今は昔、北京生活的珍道中
〜“日本の昭和30年代”風景 全盛の頃〜

はじめに
第一章:燕京飯店編
第二章:仕出し弁当編
第三章:市営バス(公共汽車)編
第四章:語言学院編
まとめ

※印刷をして手元で読みたい方は、Word版をどうぞ(写真は割愛しております)



はじめに

 2008年8月8日から8月24日まで、北京オリンピックが開催された。日本勢は、金メダル9個を始め、実に25個のメダルを取り、素晴らしい結果を出してくれたと思う。
 改めて、出場した選手、そして惜しくも欠場となったものの、それまで練習に励んできた選手の健闘を称えたいが、私は全く違う視点からも、このオリンピックを注目していた。いや、正確に言うと、オリンピックが行われた北京の街を、さらに言い換えれば、『北京でオリンピックが開かれている』という状況自体を、注目していたのだ。それもそのはず、私にとって北京というのは、実は非常に縁のある土地だったのである。
 前回公開したエッセイでも述べているが、私は中学生活3年間にあたる1986年4月から89年3月まで、父の転勤のため、北京で生活していた。当時の北京というのは、のちにオリンピックも開かれる様な都市に発展するなどとは想像も出来ない、発展途上国の田舎町だった。長年北京に来続けていた父曰く、「ここは日本の昭和30年代や。」
 なるほど。街では至るところで荷馬車も見られ、また、行き交うトラックも、白黒写真によく登場してくる、昭和20〜30年代のスタイルそのものだった。
 時まさに東西冷戦真っ只中。ケ小平が全盛期の、共産主義バリバリの社会で、人々の顔立ちこそ日本と似ていたものの、風景や常識、そして生活水準はあまりにも日本とはかけ離れていた、当時の北京であった。


 子どもから大人への過度期にもあたる、多感な中学生時代。日本とは全く違う体制の社会の国での、初めての海外生活。私は、今から思えば信じられないような、そして日本では先ず味わえなかったような、実に貴重な体験の数々を、北京でする結果となった。当時は、マイナスに映った事も少なからずあったこれらの体験も、年月を重ねるに連れて大変忘れ難く、味わい深い体験へと、心の中でシフトされていったのだった。
 今は昔の、1980年代の北京の日常風景を、オリンピック開催に因み、いくつかの印象に残ったエピソードについて、ここに綴ってみたいと思う。


第一章:燕京飯店編


 1986年4月、両親と共に北京に来た私が最初に住んだところは、一般の観光用ホテルであった。
 ホテル暮らし・・・・・、もちろん初めての体験だった。
 当時、北京には既に多くの観光用ホテルが存在していたが、私が住んだのは燕京飯店(えんきょうはんてん、『飯店』は中国語でホテルの意)という、数あるホテルの中でもかなり格は下のほうと思われる、中心部からも少し外れ気味のところにあるホテルだった。最もこれは20年以上前の話、現在ではこのホテルも、もっと格が上がっているとは思うが、私が住んでいた頃の燕京は、「よくあんなとこに住めていたな」と思うような、薄汚れた感じのホテルであった。
 部屋は2つ借り、うち一つが、寝室とリビングとがある少し広い部屋で、そこに両親が住んだ。そしてその隣に、ベッドが2つある寝室のみの部屋を借りて、そこに私が住んでいたのだ。部屋は15階、表通りに面していたので、眼下に北京のメインストリートである長安街を眺めることが出来、見晴らしだけは抜群に良かった。2つあるベッドの内の1つが物置代わり(?)となり、壁に面して付いていた、奥行きの浅い机が勉強机となっていたわけだが、机は長さは割りとあったので教科書や辞書を並べるスペースはあり、一応、人の勉強部屋という形にはなっていた。
 「何だか変わった感じだな」と思いながらホテル暮らしがスタートしたが、すぐに慣れた。これは、もともと私が、新しい場所に慣れやすい順応性を持っていたからという事に加え、北京自体が、実は初めてではなかったからというのが、大きかった。私は、小学3年生だった1982年7月〜8月、一度、旅行で北京に来た事があったのである。その時は、父が夏休み中ずっと中国に出張中で日本に帰って来れないということで、代わりに母と私が中国まで父に会いに行ったのだったが、その時に1週間ほど北京に滞在して、天安門や故宮、動物園など、市街地の主要観光地は見て回った。
 今回、北京で生活をするにあたり、父から「ちょっと長めの旅行をしていると思えばいい」と言われていた。その一言も、うまく自分の中に納まったのだと思う。


