいつもあんな感じなのか?」と訊いた警官に、万田家の子どもたちは口々に、「お母ちゃんは強い、お父ちゃんはヘロヘロ」と言った。


 警官は博行に、「ほんなら、長男やったらしっかりせなアカンなあ。君、『人類の進歩と調和』って、意味わかるか?」と、突然訊いた(70年万博のテーマが、『人類の進歩と調和』だった)。
「進歩の意味は分かりますが、チョウワってなんなのか分かりません」
「調和っていうのは、ケンカしたらアカンという意味や。進歩して賢くなっても、ほかの人と仲が悪かったら意味がないんや。だから進歩と調和は両方必要なんや」
 警官は、子どもたち全員の顔を見ながら言った。何となく意味が飲み込めただろうか?子どもたちは大人たちのいるところまで、警官に送ってもらった。


 やがて夜が明け始め、人々も寝静まり、『おまつりのヨル』もようやく終息に向かおうとしていた頃・・・・・・、
 会場の一角に、長男・博行の姿を探す父・博一の姿があった。やがて前方より歩いてきた博行を発見。父が息子に声をかけた。


「博行!」
「あ! お父ちゃん」
「どこ行ってたんや? 探してたんやで」
「ちょっとトイレに行ってたんや」
「そうか・・・・・・」(こんなに長い間トイレやなんて、会場中のトイレを回ってきたんかぁ?)


 しばし間を置いて、博一が語り始める。その様子はどう見ても、普段のおどおどした、頼りなげな博一とは別人だった。二人の周りに、起きている人はいない。
「博行、お父ちゃんな、いっぺんゆっくり、お前と二人だけで語りたかったんや。お前は・・・・・・、どちらかと言うとお父ちゃんに似てるさかい、もっとしっかりしてもらわんと困る、と思っててな。これからは大丈夫やろうと思うけど、博行、お前、ほんまにしっかりせんとあかんで」
「なんや今日のお父ちゃん、いつものお父ちゃんと違うな」
 博行は、今までに感じたことのないような空気を、父親から感じ取っていた。
「男同士でおるからや! こんなん初めてやもんな」 
 父はどこか無理して元気を装っているように見える。博行は「・・・・・・ん?」と言ったきり、あとは何と答えてよいか分からず、父の次の言葉を待った。


「博行。万博、楽しかったか?」
「うん。面白かったわ!」
「お母ちゃんが何でこんなに、野宿までして万博を楽しもうとしたか、分かるか?」
「え?」
 意外な質問に、博行はまたも返す言葉を失った。博一は、博行を真正面からグッと見つめ、力を込めてこう話し出した。
「お母ちゃんな、今のうちに、みんなに楽しい思い出を作っておきたかったんや。だから無理に・・・・・・。あのまま何も見ずに帰ってたら、思い出作られへん。そやから・・・・・・、そやから・・・・・・」
「どないしたん? お父ちゃん」
 父の目は涙で潤んでいるようにも見えた。博一はさらに力を込めて言う。


「博行! お前、長男なんやから、しっかりせんといかんで! いざとなったら、お前がお母ちゃんを守ってやらなあかん! わかるな?」
「・・・・・・。」 完全に言葉を失った博行。ただならぬ父の様子をどう受け止めていいのか、迷っている。
「約束出来るな? お母ちゃんと、弟と妹たち、お前が守る・・・・・・」
「うん、ボク長男やもん」 ようやく言葉が出てきた。
「そうか! よかった! ええ子やな、博行。大きくなったら、強い大人になるんやで。ええな?」
「わかった。男同士の約束や。『じんるいの、しんぽと、ちょうわ』や。父ちゃん、指きり!」
 頼もしい答えが返ってきて、父は満足した。
「よっしゃ! 指きり!」


 東の空から、朝陽が昇ってくる。ある意味、父子二人を祝福しているかのような朝陽に見えた。博一は晴れやかな表情で、「博行、見てみ。お日さんや!」と言った。



 1970年9月6日の朝の光景。そこへ、2000年(現代)の光景がかぶってくる。37歳になった『長男』博行の声が流れる。



「おやじが、胃がんでこの世を去ったのは、あのおまつりのヨルから、半年後やった。あの朝、おやじが俺に言った言葉は、多分、遺言みたいなもんやったんやな・・・・・・。おやじはみんな分かってた。自分がもう死ぬことを。子どもを5人も残して、34歳で死ぬんやから、そりゃあ言いたいことは山ほどあったんやろうな。俺はおやじが話してたことを、おかんには言わんかった・・・・・・」


ここで最初の場面(2000年の、ある会社のオフィス)に戻る


 「気がついたら、俺、もう37や。おやじが死んだ年を、3つも越えてもうた。えらいもんやな」
 万田博行は、改めて感心したようにこう言った。
 一緒にいた警備員は、博行に問うた。「自分ではどう思います? お父さんが言われたように、あなたのお母さんみたいな強い人になれましたか?」
 博行は少し考えてから、言った。
 「いやあ、あんなふうには、なかなかなれんもんやで。努力はしたけどな」
 「家族を守ってきたんですか?」
 「おかんが頑張ったからな。どうなんやろうな」 およそ自信なさそうに、博行は答えた。


 数呼吸の間を置いて、警備員は仕事に戻るため、博行のデスクを後にした。
 一人残った博行は、「さて、と」と言いながら、もう一度パソコンの電源を入れてみた。30年前のあの賑やかな光景が、再び脳裏をよぎる。
 まだまだ小さかった、弟や妹たちの声が聞こえてきた。
 「お兄ちゃ〜ん!」「お兄ちゃ〜ん!」





