思い出を遺す エッセイの部屋

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ふだんは仕事や生活、勉強など、予定に忙しく、バタバタと慌ただしい毎日を過ごし、ストレスもたまっている事でしょう。しかし、そんな冷めた気持ちを脇に置いて、ふと今までの人生をふり返った時、そこには必ず、しみじみ味わえる思い出があると思います。それはきっと、日頃は忘れているかに見えて、実は誰かに語りたいとも思っている、大きな思い出・・・・・。
ここでは、私が人前では素知らぬフリをしながらも、心の中ではいつも感じているという思い出を、エッセイにして綴っております。
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回想:愛犬に支えられし日々 〜まばたきの裏に蘇る、あの時代、この記憶〜 公開:2005年1月21日
−愛犬トロ旅立ち1ヶ月記念作品−


長編
あらすじ: 2004年12月21日、16年間にわたり、私の絶対唯一の支えとなってきた愛犬トロが、この世を去った。私が、まだ子犬だったトロと初めて出会ったのは、15歳で中学3年生の時の12月24日、クリスマスイブであった。当時受験生で、それも入試が間近に迫っていたという私にとって、トロはまさに最高のクリスマスプレゼントとなり、結果、私の生涯で最も幸せなクリスマスは、この中学3年の時となったのだ。最初の内、トロはひたすら、受験生としての苦しみを癒すための存在だった。そして高校入学以降は、たびたび味わう切なさ・寂しさ・そして悲しさを一手に和らげる存在となり、己の弱さとばかり向き合う毎日であった青春時代の、絶対の吸収盤≠ニなったのである。そんなトロが、ついに死を迎えようとする時がきた。奇しくも出会った時と同じクリスマスのシーズン、それも、私の職場主催のクリスマスパーティーの当日であった。「こんな日にパーティーが重なるなんて・・・・!」 悲運としか言いようのないタイミングを恨みながら、生涯で最も辛いクリスマス≠ノなる事を確信してパーティーに向かったのだった。だが、そこで私を待ち受けていたものは・・・・・。

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舞台『おまつりのヨル』回想 〜あの役に込めた思い、そして青春の千秋楽=` 公開:2005年8月13日
−公演舞台出演5周年記念作品−


長編
あらすじ: 2000年8月11日〜13日まで、私は舞台に出演した。当時私は役者になる事を夢見て、ある劇団に所属しており、そこの公演舞台だったのだが、演目は『おまつりのヨル』。1970年に大阪で行われた万国博覧会の会場が設定場所であった。私はこの舞台で幸運にも主役に抜擢された。役どころは、万博見物客の一番メインで、5人の子どもを持つ父親。家族7人で見物に来て、『我がまま・凶暴・しゃべり放題』の三拍子がそろった奥さんに、ドツき倒され、文句ばかり浴びせられる夫という役であった。しかし、そんな奥さんからの愛情を感じ、『夫婦愛』を演じる事が、私の使命≠セったのである。主役を頂いた喜び以上に、重圧と焦りを感じていた公演舞台。それは私の生涯における最大のハイライトで、またとない晴れ舞台となった。先輩からの評価は厳しかった。「女苦手な面ばかり見えるぞ」、「奥さんの暴力的な振舞いは愛情の裏返しや。それを感じろ!」 難しい挑戦に、追い詰められた私はある日、一人で万博記念公園に行った。そしてもし自分自身が結婚した場合の相手の人物像≠リアルに描くという、『シミュレーション体験』をおこなったのである・・・・・。

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未完の夢よ、永遠に 〜人生最大の、ある皮肉≠ノ沈んでいた日々〜 公開:2006年4月3日
−トコトコ日記開設2周年記念作品−