 さて、ホテルの客室で暮らしているのだから、当然、家で料理をして家庭料理を食べるという事は出来ない。従って、食事は専ら外食であった。燕京飯店自体にも、レストランは2つあった。中華と、洋食である。当然、何回も食べに行ったが、どちらも従業員の接客態度というのは、『日本では有り得ないナンバーワン』であった。のっけから面倒くさそうな、ダラダラした態度で、こちらが何を注文しても、実際にはあきらかに在るだろうに、『没有(メイヨウ=中国語で「無い」の意)』と言ってくる。そして食べ始めたら、いきなり肩をポンと叩いてきて、代金を請求してくるのだ。その際も、単に「○×元(元は、中国のお金の単位)!」と、ぶっきらぼうに言ってくるだけで、「すみません」とか、「いただきます」、「ありがとうございました」という言葉は、先ず聞かれることは無かった。
 接客にうるさい日本人が利用しようものなら、一瞬で血圧が最高値にまで上がっていたことであろう。しかし私は、「ここはもう、こんなもんだ」だけで終わり、取りあえず、中華料理に関しては、さすがは本場、味自体は美味しかったので、「あとはもう、ええわ」という気持ちで利用していた。これに比べて洋食は、これはもう、1回行ったら二度と行くものではない、というような、エゲツナイ味だった。例えば、サンドイッチはパサパサのカチカチ、スープはまるで洗面器のような皿(バケツと言ったほうが早いかも知れなかった)に入れてきて、中には巨大なアスパラガスが1本、ボーンと入っている。そしてもちろん、ぬるかった。極めつけは目玉焼きで、それこそ、スープを入れるのに適しているのでは?というよな深い皿の底に、目玉焼きが沈んだ状態で出てきていた。『沈んだ状態』とはどういう事かというと、『油に沈んだ状態』という事である。つまり、油が皿の上1/3を残すぐらいの高さまでたっぷり入っていて、目玉焼きは黄身のてっぺん部分も油の中に沈んだ状態だったのだ。あれはどう見ても、『目玉焼き入り油スープ』であった。私も一目見るなり言葉が無くなり、『あ、唖然・・・・・』としていたのをよく覚えているが、さすがにオリンピックも開かれた現在では、そのような料理は有り得ないと思われ、古きとんでもなき時代の、貴重な思い出となっている。


 燕京飯店での『痛快メモリー』はまだある。
 恐らく他の部屋でもそうだったのだろうが、私や両親の住んでいた部屋は、とにかくゴキブリが多かった。まあ、小さな物ばかりだからまだマシだったが、記憶している限り、最高で1日28匹退治した事がある。
 それから、これは毎朝、朝食を食べる時の話であるが、ホテルの客室なので、自分の部屋でお湯を沸かす事は出来ず、服務員に頼んで、ポットにお湯を入れてもらっていた。ちょうど私の部屋の斜め向かいぐらいに、給湯室のような部屋があったのだが、何というか、古い学校か病院の給湯室を連想させるような感じだったのだ。今の時代では、とても見られないだろうな、と思う。


 いろいろとギャップや戸惑いも味わった、燕京飯店での日々であったが、いつも横に居た服務員はみんな親切で、気さくに声をかけてくれた。まだ一昔前の公務員のような服装をしていた服務員の姿を、今改めて思い出す。
 母と2人で燕京飯店時代の話をすると、必ずと言っていいほど笑い話になるが、そういう体験が出来たというのも、また幸せなものだ。
 初の海外生活となった北京での3年間の中では、実に3回引っ越しを繰り返して、4ヶ所に住んだ。その第一号となった燕京飯店には、結局7ヶ月住んだのだったが、私の人生の中では貴重な体験として、心に残っている。

北京で最初に滞在した、燕京飯店の部屋。これは両親が
住んでいた部屋で、リビングと寝室の2部屋があった。
この時点で築4年。だが、もっと古く見えた。
私の部屋からの眺め。いつも、通りを絶え間なく走るバスを眺めていた。
道路上、何台もの黒い車がほぼ等間隔で走っているのが見えるが、
これは釣魚台迎賓館に行く車の列である。現在、この道路右方向には
立体交差用の高架道路が延びており、面目を一新している。