 以上が、舞台『おまつりのヨル』の物語の流れである。今回の私のエッセイにとって必要と思われる部分のみを抜粋しているため、必ずしも台本に書かれている内容すべてを書き写したわけではないことを、お断り申し上げる。

今となっては宝物。
『おまつりのヨル』台本
博一が長男博行に、遺言≠ニも取れる
話をした場面の台本。劇中最も、『奥さんからの愛情』
を感じながらセリフを言わなければならない場面だった。
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 さて、万田博一という、舞台の物語の中では実質主人公とも言える人物の役をいただいた私であるが、実際、私は最初に希望する配役を演出家に提出した時に、「博一役を希望」と書いていた。何故博一役をやりたかったか? それはひとえに、ここまでに述べた物語の解説の中でも登場する、最後の長男との対話が気に入ったからである。あのような父と子の感動の場面、みたいなものに、当時の私は憧れる傾向があった。それは自分自身が、その時点で既に父親を失っていたことと関係しているのだと思う。あるいは・・・・・・、まだ26歳(公演本番時点では27歳)で夢追い人だった私は、子どもを持ち、父親になる(=その前に誰かと結ばれる)というイメージが、心のどこかに残っていたのかもしれない。
 とにかく、初見(初めて台本に目を通すこと)でグーッと惹かれて、サッと希望の役として選ぶ、というような感じだったのだ。もちろん、まだ舞台2回目で、キャリアの面でもほとんどないに等しかった私は、本当にその役になれるとは思ってもいなかった。だから、いざ配役が発表された時、私はもう少しで、「え!」と叫び声が出そうになるほど驚いたものだった。多少は運が味方した部分もあったかもしれないが、かくして私は、“父親”という役柄に全力投球することになったのである。


初稽古での演出家からの第一声:「代わりはいくらでもいるんやぞ」

 2000年5月初旬、ゴールデンウィーク明け、いよいよ舞台の稽古が開始された。万田博一役としての緊張の初稽古である。
 演出家の先生が厳しい視線で見守る中、最初の登場の場面から演じたのだが、少し進んだところで、早くもつまずいてしまった。博一が一人大笑いをするという場面がある。ところが、声がうわずってしまって、笑い声にならない笑い方(かすれ声のような感じ)になってしまったのである。それを聞いて、稽古場にいた他の班員たちが爆笑した。私はもう一度笑い声を立てようとしたが、またも頬の筋肉に力が入り過ぎて、大笑いにならずにか細い笑い声がもれるのみだった。ここで演出家の先生がおもむろに身を乗り出し、ひとこと言った。
 「あのなぁ〜、代わりはいくらでもいるんやぞ〜」
 この役を獲得してから、演出家の先生にかけられた最初の言葉がこれであった。
 私はサーッと汗が引いていくのを感じたが、ここで「エイヤーッ」とばかりに、腹にたっぷり力をため、体の底から声を出すようにして笑ってみた。三度目の正直で、今度はうまく笑えた。どうにかその場面は無事にパスをして、稽古は続行された。
 演出家の先生には、その後、8月13日の本番千秋楽までの期間、数え切れないくらいの注意やダメ出しを受けることになるが、第一声となった一言が、私は今でも忘れられない。「役を代わられてなるものか」という思いが、言われた瞬間に体中を駆け巡り、腹の底から奮い立ったのだ。あの局面を乗り切れた時には、本当にホッとしたものであった。


想像以上に“重かった”、長男・博行へのセリフ

 私が博一役をやりたいと思った理由である、博行に語りかける場面。待望のラストシーンがいよいよやってきて、私は精一杯の感情を込めて、遺言となる<Zリフを言った。


 少しでも早く自分のセリフにしようと思って,
一生懸命言っているうちに、この、博行への遺言が、自分には想像以上に重い言葉であると気づいた。
 「よく俺がこんなセリフを言えているな・・・・・・」
 私は、こう感じるようになってきた。考えてみれば自分には、「長男として、しっかり家族を守って生きろ」みたいなことを、本来誰にも言える資格がないのである。


 私自身も、長男である。それも一人っ子だ。そして私はとにかく、生まれた順番や子どもの人数(兄弟の有無)によって、親など、上の世代からいろいろ言われたり、プレッシャーを与えられたりすることに弱いタイプなのである。世の中には、誰にも言われなくても自ら、「俺は長男だから、俺が・・・・・・」と言う人もいるが、私は口が裂けてもそのような言葉は言えないタイプだった。そのことが最も顕著に表れたのが、父が亡くなった時である。あの時、私は会う人会う人から、「じゃあ君がしっかりしないと」、「じゃあ君がしっかりしないと」と言われ、「何でこう、同じことばかりみんな言ってくるのだ?」と、半ばノイローゼになっていた。もちろん、自分はしっかりする気がなかったわけではないし、一応の自覚というのはしていたつもりだ。だが、元々自分は、頑張ってもなかなか“しっかりした”人になれず、歯痒(はがゆ)い思いをする人生を送っていた。そこへ余計に言われるようになったものだから、さすがに心が潰れていったのである。加えて、一人っ子(=長男)であったがために、変にプレッシャーを感じさせられていた。色々な意味で、父が亡くなった後のことを、全部自分に向けられるというか・・・・・・。そういう空気に対して、言うに言われぬ“恐怖心”を感じ、遠くへ逃げられるものなら逃げ出したいという気持ちで、毎日を過ごしていたのだ。