長編
あらすじ: 1995年2月・・・・・、当年21歳だった私は、周囲の誰もが予想だにしなかった、ある行動を取り始めていた。それも密かに、誰にも内緒の内に。やがて周囲がその事実を知った時、みんなはアッと驚いた。「本当にやるのか?だけどお前の場合は不安が強いなァ。」と。しかし、私にはどうしても、その行動を成し遂げたい理由があったのだ。今にして思えば、自分の勝手な妄想≠ノ基づいていたとしか思えない、ある理由が・・・・・。自分でも、『絶対大丈夫』と言い切れる自信はとても無いのは、分かっていたのだが・・・・・。その後もひたすらその行動を続け、それ自体は一つの、『成功する』という段階に至った。しかしそれと引き換えに、私はとんでもなく苦い皮肉を味わう事を、余儀なくされたのである。全ては身から出た錆。自分の妄想を止められなかった結果として食らった、人生という現実からのしっぺ返しだった。今なお『気恥ずかしい体験』として残る、若気の至り≠セった日々の記憶。あれから10年が過ぎ、いまだ未熟ながらも、何とか分別が身に付きつつある現在の私が、ある種『自戒の念』とも言える気持ちを込めて、当時のエピソードを再現してみた。

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【メモリアル】マイ バースディ 〜ただ一度、日付変更線を越えた誕生日〜  公開:2006年7月17日 
−祝33歳誕生日記念作品−


短編
あらすじ: 誕生日というのは、誰にとっても素直に「おめでとう」と祝える、または祝ってもらえる時なのではないだろうか?そしてまた、みなさんの中には、『忘れられない誕生日』を体験した事がある人もいると思う。何か思いもがけない<vレゼントをもらった時、「え!」と驚く『イベント』があった時、それはきっと、のちのちまで心に残る誕生日となる。私にも一度だけある。心に残る誕生日が。1990年(平成2年)、17歳の誕生日の時だ。高校2年生だった私は、ちょっとユニークで、ささやかでも大きな幸福≠プレゼントされるという、誕生日の夜を体験した。それも日本ではなく、はるか日付変更線の向こう、アメリカ東海岸で・・・・・。実はその事が関係して、この年の誕生日に限り、本来ならあり得ない、ある“例外”も生じていたのである。それは、今ふり返ってみてもなかなか面白い、“例外”であった。

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《予想外大賞》パソコン物語 〜思えば、我ながらよくぞ成し遂げた大変身よ〜 公開:2007年4月3日
−トコトコ日記開設3周年記念作品−


中編
あらすじ: 2004年4月3日、私にとって、ある一つの時代の幕が開けた。それは、ホームページ『トコトコ日記』管理人としての時代である。それまで、ホームページを持つなど、夢のまた夢でしかなかったのが、あれよあれよと開設を果たし、その後はすっかり、更新が日課となるに至った。今思っても、本当に信じられない。実は、私は全然パソコンが出来ず、触れようともしない人間だったのだ。高校時代、パソコンの授業に全く付いていけず、一番嫌いな科目であった。就職活動の時、親の勧告≠ナパソコン教室に通うも、僅か2ヶ月で辞めてしまった。その後も『アナログの王道』を貫き続け、仕事で時々パソコンをしなくてはならない時は、腫れ物に触る心地でいたものだ。「奇跡でも起こらない限り、あなたがパソコンを上手くなるわけがない。」これは2001年以前は、私に関する『不動の説』だったのである。

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『最後の瞬間!』運動会物語 〜後頭部から地面に落ちた、恐怖の組体操〜 公開:2007年10月10日
−トコトコ日記アクセス10万達成記念作品−


短編
あらすじ: 小学校6年生の9月、毎年恒例、秋の大運動会のシーズンがやってきた。運動苦手の私にとっては一番憂うつな時期であったが、この年はさらに試練が。そう、最高学年の必須項目≠ニなっていた、組体操をやらなくてはならなかったのだ。今でこそメタボリックな体型の私だが、当時はガリガリに痩せていた。その上身長も低いとあって、当然のことながら、各演技では上に乗る役に。これが恐怖だった。最初に逆立ちをして、腹筋の力で一気に肩車の体勢に移る倒立(とうりつ)。タイミングが遅れ、上手く起き上がれない。そして二人の人の、それぞれ外側の肩の上に足を置き、立ち上がって両手を水平に延ばす『山』。ガタガタワナワナ足が震え、両手を離す事が出来ない。練習は中断となり、『鬼先生』の怒号に次ぐ怒号。パニックに陥る中、泣きの涙で練習を続けた、果たしてその成果は?