第二章:仕出し弁当編


 ホテル住まいで、家で料理は作れず、毎日の食事は外食。という事はつまり、学校で食べる弁当も、作る事が出来ないという事である。北京では、日本人学校の中学部に通っていたのだが、小学部も含めて、給食というのは存在しなかった。従って全生徒が弁当持参だった分けであるが、私のようなホテル住まいの生徒については、学校側が仕出し弁当を用意してくれていて、私は毎日、その仕出し弁当を食べていた。
 弁当は、学校から程近いところにあった日本料理店に、学校が注文をし、出来上がった弁当は、スクールバスで受け取りに行っていた。最初のうちは、全体でも6〜7人、私のクラス(学年で1クラスだった)にも他に2人ほど仕出し弁当組≠ェいたのだが、やがてみんな、台所も付いているまともな“家”に引っ越しをしたのか、弁当持参で登校するようになった。結局、5月の連休が明けた頃には、仕出し弁当利用者は私1人となり、全校生徒(約230人)で唯一、弁当を持って来れない人となってしまった。そしてその頃から、私の昼食状況≠ヘ悪化の一途を辿る様になったのである。
 一人だけのために作るとなると、やはりどうしても『面倒』という感情が出てくるのだろう。ましてや当時の中国は、現在とは違って、資本主義的競争感覚というのは全く無かったから、『一人のお客のためにもサービスを』という精神は、まず存在していなかった。だから弁当は、仕上がりが遅れ放題となったのだ。加えて、弁当を受け取りに行く担当だったスクールバスの運転士も、一人だけのために、自分も昼食をとりたい時間に運転して受け取りに行くのは、抵抗があったと思う。お陰で私が昼食にありつける時間は、どんどん遅くなっていって、しまいには連日、昼休みの後半にまでズレ込む様になってしまった。
 こうなると、ただただ苦痛である。
 ある時は、昼休みがだんだん終わりに近付いたころになってやっと弁当が届き、次の授業開始に間に合うだろうかと、ハラハラしながら食べた。そしてある時は・・・・・、この日は午後からプールの日だった。北京日本人学校にはプールは無く、そのため、スクールバスで10分ほどのところにあるスポーツ施設のプールを利用していた。スクールバスでの集合時間は前もって告げられていたのだが、あまりにも弁当が到着するのが遅かったため、バスに乗り遅れてしまい(バスが発車して行く音を聞きながら、ひたすら弁当をかき込んでいた)、先生の車に乗せてもらって、追いかけたという出来事もある。

中学入学当時の、北京日本人学校。停まっているバスは、スクールバスである。
全て日本車であった。そして校舎は、この当時は中国人用の小学校の2階と1階を借りた、
仮校舎であった。また、この時点ではグラウンドもまだ整備されていない。入学後、その
整備作業も体験した。そしてこの2年後に、日本人学校は新校舎に移転したのだが、
その際の移転作業にも積極的に参加。力の限り働いた事は、大きな思い出となっている。


 来る日も来る日も、みんなが外で遊んだり図書室で過ごすために出払った後の教室で、一人仕出し弁当を食べていた日々。その中身も、ごく一部が変わるだけで、あとはほとんど同じであった。味も別においしいとは言えない。それでも、食べ物にはあまりうるさくない私は、黙々と食べていたのだが、ある日親に弁当について訊かれたので現状をそのまま話したところ、さすがに哀れんだのだろう。何日かすると母がこう言ってきた。
「ホテルの服務員に相談して、内緒でご飯を炊いたり、小型のコンロを使わせてもらえることになった。だから、家から弁当を持って行けるよ。」
「へぇ!?」と私は驚いた。と同時に、こちらの事情をこっそり汲み取ってくれたホテルの服務員にも感謝した。先ほど、ホテル(燕京飯店)について、色々と良からぬ思い出を述べたが、服務員に関しては、こういういい思い出もある。
 かくして私は、ホテルの客室住まいでありながら、晴れて家から弁当を持って行ける様になったのだった。
 不自由な環境の中での調理だから、決してバラエティーに富んだ内容の弁当には、ならなかった。しかし、私は十分であった。他の生徒と同じように弁当を持って登校し、クラスのみんなと同じ時間に食べて、同じ時間に昼休みを過ごせるだけで。
 有り得ないような『時差弁当』も、もうおしまいとなった。この結果、仕出し弁当を利用する生徒はゼロとなり、その後も二度と現れる事は無かった。結局私は、最後にして最長期間の利用者となったのだった。
 遅ればせながら、家から持参の弁当を食べる中学校生活がスタートしたのは、1学期も残り1ヶ月を切った頃だったと思う。