 父の死に関しては、別のエッセイ(当サイト内)でも述懐しているが、この体験を境に私は、「長男」という言葉を聞くのがすっかり苦手になってしまった。そんないきさつから、たとえ芝居の中のセリフとはいえ、私の口から「お前は長男だからしっかりしろ」という言葉を発するのが、何やら気恥ずかしい、身の丈以上の行為であるように感じられたのである。
 これだけの言葉を堂々と言うのならば、余程の覚悟が必要だと思った。自分自身を棚に上げ、自分の最も使いたくない言葉を、完全に役のセリフだと割り切って言わなければならないのだから、こうなったらもう、それこそ自分がしっかりして、勇気を持つしかないと思ったものである。
 元々は、自身も父親を亡くした者として、逆にその父親側の立場で子どもに真剣に語って聞かせるシーンに憧れたからという、いたって単純な動機でこの役を希望していた。そんな私の見通しは、実に「甘かった」と認識せざるを得なかった。
 私は家でも毎日、「長男」「長男」と言いながら、セリフの練習をしていた。


『子どもとのコミュニケーション』ということ

 私は5人もの子どもを持ち、しかも1番上でもまだ7歳という、小さな子どもばかりを持つ父親の役だったから、当然、子どもと絡む場面が多かった。子どもをおんぶして走り回るシーンもあり、お父ちゃんらしいキャラクターになり切るのが不可欠だったわけだ。しかし、最初は子どもとの絡みというのがなかなかスムーズにいかず、苦労を重ねなくてはならなかった。
 本来、私は決して子どもが苦手なタイプではないと思っていた。確かに日頃、小さな子どもと接する機会は少なかったが、だからといってどうこう、とは感じなかったのである。
 実は過去には、毎日のように子どもたちとたわむれていた時期があった。中学3年生の1学期である。


 当時私は、小中学生が一緒である海外の日本人学校に通っており、毎日スクールバスで登校していたのだが、学年が上なのでバスの班長になっていた。新学期が始まり、乗り物酔いしやすい小学生が一人転校してきて、私と同じバスに乗ることになった。それで先生から、「何とかこの子が酔わないように、班長の君が気を紛らわしてやってくれないかな?」と頼まれたのであるが、私はそういう役割は正直不安だった。取りあえずその子本人だけではなく、ほかの子どもたちも一緒にと思って、自分からどんどんしゃべったり、子どもから返ってくる言葉に対して、冗談を言って笑わせたりした。


 乗り物酔いしやすい子は、すっかりバスに乗るのを楽しみにしてくれるようになり、そのうちほかの子どもたちと一緒に、私にニックネームを付けてきた。それは、「ゾンビ君」。なぜゾンビ君となったのかよく覚えていないが、当時は痩せていたし、歩き方も猫背でゾンビに見えたからかもしれない。私は「誰がゾンビや?」とツッコミを返したり、さらにボケてみたりするなどして、自分でも思ってもみなかったほどの三枚目キャラクターとなった。何より、乗り物酔いしやすい子にとって、スクールバスが苦痛でなくなったのが私をホッとさせた。残念ながらその子は、父親の転勤で1学期限りで帰国してしまった。だが、同じバスに乗っていたほかの子どもたちは、2学期以降も私と過ごすことを喜んでくれた。私も当時は受験生だったので、そのプレッシャーが毎日頭から離れず、しんどい日々を送っていた。また、日本を離れて暮らしていたため、故郷にいる愛犬とも会えず、寂しさも常に心中に抱えていたのである。それだけに、スクールバスでの子どもたちとのひと時は、私にとってこの上ない気分転換となり、癒しにもなった。


 そんな懐かしい思い出から12年、この舞台で、久しぶりに子どもたちと身近な時間を過ごす機会がやってきたのだ。本来ならもう少し喜ぶくらいでも良かったはずである。しかし、どういうわけか稽古の前半期は、博一の子ども役の子たちと、コミュニケーションらしいコミュニケーションを取れなかった。いや、取ろうとしていなかった。一緒に手をつないだり、おんぶをして走り回るシーンもあったのだが、それもどちらかというと一台本どおりの動きとしてやっていただけ。稽古途中の休憩時間や終了後の自由時間にも、子どもたちに接しようとはしていなかったのだ。それだけではない。先ほど述べた中学3年生の時の経験、これも、思い出すことが全くなかったのである。思い出しても不思議ではなかっただろうに、記憶に蘇ってこなかった。いつの間にか私の心は、子どもと疎遠になっていたのだろうか?
 そんなある日、私は稽古後、先輩にひと言、こう言われた。
 「お前は子どもが嫌いなのか?」
 一瞬ビックリした。そして、「いや、そんなことないですよ」と答えたが、先輩は厳しい目で、
 「お前の稽古見てたら、全然子どもが好きなように見えない。お父ちゃんの役やろ?」


 この時、私は初めて、今まで稽古場で子どもたちにろくに声をかけていなかったと気づいた。そして同時にようやく、あの中学3年生の時の記憶が蘇ってきたのである。
 「あんな時だってあったのに、今の自分は何てもったいないことをしているんだろう? せっかくだ。どんどん子どもたちと仲良くなろう。そして芝居のセリフも、本当に親愛の情を込めて言えるようになろう」
 そう、心に決めた。その翌日から、稽古場での私の態度は変わった。子どもたちに大きな声であいさつをするようになり、しかもただあいさつの言葉を言うだけでなく、ワザとちょっとおかしな感じで言って、笑いを誘うようにした。そして公演班に限らず、劇団の団員は全員名札を付けるのが決まりだったのだが、その名札の字を、漢字から平がなに改め、なおかつ子どもの目から見えやすいように、付ける位置を少し低く、向きも下向き加減にしてみた。これが予想以上に功を奏し、子どもたちはみんな、今まで注目しなかった私の名札に目を向けるようになり、繰り返し私の名前を呼んで、覚えてくれたのである。覚えてもらえると、こちらも声をかけやすくなり、どんどん会話が増えた。冗談も絶えないようになり、あの中学3年の時のスクールバスを彷彿(ほうふつ)とさせる光景になったのである。
 嬉しかった。「やっぱり俺は、子ども嫌いとは思われたくないんだな」
 そう思った。何だか自分自身が救われた気分になり、稽古にも一段と熱が入った。