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こんな俺でも生きてはこれた 〜希望無き船出だった就労航海=m前編]〜 公開:2008年2月28日
−父没後10周年記念作品−


長編
あらすじ: 現在社会人の人は、初めて社会に出た時の思い出というのが、何かしらあると思う。「君は能力が高いし、絶対成功する」と太鼓判を押され、前途揚々だった人もいるだろう。一方で、「君は能力が低いし、頼りない。果たして世の中に出て大丈夫だろうか?」と、周囲に不安視ばかりされていた人もいると思う。私がそうだった・・・・・。社会人になって12年、今振り返ると、本当によくここまで生き延びてこれたものだと、我ながら感心するのである。私ほど「世間知らず」と言われ、「世の中で生きていけないぞ」と斬られた人は、いないのではないだろうか。『1から10まで言わないと分からない』、『要領と段取りが悪い』『社会人にしては非常に幼いし、無知だ』。かつて、聞かない日はほとんど無かった言葉である。私自身は努力していたのだが、それ故にかえって読み違えてしまうジレンマ。まさに【希望無き船出】であった。時あたかも『就職氷河期』の真っ只中。それだけに、決まらなくても逆に『不況』を言い訳にする自分がいた。そんな中、父が癌の宣告を受ける。直前に祖父も他界しており、相次ぐ暗い出来事。更に私自身の体にも、“不安材料”が忍び寄っていた・・・・・。

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こんな俺でも生きてはこれた 〜希望無き船出だった就労航海=m後編]〜 公開:2008年4月3日
−父没後10年、サイト開設4年記念作品−


長編
あらすじ: 1998年2月28日、あれほど希望を持ち、助かると信じていた父が、逝ってしまった。その時の、病室の凍りつく様な空気。絶対に受け入れたくない事実だった。この時、祖母も別の病院に入院中で余命は数ヶ月以内。その祖母というのは、父の母親であった。父の死を悲しみながらも、決めなくてはならなかった。祖母に、息子の死を知らせるべきかどうかを・・・・・。結局、伏せておくという事になり、そのため私は、父の葬儀の直後から祖母のもとに行って、「親父は大丈夫だよ」と、嘘八百を並べなくてはいけなくなった。そんな私の耳に、ある言葉が盛んに入ってきた。「北京に行って、お父さんの会社を継ぐのでしょう?」父は北京で独立して、会社を経営していたのである。『父の跡継ぎ?』、『自分が社長に?』私にとっては丸で現実感の無い話。だが周囲はそうは見なかった。「北京には行きたくない。祖母の事もあるし、第一社長になって会社の経営など、全く向いていない。」当時、自分はフリーター。何とかして自分の進路の確立を、と焦っていたその時、突如バイトをクビになり、無職になってしまった。母にも誰にも言えず、連日バイトに行くフリをした、その結末は?