第三章:市営バス公共汽車)編


 北京に滞在していた約3年間、ほとんど毎日の様に利用し、休日ともなれば、市街地へ郊外へと、一日中乗り回していた物、それが、市営バスである。中国語ではバスの事を『公共汽車』と言い、発音としては『ゴンゴンチーチャー』と言う。『汽車』が車を意味しており、ちなみにタクシーは『出祖汽車(ツーヅーチーチャー)』と言う。日本語で『汽車』と言うと、鉄道を指す。では、中国では、鉄道の汽車の事を何と言うのかというと、『火車(ホヮチャー)』なのである。恐らく石炭を焚いて(火をおこして)走ることからこの言葉となったのだろうが(当時の中国の鉄道では、SLがまだまだ現役で、三重連も見られた)、漢字だけを見ると、“火の玉になって走る鉄道”の姿を、イメージしてしまいそうである。
 さて、少し話が逸れたが、北京の市バス(公共汽車)については、ズバ抜けてたくさんの思い出がある。とにかく私は何回乗ったか分からず、当時、まだまだ外国人が乗ってみようと思える代物ではなかった市バスに、断トツで一番多く乗った日本人と見て先ず間違いは無い。そんな、なににも値しないような勲章を、密かに持っていたわけである。

これが、当時北京で最も多く見られていたタイプの、公共汽車。連日酷使された車両は、
かなりくたびれている様にも見える。このカラーのバスの天下だったこの時代、他地方でも、
同色同型のバスを見る事があった。このバスは撮影地点を起点として、2008年五輪で
マラソンコースにもなっていた、中関村に向かうものだった。当時の中関村は、私も何度も行ったが、
狭い田舎道しかない集落地だった。なお、バックの建物は燕京飯店である。


 公共汽車には、82年夏に初めて中国を訪れた際にも、北京と上海で何回か乗っていた。だから、今回、住み始めて最初に乗った時も、初めての乗車ではなかったのだが、改めて、『スゴイワ!!』と感じた。
 何がすごいって、中国では、バスに乗るにあたって、“並ぶ”という概念が無い。2008年になって、オリンピック開催に向けて交通マナー向上の取り組みがなされる様になったが、私がいた当時なんて、「この人たちは、永久に“並んで乗る”事を覚えることは無いだろう」と確信を持ちたくなるぐらい、並ばなかったのだ。
 バスの乗り降りは、まさに決死の戦いのような様相であった。現場となる¥謐~扉は、揉み合いへし合い、押しのけ合いぶつかり合いの、凄まじい“乗り合い模様”を繰り広げていたのだ。少し遠目からだと、3ヶ所の巣に群がる蜂の大群にも見えたりした。「3ヶ所の」というのは、バスの多くは連節バス(2両連結バス)で、扉が3ヶ所有ったからだ。
 バスはまた、入口と出口の違いが無かった。日本だと、稀に例外はあるが、バスは入口扉と出口扉が分かれている。だから、乗ろうとして降りる客の雪崩にブチ当たるというのは無いわけだが、中国だとそれが当たり前だった。ちなみに日本でも電車は乗降扉が同じである。だが、たとえラッシュのピークでも、『並んで乗る』・『降りる人が先』という概念があるだけでも全然違うし、第一、一日中ラッシュアワーというわけではない。北京の公共汽車は、一日中ラッシュアワーであった。だからもし入口と出口が分かれていたとしたら、逆に出口まで辿り着けなかっただろう。
 私は身長もあまり高いほうではなく、また、バスはステップもなかなか高かったため、乗ろうとすると、上から押し被さってくる降りる人の大群が、やたら長身に見えたりもした。また、もみくちゃレスリングさながらの状況をかいくぐって、何とか車内に押し上がろうと頑張るさなかに、横の人からエルボーを食らったり、体当たりを食らったりするのも、当たり前だった。それでも懲りずに公共汽車を『愛用』していたのだから、やはり当時の私は若かったのだ。
 さて、ようやく乗り込んで、車内でもなかなかの怪敵な℃條ヤを過ごしていた。先ず、『身動きする』という言葉を頭から消すべきだという事が、改めてよく分かった。そして車掌にお金を払ってキップを買うのだが、身動き取れない車内の中で、キップを買うのは一苦労だった。ただ、車掌は意外とよく見ていて、あれほどの殺人的混雑の中にあっても、キップを買った人と買っていない人を素早く見分け、ほぼ漏れが無くキップを買わせていた。バス代は当時、日本円にして、均一区間で大人4円、距離別運賃区間では、一番高くて39円、安いと実に、2円であった。ちなみにタクシー代も、当時は一番高いタイプで初乗り128円、7回メーターが上がっても320円という時代だったのだから、この『タダ同然』のバス代もうなずける。こちらのページで、市バスのキップの現物を公開している。


