弘前→恐山→盛岡→日光旅行 [その2] 撮影:1994年7月27日
全ての写真の右側に解説文があります 弘前城の正門前です。1994年7月の撮影ですが、なかなか歩道がよく整備されており、幅も広く、今で言えばバリアフリーになっているなぁと感じます。
左端に半分ほど写っているバスは、これも旧式のモノコック型車両で、今見れば非常に懐かしいです。


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3枚まとめて解説いたしますが、まず一番上は、弘前城の入口です。だいたいお城の入口というと、こういう感じですよね。
そしてまん中の写真は公園の中のようすです。好天にも恵まれて、まさに緑豊かな公園の散歩日和でしたね。確か昔懐かしき木のリアカー(荷車?)のような物で、アイスクリームを売っていた人がいたのを覚えています。一本買いましたが、味もまた昔懐かしき、こざっぱりした、ちょうど小さい時に食べたような味でした。
さて、1番下は、弘前城天守閣です。一番上まで上りまして、内部は資料館のようになっていました。
遠く、弘前のお城に入った私、意外と大阪城の天守閣には一回も入ったことがなかったりします(笑)。






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弘前城を訪ねた後、私は1番上の写真に写っていたような“年代物の”バスに乗り、弘前駅へ、そこからJRで青森へ向かいました。そして青森から下北半島方面へ向かう列車に乗ったのですが、それが左の写真です。この車両、単行運転ですが、『快速しもきた』と書かれています。写真右方向には、港が広がっていますね。青森駅には、乗り換えのためだけに来たので、外に出てはいません。しかし85年8月、1回目に来た時には、来る時に寝台車で青森まで乗り(当時は青函連絡トンネルが開通していなかったため、青森が終着駅)外に出て、市内のホテルに泊まりました。
さて、この日はここから写真の車両に乗り、下北半島のふもとの、とある駅に向かいました。


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上の写真の最後に書いた、『とある駅』というのがこの駅です。駅の外に出てから撮影したものですが、『のへじ駅』。漢字では、野辺地と書きます。この日(7/27)はここに泊まる事にしていたのですが、事前に宿泊ガイドなどを見ても、野辺地駅周辺で泊まれるところは全く見付かりませんでした。今みたいなインターネットが、まだ無い時代、結局現地に着いてからぶっつけ本番で探すことにして、やってきたのでした。特に観光地でもない場所だけに、宿があれば部屋は空いているだろう、と読んでいました。しかし、もし一軒も無かったら・・・・・?多少は不安も無くはなかったですが、この写真撮影後、回れ右して少し歩くと・・・・・、ほどなくありました。それも道を挟んで向かい合わせに2件。結局、最初に目に止まった方(?)に泊まる事にしました。部屋は期待通り、空いていました。


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さて、さしたる観光資源もない、この『野辺地駅(東北本線)』に、一体何をしに来たのかと言いますと、この写真の奥のほう、ちょうど橋上通路の一番向こう側をご覧下さい。なにやら小さな列車が停まっているのが見えないでしょうか??そう、これこそ、私がはるばるこの地までやってきた目的だったのです。この駅は、“元祖レールバス”が走り、鉄道愛好家の間ではつとに有名だった、南部縦貫鉄道の起点駅だったのです。この鉄道に、私もいち鉄道好きとして乗りに来たのでした。
写真ではよく判りませんが、橋脚の一番奥の方に看板が掛かっていまして、
『レールバスに乗って、東八甲田家族旅行村へ 七戸町』と書かれています。そう、この鉄道に乗客を誘致するための、PRだったのですね。


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上の写真に小さく写っていた南部縦貫鉄道のレールバス、こちらでハッキリと登場です。レールバスというのは、読んで字のごとく『レールの上を走るバス』です。ふつう、バスというのは道の上を走るものですが、これはバスそっくりの構造をした車両が、レールの上を走行するというわけです。確かに見るからに姿・格好がバスに似ています。大変ユーモラスな、面白い形をしていると思います。キハ10と呼ばれるこの車両は、南部縦貫鉄道が開業した1962(昭和37)年に造られました。その当時に標準的とされていたバスの形をモデルにしているため、非常に丸っこい、懐かしい形をしていますね。全国でも、このレールバスの存在は極めて貴重でした。一体走り出したらどんな乗り心地なのか、興趣に満ちた気分で乗ったものです。