 今でもそうだが、私は本当は子ども好きでありたい。そうでないと、とても寂しい。子どもはこちらから働きかけると、それに応えてくれる。こちらの気持ちをすぐに受け入れて、態度に表してくれる。この舞台を通じて得た「子どもに受け入れてもらえる」という自信は、とてつもなく大きな力となった。


 のちのち、私は就職した障害者団体の年間イベントなどで、子どもたちと出会う機会が多くなっていくのだが、そこでも出会う度に、「自信を持って、子どもの中に入っていこう」という気持ちが湧いた。
 私を子どもに再び目覚めさせてくれるきっかけとなった、あの時の先輩の叱咤(しった)には、今でも心から感謝している。私の心をいきいきとさせる子どもの感性は、本当に素晴らしい。 


『夫婦仲の表現』へのチャレンジ

 この舞台の主役は博一だが、もう一人、忘れてはならない主役がいる。それはもちろん、らん子。『おまつりのヨル』は、万田一家の親子物語であると同時に、博一とらん子との夫婦物語でもあった。だから博一を演ずるにあたって、『夫婦仲の表現』というのが要求されるのは当然と言えた。
 博一は、私自身をそっくり置き換えたような、気弱で頼りない人物であったことから、私はただただその気弱さと、嫁さんに対する臆病さを表現することのみに執着していた。というより、ある意味芝居をしないままの役作りになっていた、と言った方がいいかもしれない。


 ある日、稽古後の反省会で、先輩に言われた。
 「お前とらん子、全然夫婦に見えへんな」
 「ああ、そうですか? それはどういう・・・・・・、どうしてでしょうか?」 やや迷い気味に私が訊くと、先輩はズバリこう言ってきたのだ。
 「お前の“女性が苦手”という部分ばっかりが目に付くんや。いかにも、『ボクは恐る恐る女性と接してます〜』みたいな。見ていて、ありゃ芝居やないで」 
 「・・・・・・」 返す言葉がなかった。
 『“女性が苦手”という部分が演技に出ている』 自分では全くそんな自覚はなかった。いや、それはもちろん、私が異性が苦手というのは事実だし、まだ若かったが故の宿命、異性への意識がコンプレックスにもなっていた。しかしだからといって、演技の中ではそれがあからさまには出ていないと思っていたのだが、どうやら甘かったらしい。
 「演技とは、日常生活の再現」と、ある先生(現役の女優)から何度も教わっていたが、これは、日常生活を映像的に再表現するという意味に加え、“当人の日常生活での内面がそのまま反映される”という意味も含まれているのではないか、と感じずにいられなかった。何とか異性が苦手という日常を、演技から消さなければならないと焦った。
 

 一体どうすれば良いのか? さすがに一人で考えていても分からないので、先輩にもアドバイスを求めた。
 「取りあえず、らん子役の人とよくしゃべれ。それで夫婦のやり取りの場面を、二人でどんどん稽古するんや」
 「ああ、なるほど」と私は思った。次の稽古の時から、ごく短い、他愛もない内容でも、芝居以外でらん子役の人に話しかけるよう努めた。そのうちに彼女のほうから、「プロレスのシーンの練習をしましょう」と言われ、私もワザとオーバーにやったりしながら、らん子役の人と接する時間を増やしていった。向こうから働きかけてくれるのは有り難かった。
 らん子役の人は、年齢こそ私より若かったが、劇団の団員としては何年も先輩で、出演舞台の回数も二桁を数えるという大ベテランであった。それだけに、公演班全体の中でもリーダー的存在であり、準備運動の時なども指揮を執っていた。そういう、全体の中でも上で、まとめ役の立場にある人だったから、別に相手が年下だと変に意識する必要もなく、頼れる存在として安心して協力してもらえた。


 成果は着実に現れた。何週間か経つと、今度は先輩からこう言われた。
 「まだお前の演技は全然夫婦と違うな。何か、仲のええ友達みたいな感じや」
 依然、厳しい評価には違いなかったが、「仲のええ友達みたい」と表現されたことで、“女性が苦手”が出ているという状況だけは何とか克服出来たと、多少自信がついた。
 苦手だったら、仲良さそうにすら見えるわけがない。実際私も、学生時代に学校などで仲のよい女友達と一緒にいた時は、『異性が苦手』という感情もまともには出ていなかった。らん子役の人と、夫婦の場面の稽古を出来るだけ沢山こなし、短いながらも雑談を挟むようにしてみた結果、互いに親近感が生まれてきたのだと思う。


 ただの友達ではなく、夫婦に見せるというのは、実際に結婚した経験のない人にとっては、本当に難しいことである。だが、それは自分だけではなく、相手(らん子役)だって同じなのだから、あまり気にせずに自分の出来る範囲で、『夫婦』を表現しようと思った。実は、私は自分の両親の姿(特に亡き父の)を思い起こし、どういう振る舞いをして、どういう物の言い方をすると一番夫婦らしく見えるか、参考にしようと思った。その結果、一つにはスキンシップを交えるのがポイントだと気付いた。あとは何と言っても仲がいいこと、仲良さそうに振る舞うのが、特別な関係っぽく見せるための最大の近道に思える。
 スキンシップについては、いくら演技とは言え、あまり大胆には出来ない。だから、今まではただらん子に話すだけでいたのを、肩にポンと手を置く動作を添えたり、軽く背中を押す動作を加えたり、さらに並んで立つ時に、ピッタリ傍に寄り添って立つようにして、ただの友達関係ではないとアピールした。
 結果的に充分な表現が出来たとは、今でも思ってはいない。だが、可能な限りの演技はやってのけたつもりでいる。