 さて、『タダ同然で乗せてやっているのだから』という思いがあったかどうかは分からないが(でも多分あっただろう)、車掌の乗客に対する態度というのは、これはもう“接客”という概念を完全に消した方が良いと思われるほど無茶苦茶なもので、暴言・無愛想の極致≠ナあった。決して会話や言葉遣いが理解出来るほどには、中国語が上達しなかった私ではあるが、顔の表情とか語気の強さとか、聞いていれば誰でも、乱暴な言い方であるのは一発で分かった。ケンカを売るのは当たり前。いや、本人は敢えてケンカを売っているという意識すら無かった。ただただ乱暴に、「早くキップ買え!」・「降りろ!」・「コラ!ドア閉まらんやろ!もう次のバスに乗れ!」・「ちゃっちゃと(車内に)上がれ!」と、吠えまくっていたのだ。外の通行人に対しても同様であった。中国はとにかく自転車が多い。『人の数だけ自転車がある』と言いたくなるくらいであった。そしてバス停に着く時点では必ず自転車との『通行の奪い合い』があり、車掌が一生懸命自転車の人に、「オラ!邪魔じゃ!どけ!」・「向こう寄れ!」と、やはり吠えていたのだった。日本の、パトカーが交差点などを通過する際の、おまわりのエラそうな言い方のほうが、まだ大人しく聞こえてきた。
 このような、車掌の『暴れん坊乗務』に支配(?)されていた車内だが、乗客で、そんな車掌の態度にクレームをつける人など、誰一人いなかった。客もまた、自分の事を「お金を払っているお客様だぞ」という様には、認識していなかったのだろう。それが証拠にというか、公共汽車は、車両設備の不備は当たり前といった感じだった。例えば窓ガラス、これは窓枠のレールとガラスとがまるで噛み合っておらず、一度開いたら開きっぱなしであった。従って、真冬でも窓が全開のバスはしょっちゅうで、「寒いから窓が閉まるように直せ!」という客もいなかった。窓ガラスが一部割れているバスや、何枚か完全に外れているバスも珍しくなく、割れていても、ケガ人が出たら困るという気持ちは、恐らく無かったに違いない。


 冷暖房というのも勿論、あるわけが無かった。夏はうだるように暑く、しかし冬は意外と寒く感じられなかったのは、着ぶくれした人たちでひしめき合っていたからだろう。ことに夏の車内の衛生環境の悪さというのは、ちょっとしたものがあったが、そんな公共汽車でも、私は好んで乗っていた。車内で文字通り足の踏み場が無く、片足を浮かせっ放しで乗っていたことも、二度や三度ではなかった。おしくらまんじゅうで汗びっしょりになり、手すりを必死に握って腕もよくシビレたが、なかなか味わい深く、面白い乗り物で、私は好きだったのだ。
 北京中、どこへでも行った。恐らく当時、外国人としては私が初訪問となった地は、多かったはずだ。地図にも載っていない、郊外路線の終着駅だ。時刻表なんて存在しないので、果たしてうまくバスが来るのかどうか、一度終点まで乗ったら、帰りのバスがあるのかどうか、所要時間は実際にはどのくらいで、朝に出かけたら夕方までに帰ってこれるのかどうか、全く何にも分からなかった。乗ろうと思っていた路線が運行されておらず、焦ったこともあったが、それもいい思い出だ。