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レールバスの車内です。窓の形状が、いかにも昔のバスソックリで懐かしさと、そこから来る味わい深さを出しています。ピンクを基調とした色は、外の上半分の色とよく似ていますね。そしてシートは青で、表面はビニル製でした。つり革が非常に間隔を空けて、付く時は2つペアで付いているというのが面白いですね。
さて、この写真には、何人かの乗客が写っていますね。みなさん女性で、別にカメラを持っているわけでもなく、どう見ても普通の乗客です。この時私の後ろには、数人の男性客もいたのですが、みんなカメラを手にしていて、いかにも愛好家といういでたちでした。「この人たち(男性客)は、絶対終点まで乗って、そのまま乗って帰ってくるだろうなあ」と予想し、結果はその通りだったのですが、何と!!この女性客もひとり残らず、終点まで乗って、そのまま折り返しの便で帰ってきたのです。途中下車ももちろん無し。つまり、乗客全員が、この鉄道に乗ること自体が目的で来ていた『観光客』だったのです。これにはさすがに驚きましたが、これは言い換えれば地元の定期客が一人も乗っていないという事。それを考えた時、この鉄道の行く末に改めて暗いものを感じ、何となく同情の思いを寄せてしまいました。


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レールバスの、運転席付近です。運転台は、1960年代前半に出来た車両としては、なかなかコンパクトにまとまった、近代感も持たせるものだなと感じました。ドアの形状も、昔のスクールバスみたいな感じで非常に味わいがありますが、実は手動で、私も何回か手で自由に開け閉めしました。あえて自動にする必要もないというのはよく分かりますが、けたたましい発車ブザーに、「扉が閉まります。駆け込み乗車はご遠慮下さい」というアナウンスをいやという程聞いている都会人から見ると、何とものどかな光景で、ある意味うらやましくもなりました。


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レールバス、こと南部縦貫鉄道の終点、七戸駅です。前に写る建物が駅舎で、いったん外に出ての撮影です。まん中の左端に、わずかにフェンスが見えますが、この中はテニスコートになっていました。超ローカル鉄道の終着駅の前にテニスコートがあるのは、ちょっと予想しませんでしたね。駅舎の建物は、特に2階の窓の配列具合が、昔の学校の校舎を思わせます。
この場所に、東北新幹線の七戸駅が出来るという計画が、昔からあります。事実、南部縦貫鉄道は、東北本線と新幹線の新駅とのパイプ役を果たすという構想で開通したのでした。しかし、その構想が陽の目を見ることはありませんでした。
開通から約35年、1997(平成9)年5月5日を最後に、ユニークなレールバスで愛好家の間ではつとに有名であったこの鉄道は営業を休止し、その後、正式に廃止となりました。終点だったこの駅は、現在も駅舎やレール、それに車両が保存されており、一般公開がなされることもあるという事です。


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七戸駅構内にある機関庫です。聞き慣れない言葉だと思う人もいるかも知れませんが、要は車両基地ですね。左側に写っているかなりデッカイ車両は、元国鉄の車両で、キハ104といいます。大型で、混雑する時に走らせるという事だったのですが、この時点ではもう、一日を通じて混雑するという事はなく、車庫の中で眠ってばかりいるようでしたね。
右側にわずかに写るのは、かつて貨車を牽引していた機関車ですが、1984年度限りで貨物の取り扱いが廃止になり、その後は車庫の中で、なかば『失業状態』の日々が続いていました。


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七戸駅にて待機するレールバスを、上の写真の機関庫の前から撮影しました。終着駅ということで、レールは2本敷かれていますが、この時点で列車は一日5往復。これでは向かって右側の、2本目のレールは必要ありませんね。事実、右側のホームも、小さな木が植わっていたりして、プラットホームとしての姿を留めなくなっています。


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七戸を発車し、起点である野辺地へ向かうレールバス。先ほども書いた通り、乗客は全て、来た時と同じ人で、この便で新たに乗ってきた人というのも、いませんでした。
さて、この写真で注目していただきたいのは、運転士の右手とその下です。この右手の伸ばし方、そして運転士の姿勢、まるでバスみたいですよね。これはちょうど、ギアチェンジをした瞬間を撮ったものなのですが、レールバスは、車両の格好のみならず、運転方式までバスに近いものだったのですね。このような長い棒状のギアは、昔のバスの運転席にはよく付いていたものです。前方に延びるレールが、光が入りすぎて見えないのが残念ですが、とにかく運転のやり方としても、鉄道とバスの『らしさ』が見事にコンバインしている事を表そうとした1枚です。そして音のほうも、ギヤーン!ガガガガ、ギュヤーン!という感じで、文字では表せませんけど、期待に違わず、豪快な、そしてやはり少しバスに近いかな?と思う音でした。