立ちはだかる厚い壁:『らん子の“愛”を感じながら』子どもに語る

 私にとって一番思い入れが強く、『おまつりのヨル』全体で見ても一番のハイライトである、博行との親子のシーン。
 「長男だからしっかりしろ」というセリフに対して肩身の狭さを感じながらも、私はこの場面への準備に余念がなく、毎日精一杯の力を入れて稽古をしていた。このシーンは、実は自分がガンに侵されて余命が短いと分かっている博一が、残されてゆく子どもたちの、中でも特に長男に対して、遺言の気持ちで語るシーンなのだから、私としては、100%『父親』という役になり切り、父としての、子どもに対する愛情、感謝、そして早々と逝くことに対する申し訳なさといった気持ちを込めて演技をすれば、あとは何も問題はないと確信していた。ところが、それは大きな間違いであった。ある日の稽古上がり、私は演出助手の先生に呼ばれた。先生は訊いてきた。
 「君はこの場面、どういう気持ちで、どういうことを感じながら芝居をすれば良いか、分かるか?」
 単刀直入な質問だった。
 「はい。父親対息子という気持ちで、息子と二人で語れる喜びを感じながら、子どもへの愛情と、間もなく自分が死んでゆく寂しさを感じながら芝居をすれば良いと思います」
 自分の中で練り上げてきた演技プランそのものだった。
 「あー、なるほどね。それも確かにそうだよな。でも、一番重要な部分が欠けている」
 「え!?」
 私は思わず驚きが声に出てしまった。自分はもうこれ以外に何もないと信じ込んで芝居をやっていたから、いきなり「欠けている」、それも「一番重要な部分が」と言われて、面食らってしまったのである。
 先生は少しの間、無言だった。私に考える時間を与えてくれていたのだ。だが、どうにか言えた一言は、
 「えーっと、家族への思い・・・・・・、ですか?」だった。これでは、さっきの繰り返しでしかない。
 先生は答えた。
 「うん。博一が思うというのも大事なんだけど、一番重要なのは、この場面は、奥さんであるらん子からの愛情を感じながら、芝居をしなきゃいけないんだ。らん子から受ける愛情をね。らん子はずっと博一に乱暴な態度を取ったり、プロレスだとか言って暴力を振るってきたり、無茶苦茶だったよね。でも、あのがさつな荒っぽい振る舞いの裏に、博一に対する愛情がきっとあるんだよ。しかも、博一が本当は病気で先が長くないということを、らん子は恐らく知っていると思う。だからセリフの中にあっただろ?『お母ちゃんは今のうちに楽しい思い出作っておきたかった。だから野宿したんだ』っていう。あれだよ。もっとらん子から受ける愛情を感じて、表面には出ていないらん子の内面を思って、芝居をしなきゃダメだよ」
 「・・・・・・」 言葉が出てこなかった。
 

 らん子からの愛情。自分が示す愛情ではなく、他者から(奥さんから)受ける∴、情・・・・・・。
 何か、遠い夢の中の世界を、いきなり目の前に突き付けられた心地だった。


 何人かの先輩や同輩からも、相前後して同じことを言われた。
 「らん子からの愛情を感じなきゃあかんねんぞ」
 「らん子は本当は博一のことをとても愛してるんや。ああやって、暴力的な振る舞いをしたり、いつも乱暴な態度取ってるのも、愛情の裏返しや。あのプロレスだって、実は本気ではないかもしれないんやで」
 「博一も悲しんでるけど、らん子だって実は悲しんでるわけや。らん子は博一がガンやって知ってるんやろ? それやのにあそこまで明るく振る舞っているらん子って、ほんまはどんな気持ちでおるんか、考えたことある?」


 さらに、こんなことも言われた。
 「博一って、らん子とどうやって結婚したと思う? お互い相手のどういうところに惚れて、どんな恋愛をしてきたんやろう?」
 「5人も子どもを儲けるってことは、それだけすごく愛し合ってたってことやろ? 普段、家の中での2人はどんな感じなのか、もっと思い浮かべてみ」
 「役作りをするなら、らん子との出会いから今までのロマンスとか、そういうことも自分の中で描いて、組み立ててやっていかんとあかんで」


 自分の役作りに、いかにらん子を感じる≠ニいう部分が欠けていたか、これだけ色々なことを周囲から言われて、ようやく気がついた。
 ものすごく難しい『命題』を突き付けられたと思った。
 「俺、本当に出来るんだろうか?」


 らん子の愛情、らん子の悲しみ、そしてらん子との結婚までのロマンス・・・・・・。そんなことなど、およそ砂粒ほども考えたことがなかった。一体どうやって気持ちを作ったらいいのか分からない。私は悩みに悩んだ。『人から受ける愛情を感じる』というのがどんなものなのか、皆目見当がつかなかった。
 現在もそうであるが、私は母親や祖母といった肉親は別として、異性との愛情というのは、自分のほうが相手に向けるもの、という感覚しか持っていなかった。それを、いきなり180度引っくり返した感覚を持つのは、いかに仕事のためとはいえ、至難の業だった。
 何より驚かされたのは、あのプロレスが、実は本気ではないかもしれないという一言。そんな発想があったのか・・・・・・!