こちらも、一部木と重なって写っているが、画面奥に写るのが公共汽車である。
これは当時走っていた最大寸法車両で、かなり年季が入っていた。手前にいる、
黄色い服を着ているのが、中学入学直前の私である。この付近は、現在はタイル
張りの高層マンションやデパートなどが建ち並び、すっかり大都会と化している。


 我先にと駆け込み、イス取りゲームそのものという光景が繰り広げられたバスの車内だが、私もよく調子に乗って、車内でイスを目掛けて走りこみ、座席をゲットした事があった。もちろん、本気で座りたかったわけではなかったのだが、慣れてくると、案外着席出来たものだ。ただ、他の中国人たちは、座席ゲットに真剣だった。父曰くは、「中国人は毎日激しい労働で疲れているから、バスに乗って休もうとするねん。」という事で、ここは一つ、発展途上国ならではの現状を、見た様な気がした。
 ただし、こうして普段はサバイバルなイス取りゲームを展開している中国人も、一つ、ものすごく感心なことがあった。それは、お年寄りや、特に子どもを抱いたお母さんが乗ってくると、一瞬でサッと席を譲るのである。それはもう、条件反射のような早さであった。
 私もこの点は見習わないといけないと思い、北京でのみならず、日本でも座席は出来るだけ譲るよう、心がけている。


 それにしても・・・・・・、86年8月、4ヶ月ぶりに初めて一時帰国をして大阪でバスに乗った時、そのあまりの違いに唖然としたものだ。全員が一列に並んで、ほとんど声も立てずに静かに乗ってくる。
 「何なんだ、この光景は?」と、思わず眉間にシワを寄せてしまった。
 「もしかしてこの人ら、生きていないのか?この世の存在ではないのか?」とさえ、感じてしまったほどである。時期が丁度、お盆直前だったものだから、なおさらそう感じたのだろう、なんて(笑)。
 日本では、横断歩道を渡る際も、大抵の車は親切に道をゆずってくれるが、中国では、そんな譲り合いの精神など、あったものではなかった。『割り込みは即ち常識』、『何事も我先に』であった。
 向こう側のバス停に早く行きたい時、道路を横切る事もあった。そんな時、車は先ず待たない。それどころか、減速すらしない。道を渡るのは当にサバイバルだった。そんな環境だから、交通事故なんて日常茶飯事。見ない日は無かったぐらいだ。しかし人口が多過ぎるとされていた中国では、人が死んでも、特段ニュースになる事は無かったのだ。


 ・・・・・1998年4月、最後に公共汽車に乗った時は、冷房バスも走っていた。窓にデッカく『空調車(冷房車)』というステッカーが貼られていて、何だか感慨深さを覚えたものだ。
 思えば日本の路線バスも、70年代末〜80年代初め頃、冷房バスが登場したての頃は、窓に『冷房車』と書かれて、アピールしていたものだ。
 広い北京の、いろいろなところに連れて行ってくれた公共汽車。思い返せば、決して上達したとは言えなかった中国語に於いても、バス停の名前やキップの買い方など、バスに乗るために必要な言葉だけは、しっかりマスターしていたものだ。やはり趣味は語学のモチベーションとなるか(笑)?あの、いかにも現地に染まった様な、独特の味というのは、生涯、忘れる事はないだろう。


第四章:語言学院編


 語言学院は、外国人留学生が中国語を学ぶための言語学校で、現在の語言大学の前身である。
 第一章で述べた燕京飯店に住んだ後、北京生活で2番目に住んだところが、この語言学院だったのである。
 「え?学校に住んでいたの?もしかして留学でもしていたか?」と一瞬思われた方もいるかも知れないが、そうではない。私が住んだのは、『専家楼』と呼ばれる、外国人講師用の寮で、では私の親が講師をしていたのかというと、そうではなく、当時は学校と全く関係ない一般人でも、外国人であればこの寮の部屋を借りる事が出来たのだ(現在はどうなのか、不明)。
 ホテル住まいの次は大学の寮住まい。こんなユニークな体験をする人は、同時代に北京に住んでいた人の中でさえ、なかなか見られなかったほどである。たまたま縁あって、語言学院の専家楼に住むことになった私だが、ここでの暮らしというのも、特に最初の頃はとんでもないものであった。