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野辺地に到着したレールバスを、橋上通路から最後に撮影。それにしても、プラットホームもなんとくたびれている事でしょう。この写真を撮った瞬間、もう二度とこれに乗ることはないだろうな、と思いました。果たしてその後3年以内に、この駅には姿を見せなくなりました。私が乗った中で、最もユニークな鉄道だったと言えるでしょう。


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南部縦貫鉄道に別れを告げた私は、次なる目的地、十和田観光鉄道へ向かいました。
十和田観光鉄道は、三沢市と十和田市を結んでいる鉄道です。
左の写真は、野辺地から三沢に向かうJRの普通列車(東北本線)です。上のほうは車内での撮影ですが、ご覧の様に、本来なら隣の車両に移動するための貫通扉の向こうが、何もなしの状態になっています。つまり、この部分が最後尾になっているわけで、貫通扉の前に立つと、思い切りスピード感を味わう形で、外の(後方の)景色を堪能することが出来ます。まるで景色が電車の両脇と下から、向こうにむかって走っていく様に見えました。このように、一番後ろの車両で、後ろ端ギリギリまで乗客が行けるという列車は、そう多くは見かけません。下の写真は、三沢で下車後、その車両最後部を撮影したものですが、乗務員室も何もない、編成の中間に入るはずの車両が最後尾となっています。ローカル運転用の客車ですが、色は寝台特急のブルーとレインと同じものになっています。


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三沢駅でいったん外に出て、間もなく十和田観光電鉄の駅を撮影しました。
ちょっと遠くからの撮影となって、何故もう少し近くから撮らなかったのだろう?と、今となっては不思議に思っています。駅舎もちょっと白色の光が強過ぎてよく見えないですね。十和田観光電鉄は、車両が白に少し渋めの赤色の帯をしているという塗装のため、駅もそれに合わせて、白を基調に屋根の角部分を濃い赤に塗られていました。


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十和田観光鉄道の終点、十和田市駅にて、構内引込み線を撮影しました。線路にはかなりペンペン草が茂っておりますが、車両もしっかり待機していました。写真中央付近に移る電車は、この鉄道オジリナルの車両です(形式は3400形と思われる)。


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十和田市駅ホームにて、三沢に戻る電車を撮影しました。旧型ながら正面の大型ライトが目立つこの車両は、元東急電鉄の車両で、3800形といいます。1980年代半ば頃まで、東急ではかなりよく見られた車両です。十和田観光電鉄では白に赤帯の色ですが、東急時代は緑色をしていました。列車は単行、つまり1両のみでの運転ですね。
電車の後方に写る橋上通路は、左側にあるデパートと直結していますが、このデパート、結構な広さだったと記憶しており、地方の中小私鉄としては、かなり異色ではないのか?と思いました。思ったより全体の雰囲気がモダンだったです。そして駅ホーム左側の道路には、バスも2台写っていますが、バスも鉄道と色調をそろえた、白に濃い赤の帯となっています。


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上の写真の、3800形車両車内です。写真は十和田市側の車端部なのですが、ご覧の通り、半室運転台となっています。実はもともと東急時代の3800形は片運転台車両で、この部分は全部客室となっていました。それを、こちらで単行運転するのに伴い、客室の半分だけを運転室にする改造が行われたのです。従って十和田市に向けて走っている時は、向かって右側の座席の一番向こう側に座った人は、運転士よりも前方の景色に近い位置、それこそ、窓ガラス1枚を隔ててそのすぐ向こうが外の景色、という状況で前方を楽しめることになります。まさに前方の見晴らしを堪能する人にとっては特等席ということになりますが、このような特等席も発生する半室運転台というのは、戦前は大阪の地下鉄でもよく見られていました。因みにこの車両、反対側の車端部は、客室と乗務員室が完全に区切られている、いわゆる普通の電車と同じ構造(全室運転台)をしています。車内は淡いグレーを基調に座席は緑という色合いですが、これは東急時代のままの色合いです。外の(車体の)色から受けるイメージと、大分ギャップがあるようにも感じました。


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三沢駅に戻ってきたところで、駅前周辺を撮影しました。『北彩紀行 あおもりへ』と書かれたのぼりが一際目立っていますね。もうだいぶん薄暗くなっていました。ここで夕食を取り、その後また、宿を押えている野辺地に引き返しました。


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