 『受ける愛情・・・・・・』『受ける愛情・・・・・・』、毎日そればかりを考え、悶々とした日々を送っていたある時、不意に私の脳裏にある光景が蘇ってきた。かつて父がガンで入院している時、病室で母が献身的に看病をしていた光景である。今にして思えば、あの時母は淡々と、疲れた表情も見せずに看病に専念していた。そして父も至って落ち着いた、安心した表情をしていたものである。
 「あれか。あれが夫婦愛だな」と私は思った。「あの時の親父の気持ちになればいいんだ、博一も実はガンなのだし、あの時を思い出しながら芝居をしよう」と思い、頑張ってみたが、どういうわけか期待したほど上手くいかなかった。そして、『受ける愛』で私が唯一体験した親からの愛も、この際どんどん参考にしようと思い、博行との芝居の時には、今まで母が私にいろいろしてくれたことを思い起こしてみた。だが、これもどこかしっくり来ない。親からだろうと他者からだろうと、愛情は愛情である。何か共通性はあるはずだ、との思いからやってみたのであるが、よく考えれば、両方体験していないと共通性があるかないか自体、分かるわけがない。
 だんだん本番の日が近付いてきて、私も精神的に余裕がなくなった。「もう愛情だったら、それこそペットからの愛でも、知ってるものをかき集めりゃそれでエエわ」と、少々やけくそ気味の心境にもなってきたが、それでも最後まで諦めず、日夜、愛を想像していた。


 高いチケット代をいただき、仕事として舞台に出る以上、途中で投げ出すことは当然許されない。ましてや博行との最後の語りは、舞台全体の中でも最大の感動シーンであり、それだけに責任も一番重かった。
 たとえ自分が体験していない場面でも、何とか想像して演技をこなすのが役者の仕事である。その意味で、最終的に役者に最も必要なものは想像力と言えた。私はいざとなったら、その想像力をフルに働かせて、らん子からの愛を感じる場面を乗り切る決意をした。


もしも本当に私が結婚するなら、相手はどんな人? 独り万博公園で思いを巡らせた日

 本番を約10日後に控えた2000年8月初めのある日、私は独りで、この演目の舞台である大阪万博会場の今の姿、万博記念公園に行った。入口のすぐ目の前に、大きな太陽の塔がそびえる。劇中でも万博会場のシーンの入口≠過ぎて早々に、太陽の塔を見て驚く場面があった。その太陽の塔を眺めながら、27歳になって間もなかった私は、ある思いを巡らせていた。それは、
 「もしも、私が本当に結婚するとしたら、一体その相手はどんな人物なのだろう?」 ということである。
 これは、公演に向けての、想像力養成の一環でもあった。とかく愛情体験を想像するのが苦手な私が、せめて格好だけでも結婚生活を想像してみようと思ったのである。結婚歴8年以上ではあるだろう博一を演じるために、自らの結婚生活(有る無いは別として)を想像してみる必要もあると考えたわけだ。
 結婚相手を想像するにあたり、自分の両親の姿を思い出してみようともしたが、どうも満足に出来なかった。決して記憶がないわけではないが、人間というのは不思議なもので、相手が両親だと、たとえ夫婦でも親≠ニしてしか認識出来ないのである。その意味で、自分の結婚相手を想像する時、母親というのは参考にならなかった。


 私は、演出助手の先生や先輩方からの数々の助言を思い出しながら、らん子という人物を改めてイメージしてみた。
 一見暴力的。人のことをドツき放題、押しのけ放題、踏んづけ放題・・・・・・。当然口も悪く、とにかく、いつでもどこでも言いたい放題。恐らく子どもの時はどうしようもないヤンチャで、男勝りな女の子だったのだろう。だが、そんな見た目の印象とは裏腹に、内心では愛情に溢れており、夫への思いも深い。子どもたちにとっては、きっと頼りがいのある、強いお母ちゃんなのだ。外ヅラは野生キャラ≠ナ滅法気が強いが、内ヅラは思いのほか、夫の支えがあってこその自分という自覚を持っていて、優しさや思いやりもある。
 普段、らん子は子どもの前では元気一杯に振る舞っているが、子どもの見ていないところでは、夫の身体を何度も気遣っているかもしれない。そして夫の余命が短いと判ったときは、人知れず涙を流したであろう。


 なるほど。こうして見るとらん子は外ヅラは悪いが内ヅラはいい、というような人物に思えてきた。
 少なくとも外ヅラがよくて内ヅラが悪い人よりは、よっぽど安心出来ていい。人前では大人しくて物静かな妻でありながら、夫の前になると途端に凶暴で我がままムキ出しの妻に変わる、というのは、やはり嫌だ。いっそ見た目はカカア天下みたいな性格の方が、そのぶん、夫思いの一面が当人の前で表れ、いい意味でのギャップ≠ェ生じるかもしれない。
 

 「どうやら、私が結婚する場合の相手の人物像は、『らん子ほど極端ではないが、ある程度それに近い雰囲気』というところで落ち着きそうだな」
 つくづくそう思った。考えてみれば私自身、博一の人物像と瓜二つなのだ。いかにも要領が悪く、不器用で、何より頼りない。私が博一役に抜擢されたのも、それゆえに違いなかった。そして実は、この前年の舞台でも、私は押しの強い性格の嫁にハリセンで思い切り叩かれたりする、弱々しい夫の役を与えられていた。これはチョイ役で、短い時間しか出番がなかったのだが、2回舞台に出て、2回とも似通った役になったわけである。私が結婚した場合の人生を、このことが暗示していると言っても、あながち見当はずれではないだろう。
 『役は嘘をつかない』とまでは言わないが、自分が役柄と似ていれば似ているほど、自分の結婚相手も役の人物のそれと似ている人になる、というのは有り得る話のように思えた。