 私は11月中旬から住み始めたので、その後間もなく冬を迎えた。当時の北京の冬は今より格段と寒く、川という川や、池という池は全て凍って、天然スケート場となっていたのだ。気温にして、氷点下15〜17度ぐらいだっただろうか?だから当然、家の中では暖房が不可欠で、夜には暖かい風呂にも入りたいわけだが、そのどちらもが出来ない時が、非常に多かったのである。
 夜、暖房がほとんど効かないというのは、本当にキツいものだった。部屋の中でもコートを、それも昔の中国人がよく着ていた、人民服と言われる分厚いコートを、着ていなければしのげなかった。夜もパジャマの上にセーターを着て、靴下を履くなどして、防寒対策をとっていた。
 専家楼の各部屋は、私が住んでしばらくすると、じゅうたんが敷かれたが、その前は褐色の床がむき出しで、余計に寒さを感じさせられたものである。
 そして風呂。私が住んでいた専家楼という建物の斜め向かいに、大きなボイラーがあったのだが、それが度々故障していたのである。だから、突然お湯が出なくなってしまったり、最初から全く出ずに風呂に入れない日も度々あった。さらに、何とかお湯が出てきても、真っ赤な錆び湯が出てくることが多く、前の日に風呂に入れなかった時など、褐色の錆び湯に浸かって、風呂に入ったことも何回かある。あんな体験は、語言学院だったから出来たのだと思うし、ほぼ間違いなく、人生で二度と味わうものではないと思う。


 相次ぐ暖房や風呂のトラブル。中国語がペラペラだった父が、当然、何回も管理室に苦情を言いに行った。しかし対応は鈍いもので、日本のような、「申し訳ございません。ただちに・・・・・」という態度は、カケラも見られない。というよりも、管理者側の人たちは、何故私たちがそこまで苦情を言うのか、理解出来ない様子だったのだ。
 「まさか。それはないだろう?」と思われたかも知れない。しかし、事実なのである。そしてこの背景には、当時の日本人と中国人との、あまりに激しい生活水準の差があったのだ。
 今でこそ中国人も、日本人や、東西冷戦時代のいわゆる『西側諸国』と同じ水準の生活を送れるようになっていきているが、私が住んでいた当時というのは、一般の中国人の家では、室温が15度以上に上がることは、まず無かったそうだ。風呂も付いていないところが殆どで、付いていたとしても、まともにお湯が支給される日は少なかったとか。語言学院の専家楼の管理人を務めていた人たちの自宅も、当然そうである。そのような人たちにしてみれば、たとえ断続的に給湯不具合や暖房不具合が発生しようと、基本的に自分たちよりずっと恵まれた環境で暮らしていて、よっぽどリッチな思いをしている外国人たちが、なおも不満を口にしてくるというのが、理解出来ないのだ。恐らく心境としては、腹が立つというよりも寧ろ、『キョトンとしている』という方が正解だったと思う。


 寒い部屋に錆び湯風呂、それに停電もよく起こり、夜でも突然部屋が真っ暗になって、懐中電灯が大活躍した。そんな生活に、正直、私も嫌気が差したこともあったし、同じ建物の他の住人(ヨーロッパ人とか)からも、やはり「何とかしろ!」という苦情は出されていたという。しかし、これといった改善がなされる事なく、やがて季節の方が冬が過ぎて春となり、夏を迎えて、次の秋が巡ってきた時、私はみたび引っ越しをして、語言学院から去った。
 語言学院の次に住んだところは、友誼賓館というホテルマンション(コンドミニアム)だったが、北京滞在1年半にして初めて、『まともなところ』となり、迎えたその年の冬は、部屋は暖房が効き過ぎて暑い毎日。外の雪景色とは、あまりにも好対照を成していた。友誼賓館の建物は、戦前のロシア風という、風格あるもの。当時は内部もなかなかレトロな感じで気に入っていたのだが、現在ではすっかり改装され、現代風の内装になっているという。


 3年間北京で暮らした中で、最も長い期間住んだのが、上記の語言学院で、丸1年居た。
 住むにはあまりにも、お粗末伝説≠フ宝庫だった語言学院であるが、いち学校として敷地内を散歩をした時は、なかなか良い風景であった。


 今、あの語言学院(語言大学)は、どうなっているだろうか?
 中国人の生活水準そのものも格段と向上した中で、あの、錆び湯が名物だった専家楼も、今では日本人にとっても住み良いものに、なっている事と思う。