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今は昔、北京生活的珍道中 〜“日本の昭和30年代”風景 全盛の頃〜 公開:2008年8月25日
−北京オリンピック開催にちなみ−


短編
あらすじ: 2008年8月8日、世紀の大演出か?と思わせる開会式と共に、北京オリンピックが開幕した。25日の閉幕までに多くの感動のシーンが見られ、日本は金9、銀6、銅10の、計25個のメダルを獲得。4位以下の結果も含め、大健闘を見せた。そんな、オリンピックが開かれる街に発展しようなどとは、夢にも思わなかった1980年代、私は父の転勤のため、北京で暮らしていた。前作エッセイでも述べており、既にご存知の方もおられるかも知れない。当地での様々な体験の中には、凄まじいものも少なくなかった。今思えば、何とサバイバルな毎日か?と思う部分がある一方で、のちのちの自分にとって原点となった部分もある。ハチャメチャ痛快、トラブルだらけ。まさに“波乱歓迎”と言わんばかりの、ユニークで密度の濃い日々。あの時代だからこそ楽しめた面も多い北京の生活を、思いのまま綴ってみる。

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我が心のバレンタイン −青春 八重桜物語− 〜亡き愛犬からの恩返しに始まる、遺書にしてもいい様な体験記〜 公開:2009年4月3日
−トコトコ日記開設5周年記念作品−


長編
あらすじ: 私にとって『バレンタイン』というのは、特別に思い出があるシーズンではなかった。ある年までは・・・・・。2006年のバレンタイン、私は、よもやこの人からもらう事は無いだろうと思っていた人から、義理チョコをもらった。その人は私にとって、“想い出の人”であった。時にわたくし、32歳。一生無縁なものと思っていた『青春の喜び』を、この年で初めて味わったのだ。まさに遅咲き。花に例えるなら八重桜だ。義理チョコ自体はどこにでも売っている、普通のチョコであるが、生涯で忘れられない“贈り物”となった。では、何故その人が“想い出の人”なのか?実は出会った時の状況に、その理由はある。あの時あんな状況で出会わなければ、あるいは思い出には残らなかったかも知れない。出会いから5年。実際に逢えたのは数えるほど。しかし数字以上に深い印象と思いが、私の心に刻み込まれている。予期せぬ喜びもあれば、予期せぬ“空振り”もあった、この5年間。一喜一憂に満ちたその日々を、今回克明に再現してみた。義理チョコという事で、「本命をもらった分けでもないのに、オーバーに喜ぶなよ!」と呆れる人もいるだろう。だが『義理』でも、「くれる気持ちが嬉しい」という思いが元々私には強く、従って『本命』をイメージした事は一度も無い。ある意味、生涯で唯一の『バレンタイン体験』であり、いずれ私が死んだら、『遺書』として読んでもらいたいという願いを込めて書いた、この作品である。今後のこの『物語』の行方やいかに?

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40歳からのニューアイデンティティー −広汎性発達障害と診断されて− 公開:2014年4月3日
−トコトコ日記開設10周年記念作品−


長編
あらすじ: 私は生まれてから40年間、健常者として生きてきた。24歳だった1997年8月に、初めて障害者と関わる活動をしたのが切っ掛けとなり、やがて障害者団体に就職。健常者職員として働いていた。ある時、参加した研修で発達障害の事を知る。あまりにも自分と似ている障害に驚きを隠せず、真剣に「自分はどっちなんだ?」と思った。それでも結局は、健常者であるという認識のもと、私は生きていくことになる。『発達障害に近い健常者』、『発達障害は僚友』という気持ちも抱きつつ、ひたすら【健常者の看板】を背負い続ける日々を送ったのであった。ある時期から段々と、【健常者の看板】を背負うことが難しくなっていった。職場の業務環境が苛酷になり、全体の動きと連動しなくてはならない割合が増えたことが原因だった。では、何故そこまで業務環境が変わったのか?全ては国の制度変革の“主産物”であった。卓上仕事の、空論主義の塊よろしくの制度に変わった結果、障害者の相談支援に携わり、なおかつ障害者版ケアマネの資格を持つ者(相談支援専門員)は、激務の渦に放り出されたのである。そんな流れの中で、私は人生の大転換期を迎える事となった。広汎性発達障害と診断されたのである。これを機に、自分の人生を根本から見詰め直し、心境にも変化が現れ始めた。

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