万博公園東側広場。最初、太陽の塔を眺めていた私は、そのあと公園を半周した。
そしてこの広場にあったベンチに腰かけて、ひと休み。その間、しばし考えていた。
「博一は、多分ここら辺りでも、らん子に体当たり≠食らっていたのだろうな・・・・」と。



 舞台の本番を目前に控えた2000年8月初め、盛夏の万博公園で、私はひたすら自分の結婚相手のイメージを描くという、およそ本来ならやるはずのないことをやっていたのだった。もちろん、相手の顔までは想像(創造)出来なかったのは言うまでもない。
 32歳になった現在、もう二度とこのようなことを想像する機会はないだろう。


本番で、2日連続しでかした大失敗

 2000年8月11日、いよいよ舞台は本番を迎えた。本番は13日までの3日間上演され、11日が初日となったわけだが、何百回も練習を重ねたとはいえ、やはりいざ本番となると、その緊張感は格別なものがあった。特に初日というのはそうである。私も実は初めの方で、一つセリフを飛ばしてしまった。それだけ、カーッとなっていたのである。それでも、他はセリフ上の失敗というのはなく、演技をこなせたと思う。
 だが、実は初日と2日目、連続で同じ失敗、それも極めて重大な失敗をしでかし、演出家の先生に激しく怒られてしまっていた。それは、最後の博行との、例の見せ場のシーンで、博一が博行に、「お母ちゃん、今のうちに楽しい思い出作っておきたかったんや。そやから・・・・・・」という場面である。この場面では博一は、グッと涙をこらえ、抑えた表情で演技をしなくてはいけなかった。精一杯悲しみをこらえているからこそ、感動を誘うという演出だったのだ。ところが、私は本当に泣いてしまったのである。ボロボロ泣きながらセリフを言い、誰が聞いても涙声にしか聞こえない声になってしまっていた。一度は鼻まですすり上げたような気もする。これでは、演出家の先生の意図に全然沿っていない。初日はまだ注意されたくらいであったが、2日目も同じように感極まって泣き声になった時は、さすがにこっぴどく叱られてしまった。
 「コラーッ!! 泣くな! ええか、グーッとこらえるんや、グーッと。あそこは父親が、長男の前で涙を見せてなるものかと、気持ちを抑えて語る場面なんや。悲しみを抑えてるのが伝わってこそ、ドラマが盛り上がるんや。分かったか? とにかく、泣くな! ゼッタイに泣くなっ!」
 何度か繰り返し言われて、私も「よ〜し!」と意を決した。そして3日目、千秋楽、私はようやく泣かずに最後までやり通せた。先生に言われた通り、抑え気味の♂焔Zで、高ぶる気持ちで話すというよりは、一見トツトツと言って聞かせるように話したのである。やり終えた後、「我ながら今日のほうが演技に重厚感があったな」と感じた。そして先生からもようやく、「うん。好かった」と言ってもらえたのだった。


脳震盪を起こしながらの芝居、そして『受ける愛』表現の行方は?

 『おまつりのヨル』の感動のハイライトが博一と博行のシーンなら、爆笑のハイライトは、らん子のプロレスのシーンであった。あの痛快<Vーン、私はらん子役の人と相当数練習を重ね、動きにもセリフ回しにも自信はあった。しかし、確か千秋楽の公演でだったが、仰向けに地面に叩きつけられるところを敢えてド派手に頭から床に激突したため、脳震盪(のうしんとう)を起こしてしまったのである。後にも先にも、あれほどの脳震盪を起こした経験はない。後頭部が床にぶつかった瞬間、「グワワワワワ〜ン」と、頭の中や耳の奥で妙な音がし、続いて「キーン」という音がした後、周りの音が急に遠ざかるようになっていった。人の声は一応聞こえていたのだが、耳栓をしながら聞いているような感じで、身体もフラついて思うように動けず、辛うじて意識だけでも状況に反応している状態だった。今思い返しても、よくあの状態で芝居が出来ていたものだと思える数十秒であった。プロレスの場面が終わり、警官が見物客に落ち着くよう呼びかけるあたりになって、ようやく聴力が戻った。そして異音も聞こえなくなり、身体もふつうに動くようになった。
 まさに体を張って演技をしたプロレス場面だったが、実は3日間通して、演技中観客席の反応が、全く聞こえなかった。実際にはみんな大爆笑して、沸きに沸いていたのであるが、演技をしている時は客席からは何一つ耳に入らなかったのだ。だから私は、最初は本当に観客が無反応なのだと思い込み、内心ガッカリしていたのだが、後で私からチケットを買って観にきてくれた友人から実際の状況を聞き、喜ぶと同時に、自分の耳には全く聞こえなかったことに驚いた。
 人間、本当に集中すると、周りの音がシャットアウトされるというのは、このことだったのだなと思った。


 さて、『受ける愛を感じる』が命題だったラストのシーンでは、一つの大失敗をしたことを述べたが、それ以外はどうだったのか?
 『受ける愛』を自分のものとして表現出来るだけの力は、果たして身に付けられたのだろうか?
 結論から言うと、とてもリアルには感情をつくることが出来なかった。自ら万博公園に足を運んで、らん子の思いや自分が結婚した場合の人生を想像するなど、それなりにイマジネーションを高める努力はしたつもりであるが、演出助手や先輩から言われたほどには、愛を自分のものとして表現することは、出来なかったのである。
 想像力というものの重要さを生涯で最も学んだ一方で、逆に想像力だけでは超えられない壁(心の中の壁)が存在することも、今まで以上に学んだ。これだけでも、27歳の夏の大収穫だったかもしれない。