語言学院専家楼全景。今から見れば、至って前近代的な風景である。
当時の入居者の間では、まさに『悪名高き』楼であったが、こういう所に
住んだ体験は、後になればなるほど、味わい深いものとなる。かと言って、
もう二度とこの状況には戻りたくないが・・・・(汗)。家には電話も無く、
廊下(階段)に共同電話が一台置かれていただけだった。一度、私の
部屋の風呂が故障して、空き室だった、向かいの部屋の風呂を借りる
いう事もあった。手前に写るのは、中学1年、13歳当時の私。
こちらは語言の次に住んだ、友誼賓館の様子。敷地面積は
相当広く、公園のような中庭はなかなかきれいであった。
この日は雪景色。建物は画面後ろの方に申し訳程度にしか
写っておらず、形がよく分からない状態であるのは残念だ。
友誼賓館には、87年10月〜88年7月まで住んでいた。4ヶ所
の北京での居住地の中でも、一番気に入っていた所である。


まとめ


 1989年3月、中学を卒業し、本帰国をした私は、その後、89年12月、92年5月、95年12月、そして98年4月と、計4回北京を再訪した。いずれも1〜2週間という短期間の滞在で、最後に訪れたのは、父の追悼式の時であった。
 行くたびに、急ピッチで発展し、近代都市へと変貌していく北京の街を、印象深く眺めてきたが、最後の再訪から既に10年以上。2008年には、オリンピックの舞台となった事で、北京の街のいろいろなところを、テレビで見つめる形となった。ハッキリ言って『浦島太郎状態』で、パッと見てもどこだか分からない。『鳥の巣』と言われる会場の辺りも、恐らく何回も通っているはずだし、土佐礼子選手が惜しくも途中棄権したマラソンを見た時には、実況のアナウンサーが地名を述べるのを聞きながら、「あの狭い道ばかりでクネクネしていた、薄暗い郊外の地区が、マラソンレースを行えるような場所になったのか!!」と、レースもさることながら、道幅など、景色の変貌振りに目を奪われていたものだった。


 街角の屋台で、安い焼き鳥や焼き芋を食べた事、「衛生環境が良くないから、あまり食べない方がいい」とは言われていたが、それでも腹が減ったら、地元の人に紛れ込んで、何回か口にしていた。長めのつまようじの様な棒に刺さったアイスキャンデーもよく食べた。ジュースもその辺のを買って飲んだ。冬になれば、当時大半の中国人が着ていた、草色の『人民服』を、私も北京駅前の店で買って、着ていた。現在も、実家に残っていると思う。
 日本から持ってきた自転車で、中国人に交じって北京の大通りを走った。その時は、『人民大河』の流れの一部に、なったような気がした。
 穴だけが床に空いていて、仕切りも扉も何も無いトイレも使ったことがある。思い出は尽きないが、総じて私は、よく中国人と間違えられた。
 田舎からの旅行者に、普通に道を訊かれたことは度々だったし、外国人しか立ち入りが許されていない居住区や、外国との合弁ホテルに入ろうとすると、いきなり門番に止められた。
 「私は日本人」と中国語で言うと、やはりネイティブの中国人の耳には、どこか発音が変に聞こえるのだろう。あっさりと通してくれたものだ。


 ところで、3年間住む以前に、一度旅行でも訪中したというのは前にも述べたが、やはり旅行として観光だけしているのと、実際に住むのとでは、全然違う。より如実に、文化の違いや、常識・感覚の違いを感じる結果となった。
 正直言って、今、もう一度北京に住みたいか?と言われたら、答えは「ノー」である。
 それは、やはり働いて自立して暮らすとなると、日本が良いという気持ちや、雰囲気や風土の違いが、若い頃より、だいぶ強く感じるようになってきたという実感や、その他いろいろ理由がある分けなのだが、いずれにしても、私の人生における、貴重な一頁になった事だけは確かだ。
 後年、自分と異なる人、自分が見た事の無いタイプの人と接しても、さほど違和感を覚えない性格になったのも、大人になりかけの少年時代に、中国で、いろいろな人種の、いろいろな国の人を、日常的に見ていた事が強く影響しているのは、先ず間違いない。ある意味において、のちの人生のための、大きな原点となったのだ。


 そんな、いろいろな思いを巡らせながら、少し『まとめ』が長くなった北京珍道中記は、この一言と共に終わる。
 『謝々!』
 

(完)


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