 らん子の存在を充分感じる力に限界があった分、子どもたちへの想いや『愛』は、稽古初期の頃の予想を遥かに超えるくらい、感じられたのではないだろうか。
 万田博一としても、短い期間ではあったが、一緒に家族として過ごしてくれて有り難かった。そして、演じた私自身としても、子役を演じた人たちに対する感謝の気持ちは大きい。子どもたちがなついてくれ、親しみを持ってくれたお陰で、どれだけ私が元気付けられ、稽古に力が入ったか分からなかった。毎日休憩時間などに一緒に遊んでいて、本当に家族のように感じたものである。自然の内に、『自分の子ども』という感情に入っていけるようになった。出来るものなら、これからもずっと一緒に会い、遊んだり何かをやったりしたい、という気持ちは強かった。
 しかしそんな子どもたちとは、舞台の本番が明ければ、別れなければならなかった。本番の後、打ち上げが控えていたが、それが終わると公演班はいよいよ解散である。普段、舞台がない時のレッスンでは、お互い全く違うクラスで、時間帯も別だ。せっかく仲良くなれたのに、別れるのはやはり寂しかった。ことに本番直前の数週間は、学校が夏休みに入って平日も毎日のように一緒に稽古をしたから、なおさらであった。解散してバラバラになった後の、プツンと途切れたような°虚な時間は想像がつかない。舞台の本番中からそんな一抹の寂しさを感じ、そして、自分をここまで押し上げて≠ュれて有り難うという感謝の気持ちを込めて、本来の演出からはズレた形ではあったが、ラストのシーンは熱演出来た。あの、涙が本当にこぼれてしまったのも、子役たちへの情があふれ出したからである。


 自分なりに精一杯の感情表現をし、『家族』を感じ、『情』を湧き立たせながら、最後まで演じた。
 2000年8月13日、公演舞台千秋楽。万感胸に迫るものがあった。


終章 ー青春の千秋楽ー

 舞台『おまつりのヨル』は興行的にも大成功を収め、大いなる盛り上がりを見せた。特に千秋楽、舞台の最後に出演者が全員揃って観客にあいさつをすると、場内から大きな拍手が沸き起こり、続いて出演者への花束の嵐。華やかさはピークに達した。私自身の中でも、「やり遂げた! 悩みに悩み抜いた末、ついにやり遂げた!」という充実感で一杯であった。未熟な部分は確かにあったが、それでもこの数ヶ月間ひたすら悩み、試行錯誤した経験というのは、決して無駄にはならなかったと確信していた。お互いに「お疲れさまでした!」と声をかけあい、労をねぎらった。演出家の先生も劇団のマネージャーも、満足そうな顔を浮かべていた。


 この舞台の半年後、私は4年3ヶ月間在籍した劇団を退団し、芝居の世界に別れを告げた。過去、味わったことのないような密度の濃い、熱い%々を送れた公演班時代。あれほどの緊張感と一体感、そして活気に満ちた日々は、もう二度と体験出来るものではない。私は本当に燃えた=Bそしてあの舞台以降、極度の燃え尽き症候群にかかった。舞台と日常との落差に苦しみ、あの舞台の熱気が恋しいという思いに駆られた。だが、その後、ヒザを痛めるなどして、体力的にも芝居を続けるのが難しくなっていった。やがて舞台の余韻が去り、日常のリズムが戻ってくると、再び舞台へと情熱が湧くことは、最早なくなってしまった。
 私は芝居の世界を去った後、現在の福祉の職場に就職した。
 今の職場では毎年何回か、イベントや行事が行われている。そしてその時は子どもも沢山参加するのだが、私はいつでも自然な気持ちで子どもたちと過ごせて、とても楽しい。この、自然な気持ちで過ごせるという自信は、『おまつりのヨル』の舞台があってこそと言ってまず間違いない。あの舞台が大きな切っ掛け、そして原点となったのだ。

子どもたちと接するひととき。毎年職場で行われるお花見。
奇しくも場所は、かつて舞台本番に向けて『シミュレーション体験』をおこなっていた、
万博記念公園である。思い出の場所は現在、楽しいイベントの舞台となっている。



 他方、受ける愛の体験は、その後も持つことはなかった。もし私がもう一度、『おまつりのヨル』の舞台で博一役をやったとしたら、全く同じ壁にぶつかり、同じ悩みに襲われるのは確実である。あの舞台以降、私は誰かに恋愛感情を抱いたり、人と結ばれる自分をイメージすることが、なくなっていった。もう今から博一のような役に挑戦するのは、限界があるだろう。


 いわゆる青春時代、私は余りにも夢を抱き過ぎ、何らかのドラマ≠ェあると信じ過ぎた。そんな若き頃の幻想が、あの『おまつりのヨル』の稽古が始まった時点では、恐らくまだ残っていたのだ。それを精一杯燃焼させ、本番の3日間で、今思えば私は、舞台上に鮮やかに散らしたのである。まさに一片のカケラも残さず散らし切った。そういう意味では、あの舞台は私にとって間違いなく『青春の千秋楽』であった。単なる1年の公演舞台の千秋楽だけではなく、10年以上に及ぶ長い青春時代の千秋楽だったのである。
 生涯で私が最もエネルギッシュでいられた、あの大仕事が『青春の千秋楽』になっていたのなら、それはそれは素晴らしいフィナーレではないか。
 5周年となった今振り返ってみても、最高のクライマックスである。  

ブラボー!! My 『おまつりのヨル』!

(完)


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